「危険な政治家」から一転 辞任報道で安倍首相を絶賛するイギリスのメディア - 小林恭子
※この記事は2020年09月04日にBLOGOSで公開されたものです
8月28日、安倍首相は突然辞意を表明した。世界的な経済大国日本の首相辞任に関するビッグニュースを、筆者が住むイギリスのメディアは大々的に報じた。
公共放送BBCは辞意表明の記者会見時の動画の一部を使いながらテレビ、ラジオ、ウェブサイトのBBCニュースで報道。会見はイギリス時間の昼時となったが、28日一杯、主要ニュースの1つとして伝えた。
イギリスの主要メディアの報道を見て、筆者は驚きを隠せなかった。少し前まではアジア太平洋地域の安全保障を脅かす「危険な政治家」という人物像で安倍首相を報じることが多かった論調が、がらりと変わっていたからだ。
「注意するべき政治家」から一転 好意的に報道する、英メディア
イギリスの一般市民の間では、東日本大震災(2011年)や東京五輪の招へい・延期などのニュースとは異なり、海外の政権交代という政治ニュースであったため、特に話題に上った風はない。
しかし、イギリスメディアの報道の大きさは、「ただならないことが起きた」という印象を市民に与えたのではないかと思う。
今回の一連の報道を見て、筆者は意外な思いを抱いた。
長い間、イギリスのメディアは安倍首相を「超保守系」、「国粋主義者(ナショナリスト)」、「タカ派」といった枕詞を付けて紹介することが多く、どちらかというと「危険な思想を持つ、注意するべき政治家」という文脈が主だった。
というのも、首相は日本の平和憲法改正を公言しており、第二次世界大戦時の日本の侵略行為や英兵捕虜らを手荒く扱ったことが国民的な記憶になっているイギリスにとって、安倍氏は「軍国主義を復活させるかもしれない人物」、「アジア太平洋地域を不安定にさせる政治家」という印象が強かったのである。
靖国神社参拝や第1次安倍内閣の2007年、従軍慰安婦問題について「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述」が見当たらなかったとする答弁書を閣議決定したことも、先の戦争を擁護する警戒すべき人物というイメージを広げた。
しかし、今回、イギリスメディアの論調は大きく変わった。
保守系高級紙「デイリー・テレグラフ」(8月28日付)は長期政権を維持したこと、中国に対抗するために軍事力を強化したこと、新型コロナウイルスのために延期になってしまったものの、東京五輪を招へいできたことを高く評価した。
「注意深い日本の官僚機構に急進的で新しい経済政策の実行を余儀なくさせた」
8月30日付の経済紙「フィナンシャル・タイムズ」の社説もかなり高評価だ。
病気を理由に安倍首相は辞任することになり、コロナ禍によって政権が達成した経済的な成功も吹き飛んでしまったけれども、首相は「そのレガシー(遺産)を誇りに思ってよいほどだ」と称賛を送る。
同紙が指摘するレガシーとは、まず戦後の日本で最も長期的な政権となったこと、8年近く政権を維持したことにより日本に自分のしるしを残すことができたこと、そして権力を官邸に集中させることによって「注意深い日本の官僚機構に、急進的で新しい経済政策の実行を余儀なくさせた」ことである。
急進的で新しい経済政策とは、「アベノミクス」を指している。社説はアベノミクスが完全な成功を収めなかったこと自体は認めているものの、安倍政権時代に経済が成長し、失業率も低下したことを評価した。
さらに、安倍氏は自民党の中でも「最も保守的な」グループから出てきたにもかかわらず、日本を「よりリベラルな社会的な態度」に向けさせたと指摘する。例えばそれは「女性が活躍する社会」の提唱や外国人労働者の受け入れ枠を広げたことである。
貿易面では安倍政権下で日本・EU経済連携協定を取り付け、イギリスとも同様の協定が「結ばれる見込みが高い」。トランプ米大統領が「環太平洋経済連携協定(TPP)」から離脱後、ほかの参加国を説得して「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPPあるいはTPP11などと表記)」としてまとめたのが安倍首相だったと伝えている。
最後に、社説が懸念するのは、安倍政権の後で政治が不安定化し、官僚に権力が戻ることだ。安倍政権の時代の特色だった「大胆さは、これからも継続する必要がある」と結んだ。
安倍首相をべた褒めにしているように筆者には聞こえるのだが、どうだろうか。
安倍首相辞任後の日本政治の不安定化を危惧
ニュース週刊誌「エコノミスト」の記事(8月28日付)も、褒める論調は変わらない。記事は念願の憲法改正は達成できなかったものの、防衛費を増大させ、集団的自衛権の行使を事実上可能にするという形で目標を達成したと評価。また、トランプ大統領と緊密な関係を築いた上に、安倍首相は自由貿易の第一人者となったという。
