原田香里(左)と藤田光里が子どものころの夢を語る(撮影:ALBA)

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2021年3月まで日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)の理事を務め、いまは女子ゴルフ界発展のため尽力し、自身のゴルフ向上も目指す、女子プロゴルファーの原田香里。まだまだこれからと話すゴルフ人生、そして女子ゴルフ界についての未来を語る。
春爛漫。東京は桜を始めとする花々が咲き乱れています。ゴルフをするには最高の季節ですね。みなさん、こんにちは。原田香里です。
藤田光里さんをゲストに迎えた対談シリーズもいよいよ最終回。今回は2人の人生そのものに切り込んだお話です。
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―お二人は、プロゴルファーになっていなかったらどんな人生を送っていたと思いますか?
原田:私は、日本女子学生で優勝してからプロテストを受けることを決めたとお話ししました。一般企業への就職も考えていたんですけど、実は体育の先生になりたいと思ったこともあったんです。
藤田:そうなんですか? 私は小学校の先生になりたかったんです。
―なんと!? ここでも意外な共通点がありましたね〜。どうして先生になろうと考えたのでしょう?
原田:体育が好きだったからです。勉強はあまり得意じゃなかったけど、体育はいつも5だったし、大学も体育学科でした。
藤田:ゴルフの競技に出始めたのが小学校2年なんですけど、その前の1年生の時の担任の先生がお母さんみたいですごくいい先生だったんです。今でも年賀状のやり取りをしてるくらいです。
―素敵な話ですね。専門は何の先生だったんでしょう?
藤田:たぶん音楽かな。歌ったり、楽器を弾いたりしたのをすごく覚えてるし。授業参観の日なんて、母が栗ご飯を作って先生に差し入れしてました。
原田:いい先生だったんだね〜。
―お二人とも最初からプロゴルファーだけを考えていたわけじゃないことがよくわかりました。
藤田:JLPGAで大学に入れる枠のようなもの(注)がありますよね? あれの通知を見た時、今からでも(先生になる夢が)かなうかな、と思ったんです。
(注)早稲田大学人間科学部通信教育課程=eスクール。2015年9月にJLPGAは早稲田大学人間科学部通信教育課程=eスクールの特別選抜の指定団体として認定されている。同学部が指定するスポーツ関連団体として、競技を通じて社会貢献を目指し、大学での強い勉学の意欲を持つ者を対象とした特別選抜入学試験を受けられる制度
原田:それいいじゃない。やっぱり、プロゴルファーを目指すのは素晴らしいことですけど、プロになれないこともあるし、プロでも稼げないことはたくさんある。だから、そうじゃない人生を送ることも考えることは必要だと思うんですよ。
藤田:そうですよね。今、プロで頑張っている松田鈴英ちゃんのお姉さんは、私と年が近いんですけど、ゴルフすごくうまかったのにプロテストを受けなかったかったんですよ。
原田:キャディしたことあるお姉さん?
藤田:そうです、そうです。
―3歳上の唯里さんですね。松田鈴英さんからお話を聞いたことあります。自分よりうまかった、って。中部女子アマ2勝、福井工業大学4年生だった2014年には日本女子学生にも優勝しています。
原田:トップアマですよね。私の学生時代には、今のようにみんながプロ志望じゃなかったんです。だから今、そういう人がいてもおかしくないですよね。ゴルフと勉強を両方するっていうのは大事です。
―プロになっていなかったら先生、と考えていたお二人ですが、ご自分のキャリアについてはどう考えていますか?
原田:プロテストを受けることを決めた時から、一発合格とトッププロになることを考えていました。1勝したら、次はメジャー(公式戦)優勝、という風にどんどん目標が高くなっていった。
藤田:私は行き当たりばったりです。なるようにしかならないと思ってるから。プロになった時から引退すること考えてましたからね。
