ジョシュ・ホーキンソン「まだ途中だけどスラムダンクを観ている」有名になって困ったことも
ジョシュ・ホーキンソン(サンロッカーズ渋谷)インタビュー前編
2023年の日本バスケットボール界の「顔」を挙げるとすれば、そのうちのひとりはアメリカ・ワシントン州シアトル出身のビッグマン、ジョシュ・ホーキンソンに違いないだろう。
今年2月に日本への帰化申請が承認されたホーキンソンは、すぐさま日本代表に招集されて今夏のFIBAワールドカップに出場。鬼神の働きでパリオリンピック出場の切符獲得に大きく貢献した。その後、全国のテレビコマーシャルに出演するなど、一躍「時の人」となった。
大学卒業後にB2のチームから地道に実力を積み上げてきた28歳は、どのような道のりを歩んできたのか。日本を沸かせたFIBAワールドカップの思い出、大補強の目玉として加わった新天地・サンロッカーズ渋谷の近況、2024年に控えるパリオリンピックの目標などを聞いた。
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一躍人気者となったジョシュ・ホーキンソン photo by TOBI
── 今夏のFIBAワールドカップで日本代表は過去最高の勝利数を記録し、パリオリンピックの出場権を手に入れました。ホーキンソン選手の加入が日本代表チーム躍進のカギだったと思います。帰化を決断するまでに、当初はどれほど悩まれたのですか?
「帰化のことを考え始めたのは、僕がファイティングイーグルス名古屋での最後の年(2019-2020シーズン)。ニック・ファジーカス選手(C/川崎ブレイブサンダース)が帰化を決断し、日本代表でプレーしているのを見たことが刺激になって、翌年に信州ブレイブウォリアーズへ移籍してから帰化のプロセスを本格的に始めたんだ。
※ポジションの略称=PG(ポイントガード)、SG(シューティングガード)、SF(スモールフォワード)、PF(パワーフォワード)、C(センター)。
だけど、日本人への帰化申請は本当に厳しかった。6年連続で日本に住んでいて、その期間はたしか1年で2〜3カ月以上、日本を離れてはいけないといった要件があった。日本語の試験もあったし、『なぜ日本人になりたいか?』というエッセイも書かないといけなかったし、役所の人との面談もあった。膨大な書類を提出しなければならなかったね」
── 帰化をするためのプロセスは、やはり大変なのですね。
「日本のプロセスは、ヨーロッパやほかのアジア各国のものよりもずっと厳しいと聞いた。ほかの国だと、その国の言語を必ずしも話せる必要がないところもあるようだし。
だけど、この帰化申請の過程を経ることができてよかったと感じている。これをやり遂げたからこそ、日本人になれたことにより大きな感謝の念を覚えられたし、より日本代表になりたいと思わせてくれた。帰化までの過程が大変だったので、今も代表でいいパフォーマンスをしたいと強く思いながらプレーをしているよ」
── その言葉どおり、ワールドカップでのホーキンソン選手は高いパフォーマンスで活躍しました。今回のワールドカップで最も印象に残っている試合は?
「フィンランドとの試合(98-88で日本が勝利)かな。日本はこれまでワールドカップでヨーロッパの国を破ったことがなかったし、個人的には大学時代に対戦している(NBAユタ・ジャズのラウリ・)マルカネンとも再び対戦ができたから。
マルカネンに対して、また世界に対して、僕が大学時代からどれだけ成長し、彼のようなハイレベルなNBA選手と対等にやれることを見せたかった。だから、ああいった舞台で自分の力量を示すことができて本当によかったよ。
もうひとつ強く思い出す試合は、最後の(順位決定ラウンドで勝てばパリオリンピック出場が決まる)カーボベルデ戦の終盤。僕がコーナーから3Pを決めて勝利を決定づけた場面も印象深いね」
── 最終クォーター、日本はカーボベルデに追い上げられながら吉井裕鷹(SF/アルバルク東京)が中央からドリブルで中に切れ込み、ホーキンソン選手にパスしたシーンですね。ホーキンソン選手はあまりにワイドオープンだったので、あれだけ空いていると逆に緊張しそうです。
「そうなんだ(笑)。僕は3Pを得意としていて、ワールドカップの最中も練習では3Pがよく決まっていたのに、いざ試合となるとぜんぜん決まらないことが最初の3、4試合で続いていた。
でもカーボベルデとの試合で、ようやく3Pが決まりだした。あの試合ではたしか(3P成功率が)7分の4か6分の3じゃなかったかな(実際は8分の4)。だからあの試合では、自分が大きなカギを握ると思っていたよ。
というのも、相手センターのエディ・タバレスは身長221cmもある非常にすばらしいショットブロッカーでリバウンダーだったから、インサイドでは勝負ができない。彼をペイント内から引っ張り出すために、僕はコートを広くストレッチさせる必要があった。だからこそ、その最後のコーナーからの3Pで僕はワイドオープンになれたんだ。
そしてその試合に勝ったことで、僕らはオリンピック行きを決めた。自分たちの夢を叶えたんだ。最高の瞬間といえば、その試合になるよ」
── トム・ホーバスHC(ヘッドコーチ)は試合でも選手に厳しく指導することで知られ、それはテレビ画面からも伝わってきます。ホーキンソン選手もホーバスHCから怒られたことはありますか?