エコノミストが懸念するのは、FT紙の社説同様に安倍首相が政治の表舞台を去った後、短期政権が続くことで政治が不安定化することだ。
海外メディアが最も注視しているのは、日本の政治の不安定化がアジア太平洋地域、ひいては世界全体の安全保障や経済の行方に負の影響を与えるかもしれないことである。
米ワシントン・ポストも「防衛志向の採用」を評価
同じ英語圏となるアメリカの報道はどうか。
保守系「ワシントン・ポスト」紙の社説(8月28日付)は、安倍首相の「辞任は日米関係に打撃となる」という見出しで、安倍氏を「素晴らしい政治業績を達成した」人物として描く。
評価の理由は、「8年近くも政権を維持したこと」、「先人の首相のほとんどに見当たらなかったオーソリティ(権力者としての信頼性)を蓄積したこと」だ。さらに、「日本の戦後の平和主義をより積極的な防衛へ、そして自己主張する外交へと転換させ」、「トランプ大統領と好調な関係を保った」ことを業績としている。
社説によれば、安倍首相の最大のレガシーとは「より力強い防衛志向を採用したこと」だ。具体的には集団的自衛権の事実上の行使容認やF35ステルス戦闘機を巨額で購入したこと、先制攻撃ができるミサイル入手への議論を開始したことを挙げている。
ナショナリストか現実主義者か 英国研究者の問い
筆者が見た範囲内では、イギリスのメディア報道の中で冷静に政権の功罪を分析したのは、BBCニュースの2本の記事(8月28日)であった。
そのうちの1つは、ケンブリッジ大学および王立国際問題研究所のジョン・ニルソンライト博士による寄稿で、安倍氏が「歴史を修正するナショナリスト」か、「実践的な現実主義者か」を問う。博士によれば、どちらの「安倍首相像」も「正解」だという。
「国内外で日本の誇りを取り戻そうとする、本能的に保守派な政治家として、安倍氏は約8年の在任期間中、一貫して日本の国としてのアイデンティティと歴史的伝統の強化に取り組んできた」と博士は綴る。
しかし、この政策目標は主に国内向けで、対照的だったのが外交だ。安全保障政策であれ経済政策であれ、「典型的なプラグマティスト(実践主義者、実用主義者)を貫いた」。
博士はさらに「既存の同盟関係(特にアメリカとの同盟関係)を強化」し、「相手が民主国家だろうが独裁国家だろうが、相手のイデオロギーを問わず、地域や世界のアクター(行為主体)と新しいパートナーシップを構築した」と続ける。 選挙で勝ち続け、長期政権が続いた背景には「弱くばらばらな」野党の存在があることも指摘した。
森友・加計問題に触れぬイギリスメディア 日本人として焦燥感
イギリスメディアの報道に接して、日本人として最も焦燥感を抱いたのは、国有地売却をめぐる問題や公文書改ざん問題といった、いわゆる森友学園問題などにはほとんど触れられていないことだ。
BBCのもう1つの記事では、BBCニュース(東京)の加藤祐子氏が「身内びいきや公文書の廃棄や改ざんなど、不祥事の相次ぐ政権でもあった。日本が新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)に襲われると、その対応は時に遅すぎる、効果が乏しい、国民の置かれている状態を分かっていないなどと批判された」と指摘しており、溜飲が下がる思いがした。
▽安倍首相が辞意発表、持病悪化を理由に(BBCニュース、日本語)
上記の英米主要メディア報道を通じて描かれる安倍像とは、「記録的な長期政権を維持し、すべてが成功したわけでないとしてもアベノミクスを断行し、気まぐれなトランプ大統領と緊密な関係を保ったことでアジア太平洋地域の安全保障に貢献し、女性の活躍については十分な成果を上げられなかったかもしれないが、国際的には日本の地位を高めた大物政治家」である。 日本の安倍首相の支持者はこれを「その通り」というかもしれない。しかし、取りこぼしている部分がある。
米ニューヨーク・タイムズ紙への寄稿記事(8月30日付)で、国際政治学者の中野晃一氏は安倍首相が数々のスキャンダルについてのきちんとした説明がないままに政治の表舞台を去っていくことを指摘している。
森友学園への国有地値引き問題、公文書改ざん、加計学園の獣医学部新設をめぐる疑惑、縁故主義、「桜を見る会」問題、定年延長までして自分が推す候補者を検事総長に就任させようとした件もあった。
中野氏は、首相が「国会の場で、あるいは報道機関に対し、そして国民に対し、多くの説明責任があるのに、ほとんどこれをしないままできた」と批判。
安倍氏のレガシーが何になるにせよ、「一つのことが際立つ」。それは、「長期政権を達成した日本の指導者がスキャンダルから逃げ出し、首相が仕える対象となる国民からの説明責任を求める声を避けながら辞任していくことだ」。
この分析に同意する人は多いのではないだろうか。