伊達昌司インタビュー(後編)

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 現在の「学生野球資格回復制度」は3日間程度の研修を受ければ、教員免許がなくても高校野球部の指導が可能である。しかし伊達昌司氏の時代は、教員免許取得後「2年間の教員生活」が必要だった。そもそもプロ野球選手は、年間100人程度しかなれない「野球の天才」の集団である。そんなエリートアスリートが、なぜセカンドキャリアで教員を選択したのか。


2019年に雪谷高校に着任し、21年春から野球部の監督として指揮を執る伊達昌司氏

【中学教員希望だった】

── なぜプロ野球引退後、教員の道を選んだのですか?

伊達 現役引退後、これまでは野球に明け暮れてゼロになってしまった感じがしたので......積み重ねていくなかで、ゼロにならないものがいいと思っていました。思えば、法政大の時は山中正竹監督(現・全日本野球協会会長)に目をかけていただき、社会人野球のプリンスホテルに入ることができました。その後、野球部が廃部になるタイミングでプロにも入ることができた。いろんな人に支えられてきたので、今度は「サポートできる立場に回りたい」と。それが教員でした。

── 元プロ野球選手の高校教員は、部活動で野球を教えたくてなった人がほとんどですが、伊達さんもそれがきっかけだったのですか。

伊達 プロ野球の経験を高校生に還元できるのは、もちろんいいことだと思いますが、私は「野球の経験を生かす」という目的はあまりありませんでした。東京都教員採用試験で中学・高校のどちらか希望を出せるのですが、当初は中学校の希望を出していました。なぜなら、より影響を与えられるのは中学生だと思ったのです。たまたま高校に縁があって、結局は高校の教員になりましたが......。

── 教員免許取得のために、出身の法政大に通ったのですか?

伊達 もともと付属の法政二高から法政文学部哲学科に進学しました。引退後も大学で、教員免許に必要な教職科目と専門科目の単位を取得に通いました。「中学社会」と「高校公民(現代社会、倫理、政治経済)」は2年間で取得できたのですが、「地歴(日本史、世界史、地理)」の単位は取りきれませんでした。

── 公立高校教員は地方公務員なので、教員免許取得後の試験も大変ですね。

伊達 東京都教員採用試験は一度落ちて、神奈川県立鶴見養護学校で働きながら、通信で地歴の単位を取得しました。2年目はしっかり勉強して試験に合格できたのは、自信になりました。

── 2008年は臨時で巨人の寮監を務められています。どういう経緯だったのですか。

伊達 寮監と呼んでいいのかどうかわからないですが、巨人から連絡があり「臨時で寮を手伝ってくれる人を探しているので来ないか」という話をいただいたのです。寮長や事務の手伝いをしながら、教育実習にも行かせていただきました。結婚もしていたし、無職で貯金を切り崩しながらの生活をしていたので、本当にありがたい話でした。坂本勇人選手が全144試合に出場し、レギュラーに定着した高卒2年目でしたね。

── 現役時代に巨人の同僚だった2選手も、教員として高校野球指導者の道を歩みました。

伊達 原俊介先生(東海大相模)と、残念ながら先日お亡くなりになられた三浦貴先生(浦和学院)ですね。

── 伊達さんは江戸川高(2010〜14年)を皮切りに、府中西高(15〜18年)、雪谷高(19年〜)と赴任されています。クラス担任や授業はどれくらい持っているのですか。

伊達 いずれも「3年ひとまわり」で卒業生を出しました。去年は生活指導部を1年やって、今年は2まわり目、1年生担任で学年主任を兼務しています。そして、いまは50分授業を、週15コマ持っています。

【甲子園のマウンドよりも緊張した】

── 「教壇という名のマウンド」に立ってみていかがでしたか?

伊達 甲子園や東京ドームで4、5万人の観衆のなかで投げていたよりも、最初の江戸川高校で40人の生徒を前にして試験のプリントを配った時は緊張しましたし、変な汗をかきましたね(笑)。授業では、生徒をはじめ多くの人に関わることが多いので、そこが一番大変で大事だと思います。

── 元プロ野球選手ということもあり、都立の甲子園出場校に赴任してきたのでしょうか。

伊達 江戸川高、府中西高、雪谷高とも、とくに「野球を求められた」感じではなく、野球部助監督や部長など、サブ的なポジションでした。雪谷高で初めて監督を引き継いで、2年半になります。

── 雪谷高校は「公立校で甲子園を目指したい生徒」が入学してくるのですか。

伊達 部活動だけでなく、勉強も学校行事も頑張っていく「文武両立」が校訓です。僕自身も生徒のモチベーションを上げながら頑張っていきたいです。

── 部員数はどれくらいですか。

伊達 現在は2年生16人、マネージャー4人、1年生16人、マネージャー3人です。練習は平日2時間、週3日。もう1日はトレーニング。土日はどちらかが試合です。

【野球で得た経験を人生の糧にしてほしい】

── 雪谷高校は2003年に甲子園出場、09年は東東京大会準優勝した都立の名門です。

伊達 19年4回戦、20年は2回戦、21年2回戦、22年3回戦、23年2回戦......21、22年はいずれも強豪の修徳高に敗れました。ただ、そういう壁を乗り越えなくてはいけません。都立の甲子園出場校ということで、もちろんプレッシャーはありますが、生徒たちの成長する姿を見るのが本当にうれしい。先日、秋季大会に負けましたが、部員たちに自主性が生まれたのを見て、「湧き上がるエネルギー」を頼もしく思いました。

── 甲子園出場は果たせていませんが、昨年は渡邊顕人選手(現・富士大)、今年も御園拓摩選手とプロ注目の投手を育てられています。

伊達 野球のセオリーやトレーニング方法に関しては、具体的な経験値がある分、生徒に納得してもらえるのかもしれないですね。

── 元プロ野球選手が指導する高校と練習試合を組んだりは?

伊達 川俣浩明先生(ロッテほか→藤沢翔陵高)や内田和也先生(ヤクルト→立正大立正高)にお願いしたことがあります。

── これまで多くの指導者のもとでやられてきましたが、印象に残っている方は?

伊達 今の自分があるのは指導してくださったみなさんのおかげで、全員に感謝しています。法政大の山中監督は僕の努力を認めてくれました。巨人時代の小谷正勝コーチはいい時も悪い時もずっと見てくれていて、投球フォームがずれている時に的確なアドバイスをくれたのが印象に残っています。

── 野球を指導することにおいてポリシーは?

伊達 野球で頑張ってきたことや部活動を通して得た経験を、その後の人生の糧にしてもらいたいですね。

── 社会に貢献できる人材の育成、野球部の躍進、陰ながら応援しています。

伊達 頑張ります。ありがとうございます。

伊達昌司(だて・まさし)/1975年8月23日、神奈川県生まれ。法政二高、法政大、プリンスホテルと進み、2000年のドラフトで阪神から2位指名を受けて入団。1年目にプロ初登板初勝利を挙げるなど、4勝をマーク。2年目は中継ぎとして41試合に登板するも、同年オフにトレードで日本ハムへ。移籍1年目の03年、51試合に登板して5勝9セーブ。05年3月に巨人にトレードされ、06年に現役を引退した。引退後、東京都の教員採用試験に合格し、江戸川高、府中西高を経て、19年に雪谷高に着任。21年春から野球部監督を務めている