原田:ずいぶん違うな〜。私はアメリカにも行ってみたい、というおぼろ気な夢はあったんだけど、そのとき小林浩美さん(現JLPGA会長)に言われたんですよ。「英語しゃべれないなら厳しいよ」って。だから、メジャーの出場権があった時だけのスポット参戦にしたんです。アメリカは刺激的なところでした。でも、プロをやめることはあまり考えてなかったな。36歳で結婚したあとも、試合に出てました。だんだん稼げなくなってきて潮時かな、と思ったりもしたけど、結局45歳まで出てたからね。
藤田:22歳で引退する、って思ってたんです。ちょうど、大学を卒業する年だから。だからフジサンケイレディスで優勝した時(2015年)の涙は、うれし涙じゃないんです。大変な思いをしてプロテストやQTをやったけど、できないと思ってたレギュラーツアーに優勝できて「ゴルフ人生のゴールだ」っていう涙だったんです。それまでがつらかったから。
原田:うわぁ、全然違うね。潔いなぁ。優勝できないと思ってたの?
藤田:他と北海道はレベルが全然違うと思ってましたからね。22歳か23歳で結婚して子供産んで、って考えていたんですけど、もうその理想の年齢は過ぎたので(笑)、生きたいように生きていけばいいんじゃないかな、と思ってます。決めたことはちゃんとやりたい性格なので、それがズレると崩壊しちゃうんですよ。だから決めないで、生きたいように。人に必要とされる人間でありたい、と思っています。ゴルフをやってるから、じゃなくて、人間として。
原田:36歳くらいから飛ばなくなって、スイングがおかしくなって、視力も悪くなってラインも読みづらい。クラブを変えて練習しても練習してもうまくいかなくなった時は、そろそろなのかな、って思ったりしましたね。子供もほしかったけど、子宝には恵まれなかった。日大時代の同級生だった田中ウルヴェ京さん(1988年ソウル五輪シンクロナイズドスイミング デュエット銅メダリスト。スポーツ心理学者)がJLPGAのセミナーに講師として来てくれた時に言われたの。「アスリートは自分が丈夫だと思っているけど、体を酷使しているからそのあと大変なんです」って。選手として賞金女王にもなりたかったし、女子オープンにも勝ちたかったけど、7勝できたのはよかったかな、って思いますね。
―賞金女王争いの末ランキング2位が2回(96、98年)と、女子オープンも96年は高村亜紀さんに1打差2位。惜しかったですよね。
原田:そのあとは理事を続けていたけど、この先もゴルフに携わっていきたいとは思っています。
藤田:私は選択肢がある人生がいいと思っています。これからでも、先生という新しい世界を一からできる可能性もあればいい、って。
原田:ゴルフを通じて、色々なことを世の中に還元できたらいいかな、と思います。「ゴルフに恩返ししたい」っていう人が多いんですけど、私にはあまりピンとこなかったんです。でも、今になって思うのは、私のできることを試行錯誤しながら、ゴルフを通じて発信していけたらいいかな、と思っています。このコラムのようにね。
―素敵なお話をたくさん、ありがとうございました。
原田:光里ちゃん、どうもありがとう。また来てね。
藤田:楽しかったです、ありがとうございました。

原田香里(はらだ・かおり)
1966年10月27日生まれ、山口県出身。名門・日大ゴルフ部にで腕を磨き1989年のプロテストに合格。92年の「ミズノオープンレディスゴルフトーナメント」でツアー初優勝。93年には「日本女子プロゴルフ選手権大会」、「JLPGA明治乳業カップ年度最優秀女子プロ決定戦」勝利で公式戦2冠を達成。通算7勝。その後は日本女子プロゴルフ協会の運営に尽力し21年3月まで理事を務めた。
藤田光里(ふじた・ひかり)
1994年9月26日生まれ、北海道出身。北海道のアマチュアタイトルを総なめにし、2013年のプロテストに一発合格。同年のQT(予選会)で1位に入り、翌14年にツアーフル参戦で初シード入り。15年の「フジサンケイレディス」でツアー初優勝。その後はケガに悩まされるが、19年のステップ・アップ・ツアー「ユピテル・静岡新聞SBSレディース」で優勝。レギュラーツアー復帰を目指している。
(聞き手・小川淳子)

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