私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第25回
非エリートが見てきた日本代表とW杯の実像〜中村憲剛(2)

 イビチャ・オシムが脳梗塞で倒れたあと、その後任として日本代表の指揮官となった岡田武史は、2010年南アフリカW杯アジア3次予選のバーレーン戦(2008年3月)に敗れて以降、徐々に選手を入れ替えて"自分のチーム作り"に着手していった。

 そうして、W杯最終予選で確実に勝ち点を積み重ねていくなか、2009年1月の2011年アジアカップ・カタール大会の予選では若手主体でチームを編成。そこでは、中村憲剛がキャプテンとして、チームをけん引した。

 その後、2月のフィンランドとの親善試合でも中村は先発フル出場。チームの勝利に貢献したが、直後のW杯最終予選の大一番、オーストラリア戦ではメンバー外となった。

「1月の試合ではキャプテンをやって、(その後の)親善試合にも出場したのに、肝心な大一番の試合のメンバーから外れた。もう衝撃的すぎて、『こんな世界があるのか』くらいに思いました。本当に腹が立って、『これは無理だ』って思いました」

 中村は、このシリーズで岡田からの信頼を感じていたからこそ、それがまたショックでもあった。

 それでも、続く最終予選のバーレーン戦で再招集され、チームに合流。5月のキリンカップ、チリ戦(4−0)とベルギー戦(4−0)ではボランチではなく、4−2−3−1のトップ下を任された。

 そのまま、勝てば南アフリカW杯の出場が決まる最終予選、アウェーのウズベキスタン戦でも中村はトップ下でスタメン出場した。

「キリンカップからトップ下に入るように言われて、『急にどうした? 何があったんだ』と思ったんですけど、スタメンはどんな形であれ純粋にうれしかったです。ボランチのヤットさん(遠藤保仁)とハセ(長谷部誠)とどうやって三角形を作るのか、最前線のオカ(岡崎慎司)や2列目のシュンさん(中村俊輔)、(大久保)嘉人が生きるようにどうやってゲームを作るのか、考えてプレーしました。

 ウズベキスタン戦は超がつくアウェーの緊張感がある雰囲気のなか、相手が本当に強くて、先制点を取ったもののそこからは防戦一方でした。さらに、終盤になってハセや岡田さんが退場してしまう事態に陥りましたが、みんなで一丸になって『ここで決めるぞ!』という気迫がベンチからも感じられました。どアウェーの中でのギリギリの勝利、最終的にW杯出場を決めた試合でピッチに立てたことは、すごくいい経験でした」

 日本はウズベキスタンに1−0で勝って、1998年フランス大会から4大会連続となるW杯出場を決めた。中村は、安堵の表情を浮かべた。

 だが、これでW杯のメンバーに入れると決まったわけではない。しかも、中村はW杯イヤーの2010年2月、AFCチャンピオンズリーグの城南一和戦で顎を骨折して戦線離脱。全治6〜8週間と診断された。中村は「(W杯出場は)もう終わった」と病院で涙したという。

 W杯出場という夢の実現を目前にして、まさに苦境に立たされた中村だったが、彼の"雑草魂"が失せることはなかった。一度は諦めかけたが、すぐに気持ちを切り替えて、懸命にリハビリに励んだ。その甲斐あって、W杯メンバーが発表された5月10日、その名が呼ばれた。

 ただ、中村がチームを離れていた際、日本代表は4月の親善試合、セルビア戦で0−3と惨敗を喫した。そのうえ、中村も復帰して途中出場したW杯壮行試合、韓国戦も0−2と苦杯をなめた。

 その間、日本代表に対する期待はどんどん萎んでいって、岡田の代表監督更迭論まで飛び出していた。韓国戦に負けると、そうした声はさらに膨らんで、チームは暗澹たるムードに覆われた。

「韓国戦で負けたあとは、『これ、ヤバい』って感じでした。サポーターも、メディアもそうだし、自分たちも『このままW杯に行って大丈夫なのか』という大きな不安が生じていた」

 韓国戦の翌日、「岡田監督更迭か!?」といった報道が流れ、選手たちもざわついた。そうしたなか、埼玉スタジアムのサブグラウンドでリカバリーの練習が行なわれたが、選手、スタッフ誰もが何もなかったかのように振る舞い、それがまた、異様な雰囲気を醸し出していた。

 W杯本番を前にして、前線からのプレスが機能せず、結果も出せなかった日本代表は、間違いなく危機的な状況にあった。そこで、岡田は日本を出発したあと、その状況を打開するために大きな賭けに出た。レギュラーメンバーを入れ替え、システムも変更。キャプテンまで交代した。

 その"荒治療"によって、本番直前のテストマッチでは一定の効果が見て取れた。イングランドに1−2、コートジボワールに0−2で敗れたものの、初戦の4日前に行なわれたジンバブエとの試合(30分×3本)では、課題の守備が安定し失点なく戦えた。

「イングランド戦、コートジボワール戦と4−2−3−1で戦ってきて敗れ、(テストマッチ後の)コートジボワールとの3本目の練習試合で4−3−3というか、4−1−4−1というシステムを初めて試したんです。僕もその3本目に出場しましたが、『このシステム、結構いいかもしれない』と思いました。その後、どうするんだろうなと思っていたら、ジンバブエ戦でもそのシステムをそのまま採用。

