「大阪を選んだのは重要だった」

 5月26日、「パリ・サンジェルマン・ジャパンツアー2022」の記者会見が行なわれ、川崎フロンターレ、浦和レッズ、ガンバ大阪との親善試合を7月に開催することを発表。同記者会見に登壇するため、クラブレジェンドとしてガンバ大阪や東京ヴェルディなどで活躍したパトリック・エムボマが来日した。


エムボマが来日。Jリーグでの思い出を語ってくれた

 エムボマと言えば、かつてガンバで"浪速の黒豹"の異名をとり、センセーショナルなプレーによって日本のサッカーファンを大いに沸かせた。その後、東京ヴェルディやヴィッセル神戸などでも活躍したストライカーは、現在、フランスで解説者として活躍している。そんな懐かしのレジェンドに単独で話を聞く機会をもらった。

「今のパリ・サンジェルマンにはキリアン・エムバペ(フランス)、リオネル・メッシ(アルゼンチン)、ネイマール(ブラジル)など、皆さんご存知のスター選手たちが、きら星の如く揃っています。とくにエムバペはここ数年、成長が著しく、チームを優勝に導く存在になっています」

 今回のジャパンツアーの見どころを聞くと、つい先日、パリSGとの契約延長が世界的なニュースとして報じられた、エムバペのプレーがそのひとつだと語った。今季も28得点で4季連続のリーグ得点王となり、リーグ優勝の原動力となった。

 23歳の若きエースには、バロンドール受賞の期待もある。パリSGでその栄誉を得る可能性をどう感じているのだろうか。

「彼が今後どうなるかはわかりません。しかし、パリSGで活躍することでバロンドールを受賞するチャンスは何度もあるでしょう。非常に楽しみにしています」

 パリSGはエムバペをはじめ、新銀河系軍団とも言えるスター軍団を擁し、いまや欧州屈指のビッグクラブ。そんなパリSGにエムボマも1990年から97年まで所属していた。ただ、レンタル移籍を重ね、思うように出場機会を得られなかった末、新天地に選んだのがガンバ大阪だった。

「大阪という地を選んだことはとても重要でした。なぜなら美味しいうどんが食べられたからです(笑)」

 日本食を愛したエムボマだが、当時、はじめての他国でのプレー、しかも文化圏のまったく異なる日本でのプレーに戸惑いや不安はなかったのだろうか。

レオナルドから「もしもし」を教わった

「日本に来る前、当時のパリSGにはレオナルド(ブラジル)やジョージ・ウェア(リベリア)など、すばらしい選手たちが所属していて、私は彼らからいろんなアドバイスをもらって学ばせてもらっている時期でした。

 日本でプレー経験があるレオナルドからは『日本でぜひ頑張って』と声をかけてもらえました。また、日本語ではじめて『もしもし』を教わったのも彼からです(笑)。当時のパリSGの社長からも『日本で頑張れば、君なら大丈夫だ』と激励を受け、なにも心配することなく日本に来たのを覚えています」

 その言葉どおり1997年Jリーグ1stステージ開幕戦、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)を相手に今でも語り継がれる伝説のボレーシュートを決めると、リーグ28試合で25得点を挙げて得点王となった。


1997年にJリーグでプレーした頃のエムボマ photo by Getty Images

「日本ではたくさん試合をして、ゴールもたくさん決めてきましたが、あの万博(記念競技場)でのデビュー戦のゴールがもっとも印象に残っています」

 浮き上がったボールを2タッチのリフティングで背面へ打ち上げ、振り向きざまに左足のボレーシュート。デビュー戦で見せつけた異次元のスーパープレーは、日本のサッカーファンの記憶に深く刻まれた。今見ても色褪せないほど、正真正銘のスーパーゴールである。

