T. Etoh

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ポルシェ初の自身の名を冠した量産モデル356は、フェルディナント・ポルシェ博士の理想を体現した真のデュアルパーパスカーであった。即ち、日常で快適に使え、なおかつレースにも対応できるという2面性を持った車であったからだ。

【画像】様々な問題を解消しながら完成したカレラ・アバルト(写真15点)

しかしながら、車を快適にしようと思えば思うほど車両は重くなり、軽さを要求されるレースには不向きになっていったのである。レース用に開発されたツインカムエンジンを搭載する1600GSは、それでも当時のレースシーンをリードしていたが、そのアドバンテージがいつまでも続くとは考えられなかった。光明は1960年のFIAレギュレーションが変更になったことにある。FIAは当時のホモロゲーションの対象をボディではなくシャシーとしており、ボディは完成した車両の重量がFIAの定めるアペンディックスJ項の公認重量の95%あれば、ボディの形状は問わなかったのだ。

そこでポルシェは1940年代にチシタリア・グランプリカーの開発などで関係のあったアバルトにボディの製作を依頼する。この依頼をフェリー・ポルシェから持ち掛けられたカルロ・アバルトは、勿論それを快諾した。契約の内容はポルシェが20台の356Bのエンジンレスシャシーをアバルトに送り、アバルトはボディを架装してそれをシュトゥットガルトに戻すというものである。オプションでさらに20台の追加生産もあったようだ。

アバルトは当初そのボディ・デザインをザガートに依頼するとポルシェに約束をしていたようである。ところが当時のザガートはアルファロメオと親密で、ライバルとなるポルシェの仕事には難色を示した。結果ザガートとの交渉は決裂し、結局デザインを担当したのはベルトーネを離れフリーランスになった直後のフランコ・スカリオーネとなったのである。ただ、スカリオーネはデザインはできるものの、そのボディを製作する工房を持たない。そこで白羽の矢が立ったのがトリノの小さなカロッツェリア、Rocco Mottoである。ところが3台のアルミボディを作り上げた時点で Rocco Mottoは脱落。その後の18台をViarengo & Filipponiというかロッツェリアが作ることになった。つまりカレラ・アバルトのボディは全部で21台作られたことになる。

カルロ・アバルトとRocco Mottoの間に一体何があったのかは定かではないが、喧嘩別れしたことは事実のようで、最初のモデル(シャシーナンバー1001)がポルシェに納品された時点で、ポルシェの首脳はそのクォリティーに大いに不満を持ったそうだ。それは単にパネル間のギャップが大きいとか不均一だという問題にとどまらず、大柄なドライバーではコックピットが小さすぎたし、さらにエンジンルームも小さすぎ、オイルクーラーやファンシュラウドを収めることができなかったという。コックピットについてはシートレールを下げるなどして何とか対応し、エンジンルームも原始的にハンマーや切断といった手法でエンジンを収めることができた。ところがいざテストをしてみるとエンジンはすぐにオーバーヒート。結果的にオリジナルに追加すること38個ものルーバーを新たにリッドに追加する羽目になった。

こうして様々な問題を解消して完成したカレラ・アバルトは、ロイター製のオリジナルボディを搭載するモデルよりもおよそ50kg弱の軽量化に成功。同時に空力的にもアドバンテージを得たことで、最終的にトップスピードはルマンの直線などで220km/hを超えたという。ただしこの時はオリジナルのエンジンから2リッターにキャパシティーが上がり、1.6リッター当初の115psからパワーも175psにまで引き上げられていた。軽量化したことで車名も正式にはPorsche 356B 1600GS Carrera GTL Abarthと呼ばれたようだ。GTLのLはドイツ語で軽量を意味するライヒトに由来する。