 それまでは前からプレッシングをして、連続して展開していく感じだったんですけど、基本的に守備ブロックをしっかり作ってカウンターという形へ。(内容的には)耐える戦い方でしたが、阿部ちゃんをアンカーに置く形がチームとしては機能していた。(本田)圭佑を最前線に置いて、『(本番も)このスタイルでいくんだな』と思いました」

 本番を間近に控えての大胆な戦術変更。それによって、チームには微かな光が見え始めていたが、選手たちは複雑な思いを抱えていた。特に、それまでレギュラーだった選手たちの空気は明らかに重かった。

「正直、シュンさんにはなんて声をかければいいのか、わからなかったです。シュンさんはそれまでいろんなものを背負ってきていたのに、(W杯本番)10日前に外れて......。その悔しさは想像を絶するものだったと思います。自分ですらこんなに悔しいんだから。

 救いになったのは、(川口)能活さんやイナさん(稲本潤一)たちの存在です。キャリアのある先輩方が悔しさを抱えながらも、それを表に出さずに率先して声を出して、積極的かつ全力で練習をしていた。その姿を見て、自分が『ここでやらないはないな』と思ったんです」

 それでも、小さい頃から夢見てきたW杯の舞台である。試合に出たい気持ちは、レギュラーを奪われた選手同様、強かった。

 その気持ちを抑えきれなくなった中村が、川口の部屋を度々ノックした。中村は「能活さん、試合に出たいです」と、正直は思いを吐露した。すると、川口は「そうだよな。でも、おまえなら十分にやれるし、絶対に出番がくる。最後まで絶対に諦めるな。一緒に頑張ろうぜ」と力づけてくれた。それで、少しは気分が落ち着いたという。


南アフリカW杯ではベンチを温めることになった中村憲剛(右)。川口能活(左)の存在が心の支えになったという。photo by YUTAKA/AFLO SPORT

「能活さんとはバスの席も隣で、いつも励ましてくれて、ほんと救われました。あと、能活さんやイナさん、ナラさん(楢崎正剛)らが腐らずに率先して練習していたのは......これは推測ですけど、2006年ドイツW杯での悔しい経験があったからなのかなって思いましたね」

 実際、この時「ドイツを忘れるな」という言葉が、2006年W杯経験者から囁かれていた。そして、同じ失敗を繰り返さない――という思いが深く浸透していた。

 ただ、新システムに誰もが確固たる自信を持っていたわけではない。多少安定したとはいえ、それまでにチームとして積み重ねてきたことをゼロにした、本番目前のドラスティックかつ、急な変革である。結果が出ればいいが、出なければ、チームは空中分解しかねない状況にあった。

 中村は大きな不安と緊張感を抱えて、初戦のカメルーン戦を迎えた。

 だが、そんな中村の、さらにはチームの不安を一掃したのが、本田のゴールだった。日本はその虎の子の1点を守りきって1−0と勝利し、大事なW杯初戦をモノにした。試合後のロッカールームは、まるで優勝したかのような、お祭り騒ぎになった。

「W杯での勝利はこんなに凄いものなのかと思いましたね。1勝の重みは、小学生の頃から試合をしてきて山ほど感じてきましたが、改めて1勝でこんなにチームが変わるのかって思いました。

 初戦を前にしての(選手間での)ミーティングでは、前の選手も、後ろの選手もみんなが言いたいことを言う感じで、どうまとまるのかという状態でした。でも最後は、(田中マルクス)闘莉王が『オレたちは一番ヘタクソなんだから、泥臭く、這いつくばってやるしかないだろう』と言って、みんな納得した。

 だからといって、変更したシステムが本当にうまくいくかどうかは、ふたを開けてみなければわからない。試合前のロッカールームには不安と緊張感しかなかった。

 けど、勝ったことでそれから解放されて、ポジティブなエネルギーが生まれ、一体感が増した。腹をくくった大人たちが覚悟を持って真剣に戦い、そのうえで結果を出すと、あんなに深かった霧と闇がこんなにスパっと晴れるんだって思いました」

 続くオランダ戦は0−1で敗れたが、選手たちはすぐに気持ちを切り替えた。次のデンマーク戦に向けて、ポジティブな姿勢を見せた。その姿を見て、中村はチームの勢いを感じた。

 そして実際、日本はデンマーク相手に3−1と快勝。戦前の予想を覆して、グループリーグ突破を決めた。

 しかし、それまでの3戦で中村の出番は回ってこなかった。

「そりゃ、試合に出たかったですよ。子どもの頃から憧れた大会で、それに自分が参加して、チームメートがラインの向こう側で戦っているんですから。"試合に出たい"という気持ちがなくなったら、サッカー選手をやめたほうがいい。その気持ちが、自分が試合に出る時のエネルギーになる、ということをそれまでのサッカー人生で学んできました。

 腐って、人のせいにして諦めていたら、試合に出られないし、そんな選手はチャンスももらえない。デンマーク戦に勝って、決勝トーナメントにいけば、必ず自分にチャンスはあると思っていました」

 ラウンド16の相手はパラグアイに決まった。グループリーグでは出場機会のなかった中村だが、「次の試合は自分がプレーする」と、確信めいたものを腹の底で感じていた。

(文中敬称略/つづく)◆中村憲剛が見返すたびに後悔する南アフリカW杯でのワンプレー

中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都小平市出身。久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに加入。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグMVPを受賞。日本代表、通算68試合出場6得点。ポジション=MF。身長175cm、体重65kg。