「ホーバスHCは人によって態度を変えるのではなく、誰に対しても怒るべき時は怒るよ。その点では『アメリカ的なスタイル』だとも言える。誰かを贔屓(ひいき)することはない。選手としてもそれは好ましいものだ。
もちろん、いいプレーをすればリスペクトしてくれるけど、大事なのは選手がチームのためになっているかどうか。それが富樫(勇樹/PG/千葉ジェッツ)だろうと河村(勇輝/PG/横浜ビー・コルセアーズ)だろうと関係ない。
一番の好例は河村だね。河村は今やリーグでもトップの選手となったけど、ホーバスHCは彼に対して怒鳴ることをいとわない。そういうところは僕もホーバスHCをリスペクトするところさ」
── ワールドカップでの活躍でホーキンソン選手は一躍有名になりました。街で歩いていると、すぐ気づかれてしまうようになったのでは?
「昔とは状況が随分と変わってしまったので、たしかに普通の生活を送るのは難しくなってしまった。僕の背が高いのは前から変わらないけど、以前ならば『見てみなよ。あの人、背が高いね』と言われるだけだった。だけど、ワールドカップ後に状況が一気に変わって、街を歩くのも大変になってしまったよ」
── 信州ブレイブウォリアーズの本拠地がある街は人口の規模も東京より小さいので、ホーキンソン選手を認識している人も多かったのでは?
「信州という土地は皆が皆を知っているようなコミュニティだったから、街を歩くのがそこまで大変だったいうことはなかった。逆に名古屋では、僕のことに気づく人はいなかったね。(サンロッカーズの練習拠点のある)柏だって、ワールドカップ前は誰も僕のことを知らなかった。今は完全に変わってしまったけどね」
── 日本でワールドカップが盛り上がったきっかけのひとつに、爆発的なヒットを記録した映画『THE FIRST SLAM DUNK』の影響もあったかと思います。映画は観ましたか?
「いや、観ていないんだ。だけどもちろん、SLAM DUNKのことは知っているよ。なぜまだ見ていないのかというと、友だちに『テレビアニメ版のSLAMDUNKを観ていないのに映画に行くのは変かな』と聞いたら、『アニメ版を観てから行ったほうがいい』と言われたからなんだ。だから今、まだ途中なんだけど、アニメ版を観ているところだよ」
── ホーキンソン選手は日本の漫画を読みますか?
「日本語で? 日本語でもトライしたことはあるよ。漫画にはふりがながふってあるし、読みやすいからね。漢字にふりがながふられていないと、僕にとっては読むのが少し大変なんだけど」
── 2024年にはパリオリンピックが控え、ホーキンソン選手も再び日本代表として大舞台に立つことが期待されます。12チームしか出場しないオリンピックはワールドカップ以上に厳しい戦いとなりますが、どのような目標を立てていますか?
「たしかにオリンピックで試合のレベルはずっと高くなる。だからみんなで集まってよく話し合って考えないと、簡単には目標は立てられない。ワールドカップの成功も、チームとしての強みを深め、それを各選手が信じたから成し遂げられたもの。そしてチームでやろうとすることが決まったら、選手たちはより高いレベルでの成功を信じることこそが大事なんだ。
また代表に集まってチームメイトたちと再会し、オリンピックでどこまで高い目標を目指していくか努めていくことは楽しみ。チームとしての目標が決まって選手たちがそれを信じて動き始めたら、自分たちがどれだけやらないとその目標を達成できないかがわかってくるからね」
(後編につづく)
◆ジョシュ・ホーキンソン後編>>「日本で成功できた要因とは?」
【profile】
ジョシュ・ホーキンソン
1995年6月23日生まれ、アメリカ・ワシントン州シアトル出身。ワシントン州立大で中心選手として活躍し、卒業後にファイティングイーグルス名古屋に加入。その後、信州ブレイブウォリアーズを経て2023年からサンロッカーズ渋谷でプレーする。2023年2月に日本国籍を取得し、2月23日のイラン戦で代表デビュー。ワールドカップではインサイドの軸として欠かせぬ存在となった。ポジション=センター、パワーフォワード。身長208cm、体重106kg。