不完全燃焼に終わった東京五輪への想いを語る中田久美さん(撮影:倉増崇史)

かつて「お家芸」と言われた女子バレーボール日本代表は、東京五輪でメダル獲得を期待されながら、まさかの予選ラウンド敗退を強いられた。復活を期す眞鍋政義監督率いる現チームは、9月に日本で行われる2024年パリ五輪予選に挑むことになる。その動向を遠くから見守っているのが、2年前まで指揮官を務めていた中田久美さんだ。

中田さんは、1980〜1990年代にかけて大活躍した日本代表の名セッター。初めて日の丸を背負ったのは1980年、15歳の時だ。1984年ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得。1988年ソウル、1992年バルセロナ五輪にも参戦し、日本女子バレー史上初の3大会連続出場を達成。バルセロナでは日本選手団の旗手を務めるほどの看板スターだった。

引退後に日本バレーボール協会の強化委員に就任。イタリア・セリエAで指導経験を積み、2012年に久光製薬スプリングスの監督就任1年目からVリーグ、天皇杯・皇后杯、黒鷲杯の3冠を獲得。2016年には東京五輪に挑む女子代表監督に推された。だからこそ、自国開催でのメダル獲得への期待は非常に大きかった。

エースが初戦で負傷するアクシデント

ところが、日本は初戦・ケニア戦を勝利したものの、エース・古賀紗理那(NEC)が右足を負傷。いきなりチームに暗雲が立ち込めた。監督の中田さんも頭を抱えるしかなかった。

「古賀はチームの中心。本当に頑張ってくれていたので、彼女がケガをしたことで、どうしたらチームの波を少しでも抑えられるかをまず考えました。同じポジションには石井(優希)が控えていて、石井のモチベーションをうまく保たないといけないし、同時に古賀への最善な対応も考えなければいけない。私としては何とか古賀をもう一度、コートに立たせてあげたいと強く思いました」

古賀は前回の2016年リオデジャネイロ五輪で落選した経験がある。「育てなければいけない選手の1人でもあったので、ケガで終わらせていいのかと相当に悩みましたね」。

指揮官は選手を選ぶ立場。五輪本番のバレーボール登録選手はわずか12人。落選する人間は必ず出る。スター選手だった中田自身はそういう経験は少ないものの、久光製薬でチームを率いるようになってからはどの選手を入れるか落とすかの判断を繰り返し強いられてきた。それは彼女にとって大きな苦悩にほかならなかった。

「五輪メンバーが12人というのは選手たちはもちろん理解しているけれど、選外になった選手は引退まで考えることもある。私は東京五輪まで50人の選手を選考してきましたけど、毎年毎年、誰かを落とさなきゃいけない。本当につらい気持ちでいっぱいでした」と中田さんは本音を吐露する。


東京五輪で女子バレーの監督を務めた中田久美さん(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

五輪後は公の場から遠ざかる

そういった人間臭いところが彼女のよさでもあり、時に冷徹になるべき指揮官としての弱さだったのかもしれない。

結局、古賀は懸命の治療の甲斐あって大一番・韓国戦で復帰。ケガを感じさせない闘志あふれるプレーでチームをけん引したが、フルセットの末、苦杯。最終戦のドミニカ共和国とのゲームを落とし、決勝トーナメント進出への道を断たれることになった。

「結果を出せなかったのは自分の力不足。もっとよくしてあげられたんじゃないかという不完全燃焼感が強かった」と責任を一身に背負った中田さんは代表監督を退任。2021年夏以降は公の場から遠ざかり、長野の実家に引きこもった。

「何も考えられないというか、八方ふさがりってこういうことかなと思いましたね。眠れないし、食べれないし、痩せました。体重も50キロくらいまでいったと思います。鏡に映るゲソゲソになった顔が怖くて、鏡を見れなかったほど(苦笑)。外にも出られず、母以外の人に会うことなく過ごしました。

2021年が終わり、2022年に入ってもそんな感じ。自室の窓から外の緑を見て、捨て猫を家族猫にするくらいしか癒やされる時間はなかったですね」と中田さんは明かした。

そんな状態から少しずつ抜け出し始めたのが2022年春。2018年にいったん中断していた東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム(東大EMP)に通うようになり、自然科学から哲学、宗教、天文学、経済学などあらゆるジャンルの本を読むなど、バレーボールから完全に離れた生活を送ったことで、中田さんは前向きな気持ちを取り戻していった。

特にフランス哲学の教授から「全てを受け入れて、次のステージに踏み出すことも変化なんじゃないか」という言葉をもらい、座禅の老師からも「あなたはよく頑張りました」と背中を押されたことで、自分が必死に取り組んできた代表監督の5年間をポジティブに捉えられるようになったという。

東大での学びは半年間で終了。首席で卒業した中田さんは遠ざかっていたバレーボールと再び向き合い始めた。今年3月にVリーグ3部・フラーゴラッド鹿児島のエグゼクティブ・ディレクター(ED)に就任。本人は「バレーボール界に戻るのはまだ早い」と考えていたが、クラブ代表や永山由高市長からの度重なるラブコールを受け、決断に至った。

「地域とスポーツの関わり方で何か新しい形ができれば、それはそれでバレーボールへの恩返しになるんじゃないかなと考えましたね。鹿児島は競技人口が全国でトップ2に入りますし、バレーボールに携わる子供が少なくなっている中で、いい発信ができたらいいなという思いもありました」

修士論文の執筆に集中

中田さんは今年4月からは筑波大学大学院・体育研究科にも在籍。現在は自身を客観視できる状態に戻っている。

「私はバレーボールが好きで、親の反対を押し切って入った世界で、15歳で日本代表に入った時から全力でやってきました。選手としてもそうだし、監督としてもそうだった。最後、代表監督までやらせていただきましたし、本当に頑張ってきてよかったなと今は思っています。

現在は筑波大学の勉強が第一で、2025年春までの2年間で修士論文を書かないといけないので、そこに集中していきます。テーマはまだ決まっていませんが、あまりほかの人がやっていないことにチャレンジしたい。選手の内面的なことにも興味がありますし、女性アスリートのコンディショニングや強化についても考えられます」

過去にはアーティスティックスイミングの井村雅代監督が中国代表ヘッドコーチとして手腕を発揮。現在も元女子サッカー日本代表の本田美登里監督がウズベキスタン女子代表監督として指揮を執るなど、日本人女性指導者が世界に出ていった例はある。中田さんに白羽の矢が立ってもおかしくないだろう。

現場での指導は今のところはない

「正直言うとオファーはありました。でも自分にはまったく楽しそうに思えなかった(苦笑)。今も海外で指導したいという気持ちはないですね。監督をやっていた時は大会中、眠れないし、食べられないし、どんどん消耗していったので、『もう1回、あれをやるの?』っていう気持ちになってしまう(苦笑)。無責任なことはできませんし、今のところはないと思います」

現時点で現場復帰、海外進出の考えは皆無だというが、中田さんならばバレーボール界、スポーツ界のためにできることは少なくないはず。東京五輪での挫折と落胆、そこからの2年間も含めてフィードバックできることはたくさんあるだろう。

これまでトップを走り続けてきた彼女には、日本の女性スポーツ全体のレベルアップ、環境改善のために、ぜひとも力を尽くしてほしいものである。

(元川 悦子 : サッカージャーナリスト)