 そのゴールで自信を掴んだエムボマは、開幕3試合連続ゴールを記録するなど、手がつけられなかった。

 そして翌シーズン途中にイタリアのカリアリへ移籍。再びヨーロッパへ活躍の場を移した。得点王となったあのシーズンは、エムボマにとってどんな意味があったのか。

「選手として、あるいは人間として、そして家族にとってもあのシーズンは特別な意味を持っています。パリSGからガンバへ移籍する時、周りには『日本へ行くなんて、お前のキャリアはもう終わった』と言う人もいました。

 でもJリーグで得点王となり、それが自信となって、カメルーン代表でも得点王という実績がいい影響をもたらしてくれました。結果として、本当にすばらしいキャリアとなりました」

「宮本が面倒を見てくれた」

 得点王となったあと、カメルーン代表では1998年のフランスW杯出場に貢献。2000年のシドニー五輪ではオーバーエイジ枠で出場して金メダルをもたらし、アフリカ年間最優秀選手賞を受賞した。ガンバでの活躍はエムボマのキャリアにとって間違いなく大きなターニングポイントとなった。

 ガンバからカリアリへと移籍後、パルマ(イタリア)、サンダーランド(イングランド)などを経て、2003年に東京ヴェルディ1969(現・東京ヴェルディ)に加入。35試合で17得点と結果を残したが、ケガに苦しみ、最後はヴィッセル神戸で2005年シーズン途中に引退した。

 エムボマが日本でプレーしたのは約3シーズン半。ともにプレーしたなかで印象深く残っている選手たちを教えてもらった。

「まずは宮本(恒靖)ですね。あの頃、彼はまだ非常に若かったけれど、非常にいい選手でした。英語を話せたので、私がチームに溶け込むためにいろいろと面倒を見てくれました。彼から受けた恩も含めて最初に名前を挙げたいと思います」

 当時の宮本恒靖はトップデビュー3年目の20歳。若いながら持ち前の語学力を生かして外国人選手の面倒をみるなど、のちに日本代表のキャプテンとしても活躍する器量を感じさせていた。

 次に名前が挙がったのが中田英寿だ。

「ベルマーレ平塚とのデビュー戦でも対戦しましたが、中田はとても優れたミッドフィルダーだという印象がありました」

 宮本と同い年の中田も当時20歳。この年に初めてA代表に招集され、すぐに中心選手となった。そのポテンシャルの高さはエムボマにも際立って写っていた。

「元ヴィッセル神戸の播戸(竜二)は出会った頃は、本当に若かったですね」

 1998年に播戸竜二は高卒でガンバに練習生として入団し、エムボマと出会っている。それから時が流れ、2004年にヴィッセル神戸で再会となった。

「あれからストライカーとしての能力を伸ばして、日本代表に名を連ねるまでに成長しました。本当にすばらしい選手だったと思います。それから山田(卓也)は私のいい友人でもあって、中盤で非常に質の高い選手でした」

 東京ヴェルディ時代から友人でもあるという山田卓也の名前も挙がった。ガンバで同年にデビューした稲本潤一を覚えているか聞いてみた。

「稲本のことももちろん覚えている」

「もちろん、覚えています。デビュー当時はまだ17歳で、非常に若かったですね。ユース年代の代表に選ばれるほどで、当時からとても優れた選手だと感じていました。だから彼がアーセナル(イングランド)に移籍することを聞いても驚きはしませんでした。彼ほどの能力があれば当然だと思っていたくらいです。

 アーセナルのあとにフルハムやウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン(ともにイングランド)などさまざまなクラブを渡りましたが、ケガなどもあり、彼本来の力を発揮できなかったことは残念に思っていました」

 ガンバ時代だけでなく、その後のキャリアのことまで記憶していた。稲本がいまだ現役であることを伝えた。

「すばらしいですね。選手のなかには非常に息の長い人がいるものです。カズさんのように。印象深い選手は挙げればまだたくさんいますが、キリがないのでここまでにしておきましょうか」

 インタビュー時間いっぱいまで、懐かしいJリーグ時代のことを話してくれたエムボマ。日本のサッカーファンだけでなく、本人にとっても日本での時間はキャリアのハイライトのひとつとして大事に記憶されているようだった。