石見銀山で莫大な銀を産出した大久保長安だったが……。写真は石見銀山(写真:Tangrowth / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集めた「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の番外編として、信玄と家康に仕えた大久保長安の半生と、悲惨な最期を紹介する。

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鉱山の直営化に尽力した大久保長安

新しい社会をつくっていくにあたって、財政の問題は避けては通れない。徳川幕府を開いた家康が、京都所司代の板倉勝重と同様にその実力を評価していたのが、行政を担った大久保長安である(板倉勝重については前回記事:『身内に甘い家康が「実力で重宝した」ある男の凄さ』を参照)

この長安への処遇からも、家康が家臣との人間関係において何を重視したかがよく理解できる。それと同時に、家臣が不正を働いたとき、どのように対応したかもこのケースからはうかがい知れる。

家康は京都、伏見、堺、奈良、伊勢山田、長崎などの主要都市に奉行を置いて、直轄化して支配を進めた。とりわけ重要な京都所司代には、奥平信昌を任命。その後、板倉勝重がその任を引き継いでいる。

それと同時に、鉱山の直轄化も推進した。佐渡金山、石見銀山、生野銀山、甲斐黒川金山、伊豆各地の金銀山などである。その経営を任されたのが、代官頭の大久保長安だった。

長安は天文14(1545)年に、猿楽師だった大蔵太夫の次男として生まれたとされている(『当代記』)。猿楽とは能と狂言で構成される現在の能楽にあたり、猿楽を演じる役者を「猿楽師」と呼んだ。

代々猿楽師を家業とする家に生まれた大久保は、父とともに甲斐国へと流れつき、武田氏と主従関係を結ぶ。長安の賢明さを見抜いた信玄によって、家臣へと取り立てられることになる。長安は、武田氏の蔵前衆として、金銀や米穀の管理を行った。

しかし、長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に敗戦すると、武田家は衰退。天正10(1582)年に武田家は滅亡することとなる。

すると、長安は家康に見出されて、そのもとで仕えた。前回記事で紹介した板倉勝重とは、いわば同じ中途入社組ということになろう。

家康のもとで鉱山経営で頭角を現す

長安もまた勝重と同じく、家康の関東転封を機に出世している。甲州街道が通る交通の要所、八王子の代官頭を任せられると、正確な検地によって財政を潤わせた。


八王子にある大久保長安の陣屋跡(写真: みき / PIXTA)

行政マンとしての働きぶりを評価され、関ヶ原の戦いののちは、10カ国の支配を任されるまでになった。そのなかでも、重要な任務が鉱山経営である。

勝重の場合はその実直さを武器に名奉行として庶民から慕われたが、長安はアイデアと組織力に長けていた。

採掘においては、甲州流の採鉱法を導入。横穴を掘り進める坑道掘りによって、鉱脈を広く深くたどることに成功した。

さらに、石見銀山では、ポルトガルから伝わる「水銀流し」とも呼ばれるアマルガム法で、莫大な銀を生産。慶長11(1606)年から慶長12(1607)年にかけての1年間で、幕府に納められた銀の量は1万貫以上に上り、実際の採掘量はその何倍もあったとされている。

組織力については、優れた山師を配下に置いて差配し、産額を飛躍的に伸ばすことに成功。女性が鉱山に入るのはタブー視されていたが、女性にもどんどん採掘させたという。

また政略結婚を巧みに行うことでも、長安は確固たる地位を築いていく。

莫大な富を手にした長安は、贅沢な暮らしを存分に楽しんだ。そうして景気よく振舞うこともまた、新しい時代の到来を、庶民に印象付けたことだろう。

家康が重宝した勝重と長安。ベテランの家臣という点では、共通する2人だが、タイプはまるで異なる。

勝重は町人から賄賂を一切受け取らなかった。それどころか、私情を挟むことのないように、妻に仕事に口出しをすることを禁じたという。

窮屈なほど清廉潔白で公平かつ着実に業務にあたった勝重と、アイデア豊富で行動力抜群だった長安。勝重に奉行を、長安に鉱山経営を任せたことは、家康が得意とした適材適所な人事配置だったといえるだろう。

金銀山の経営で結果を残した長安は、その後も、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官と順調に出世を果たす。余人に代えがたい人材だったのだろう。中風にかかったときは、心配した家康から烏犀円を与えられている。

烏犀円とは、健康オタクだった家康が自ら調合し服用した薬だ。作り方は家康しか知らず、めったに人にあげることはなかった。それだけ、長安を評価していたということだろう。

長安の死後に一族は厳しく処罰される

だが、慶長18(1613)年、69歳で長安が没すると状況は一変する。

亡くなってから数日後に、家康の命令によって葬儀は中止され、長安の陣屋を捜索。その結果、金銀を隠匿し、政府転覆を計画していたとされ、多額の蓄財はすべて没収されてしまう。

それどころか、近親者や親しい者たちは、知行を削られたり、改易させられたりしている。なかには、切腹を命じられた者までいた。

疑惑の真相は明らかになっていないが、長安の奔放ぶりが目に余ったのだろう。

なにしろ、長安は佐渡、石見や諸国の金銀山に出向く際は、豪華な船2隻に250人もの従者を従えた。飲めや歌えやと大騒ぎしながら、好き勝手に振舞ったという。

きちんと働いたものはそれだけ報われるが、不正があれば、どれだけ密な人間関係があろうとも、容赦なく裁く――。そんな姿勢をみなに打ち出すことも、家康が長安に厳罰を処した目的だったのかもしれない。

長安の死去した翌年、慶長19(1614年)に、家康は大坂冬の陣によって、豊臣家と対峙する。豊臣公儀と徳川公儀が併存する二重公儀体制の時代が、いよいよ打破されようとしていた。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
馬場憲一、村上直『論集代官頭大久保長安の研究』 (揺籃社)
川上隆志『江戸の金山奉行 大久保長安の謎』(現代書館)

(真山 知幸 : 著述家)