古い卒業写真から奇跡の発見 巨大“木造掩体壕” 田んぼに点在する異様な構造物のナゾ
高知空港近くの田園地帯に、掩体壕(えんたいごう)が点在しています。これは戦後77年を経過しても今なお残る戦争中の遺物です。どうしてこの地に造られたのか、それとともに新たに写真で確認された木造格納庫についても見てみます。
太平洋戦争中、最前線だった高知の軍施設
高知県南国市の高知龍馬空港に降り立ち、そこから南西に向かって10分ほどクルマを走らすと、水田やハウス栽培の畑などの緑豊かな光景が広がるようになります。すると突然、田園風景には似つかわしくない、天井が丸く黒っぽい構造物がいくつも眼前に現れます。
このカマボコ状の倉庫でも体育館でもないコンクリート造りの建築物は、80年近く前に造られた掩体壕(えんたいごう)または掩体(えんたい)と呼ばれる軍用機の格納庫。なぜ高知の田園のなかにこのような軍用構造物があるのか、その理由をひも解いてみましょう。
高知県南国市に今でも見られる大型の4号掩体壕。同地区に残された中では最大で、一式陸上攻撃機などの双発機用だったと思われる(吉川和篤撮影)。
1945(昭和20)年8月に終わった太平洋戦争。その後半には、日本本土の軍事施設もアメリカ軍の空襲や対地攻撃を受けるようになりましたが、目標となった場所のなかには港湾や軍需工場とともに、旧日本陸軍および海軍の各航空基地も含まれました。
アメリカ軍の空襲に対抗するためには、戦闘機を素早く出撃させ、迎撃する必要があります。そこで、1分1秒を短縮するために、普段から滑走路へ近い場所に航空機を駐機させる手法が採られました。また1か所の格納庫に多数の機体を入れておくと爆弾1発で全滅する恐れもあることから、防御力を向上させるためにも1機ずつ分散して格納したり、その場所を偽装したりすることも重要でした。そこで、こうした敵の攻撃から飛行機を守るための「シェルター」として、滑走路に繋がる誘導路の側に掩体壕が造られたのです。
掩体壕は爆撃や機銃掃射にも耐えられるよう、頑丈で分厚い鉄筋コンクリート製のものから、木や竹や土を使って造られた木製のもの、爆風や破片を避けるための土堤に囲まれただけで屋根のない、いわゆる無蓋の簡易的なもの、さらには山の斜面に掘った横穴のトンネルまで多種多様でした。
陸軍と海軍でも違った掩体壕の造り方
コンクリート製の掩体壕はあまりにも頑丈に造られていたため、その一部は戦後も破壊されずに全国各地に残っています。たとえば関東の場合、千葉県茂原市には海軍二五二航空隊が使用した20数基の掩体壕の内11基が2022年現在も残されていて、なかでも最も大きな1基は市の文化財に指定されています。
また大分県宇佐市には宇佐海軍航空隊が建設した10基が現存しており、「城井1号掩体壕」と名付けられた1基は市の文化財に指定され、周囲も公園として整備されています。しかし、このように史跡として登録整備されているのはごく一部で、全国に残る掩体壕の中には、農機具置き場や倉庫代わりに使われていて荒れ果てたものもあるのが現状です。
そしてコンクリート製の掩体壕も、格納する航空機の種類や製作時期、材料、そして何よりも使用した航空隊が陸軍所属か海軍所属かによって、造り方に違いがありました。
調布飛行場横に残る三式戦闘機「飛燕」用の掩体壕。戦後、正面入口に蓋をされたが、使用当時は大きな開口部があった。また半地下構造なので、高さも海軍のものより低くなっている(吉川和篤撮影)。
たとえば東京の調布飛行場(調布空港)横に残る、旧日本陸軍の飛行第244戦隊が使用した三式戦闘機「飛燕」用の掩体壕は、地面を1m以上掘ってからその上にコンクリート製のカマボコ屋根を付けて、前後に空気が抜ける半地下構造になっています。
これは背が低いために爆撃時の爆風を避けやすく、さらに上空の敵からも発見されにくいという効果を持つもので、加えてアーチ状の屋根の上には土が盛られて草木も植えられ、大地の一部かのように偽装まで施される徹底ぶりでした。
そのため調布市や府中市に現存する三式戦用掩体壕の多くは、戦後しばらく経つと内部に土が溜ってしまい、半分地面に埋まった状態へと風化してしまっています。なお、尾翼から壕内に入れる仕様のため、上から見ると横幅がだんだんと狭まる構造なのがわかります。
高知空港横の掩体壕、陸軍 or 海軍どっちの?
対して旧日本海軍のコンクリート製掩体壕は、整地して固めた地面の上に普通に建てられているためか、陸軍機とほぼ同じクラスの機体を格納するためのものでも、陸軍の掩体壕と比べてひとまわり大きく見えます。また、入口も調布のように開きっぱなしではなく垂直の壁があり、それぞれの航空機の正面形状より大きな穴が開いていました。
また同じく尾翼側から入れる構造ではあるものの、奥へ向かって横幅が狭くなるのではなく、途中まで同じ幅で最後に尾翼部分を格納するひと回り小さな構造物が付属した段のある形状で、後部にも人が出入りするための穴が真ん中に開いた垂直の壁が設けられています。
公園として整備されて、いつでも見学が自由な高知県南国市の5号掩体壕。内部の一番奥には人が出入りする穴が見える。2号〜7号とほぼ同じサイズで、単発機の機上作業練習機「白菊」用だと思われる(吉川和篤撮影)。
こうした掩体壕の造り方としては、まず同じサイズの大きな土まんじゅうを設置する場所に作り、海軍の応援部隊や勤労学生、地元の農家の手を借りて大勢でその上に上がって踏み固めます。そして固めた土まんじゅうの上にムシロやセメント袋を敷き詰めて、さらに上に鉄筋を張ってセメントを流し込んで塗り固めます。そしてセメントが固まったら中の土を全て取り除いて、ドーム状の掩体壕が完成します。そのため天井の内側には、ムシロやセメント袋のシワの跡が無数に残っているのです。
冒頭に述べた高知の掩体壕は、これら旧日本海軍が造ったコンクリート製掩体壕にあたります。用いていたのは高知海軍航空隊で、掩体壕は中型が15基、小型が9基、W型が17基造られ、現在は高知龍馬空港に隣接する南国市の前浜地区にコンクリート製でドーム状の7基が残されています。
その中で最も大きい「4号掩体壕」は幅44m、奥行き23m、高さ8.5mあり、国内に現存する掩体壕としては最大クラスと言えるでしょう。なお、それ以外の6基はほぼ同じ大きさで、幅22m、奥行き12m、高さ5m程度です。
では、次にこの掩体壕にどんな航空機を入れていたのか見てみましょう。
最近確認、新種「W型」掩体壕って?
高知海軍航空隊は1944(昭和19)年3月に創設された部隊で、多座機搭乗員の教育部隊として、機上作業練習機「白菊」をメイン機種として運用していました。本機は九〇式機上作業練習機の後継機として1942(昭和17)年に制式化された5人乗りの単発機で、艦上攻撃機や艦上爆撃機、陸上攻撃機などに搭乗した操縦士以外の航法士や通信士、爆撃手や機銃手などの教育用として導入されたものでした。
練習機のため、安定性や操縦性が良好な反面、最大速度は230km/h程度しか出ませんでした。しかし、鈍重な機体にも関わらず、戦局が悪化した1945(昭和20)年5月には特攻機への転用が行われ、高知海軍航空隊からも徳島海軍航空隊の「白菊」と共に沖縄戦へ出撃しています。そして5月27日には15機出撃して未帰還11機の犠牲を払いながら、アメリカ駆逐艦「ドレクスラー」を撃沈する戦果も挙げています。おそらく現存する6基の掩体壕はこの白菊用で、大型の掩体壕は一式陸上攻撃機のような双発機用だったと思われます。
高知県南国市にある前浜掩体壕群の中でも面白い例である7号掩体壕。これは戦後、後部の壁を打ち抜いて道路と水路を通している(吉川和篤撮影)。
ところで、先に述べた「W型」掩体壕、これは最近その存在が確認された掩体壕です。戦後の1945(昭和20)年もしくは翌年に、高等小学校(現在でいう中学校)の卒業生を撮影した記念写真に、木造の掩体壕が写っていたことから発見されたのです。木製は、終戦直後こそ日本各地に存在していたものの、丈夫なコンクリート製と違って壊しやすいので、現存しておらず、記録もほとんど残っていません。そのため、これは貴重な発見と言えるでしょう。
高知県南国市ではこの前浜掩体壕群を文化財に指定しており、同市の教育委員会では7基の掩体壕を解説したパンフレットを発行しています。高知を訪ねる機会があれば現地の遺構を見ながら、当時の掩体壕建設や高知海軍航空隊について思いを馳せてみてはいかがでしょうか。