採用において見た目は重要項目なのだろうか(写真:ふじよ/PIXTA)

清廉潔白、品行方正、謹厳実直――。とことん潔癖が求められる。そんな現代ニッポンの実態と、生き抜き方を具体例とともに追っていく連載第2回。

前回:日本人の間で進む「潔癖を求める社会」のリアル(2月24日配信)

農水省のコンプラ豆まき

「鬼であっても豆をぶつけるのはいけない」

農林水産省が「農水省的コンプライアンス豆まき」をYouTubeで発表した。豆まきにもコンプライアンスが求められるらしい。いわく「消毒・換気を行い大声は控えましょう」「豆まきに使った豆は食ロスをなくすために食べたい」として小分けのラッピングを推奨した。


画像をクリックすると連載一覧のページにジャンプします

さらに「人に対して勢いよく豆を投げるのは危険です」として、鬼に確認したあとで常識の範囲で投げろ、とした。「すべての鬼が悪いと一概に決めつけることはそういう人種、人種の違いによる偏見、差別的な表現と捉えられる恐れが……」としている。

その後の動画では、鬼に豆を投げずに、パッケージの豆を渡し「お引き取りください」と語るにとどめている。また、豆を食べる個数についても多様性を強調している。

もっとも、これは農林水産省のギャグと捉えるべきであり、あまり真剣に取り扱うのは趣旨と異なるはずだ。逆に、現代の過剰なコンプライアンスに皮肉を伝えていると理解するべきだろう。しかし、そもそもこのような動画が発表されること自体に、ある種の時代を感じざるをえない。

この農水省のコメントのなかで、やはり注目したいのは「すべての鬼が悪いと一概に決めつけることはそういう人種、人種の違いによる偏見、差別的な表現と捉えられる恐れが……」のところだ。鬼の見た目がどうであれ、それだけで判断はできない。このような発言は逆説的に、誰もが見た目で判断してしまう現実を意味している。

ボディシェイミングという言葉がある。これは、外見をからかったり、批判したりすることを指す。肌の色からはじまって、身長、体型、顔、髪の色、髪の毛の多寡……さまざまにいたる。注意せねばならないのは、それがいい意味でも発してはならない点だ。やせている、とは褒め言葉のつもりでも、本人はイヤかもしれない。大きな瞳をたたえたとしても本人は気にしているかもしれない。

ビジネスの現場に話を移す。

私が企業で働いていたとき、アメリカ人の同僚がいた。彼が驚いたのは、日本で採用募集のときに顔写真や年齢やらを要求することだったようだ。それは実力とは無関係であり差別を助長するらしい。実際にアメリカではあくまで本人の能力こそが重要という考えのもと、履歴書ではそれらは不要だ。

「といっても、見た目やファミリーネームで何らかわかるんじゃないの?」

「いや、だからそういうのを意識しないのが重要なんだ」

テスラやNVIDIAが宣言する規範

企業は自社だけではなく、取引先にも従業員に同様の対応を求める。たとえばテスラの「取引先行動規範」(Tesla Supplier Code of Conduct)を見てみよう。テスラは取引先にも「人種、肌の色、宗教、婚姻状況、年齢、出身国、祖先、身体あるいは精神障害、医療状態、妊娠、遺伝情報、性的指向、(略)等で差別されるべきではありません」としている。

またGPU(画像処理半導体)で有名なNVIDIA(エヌビディア)も取引先に「労働者の安全確保、緊急事態への備え、長い作業時間への対応」を求め、さらに「労働者は自発的でなければならず、仕事をいつでもやめることができるものとします」としている。

もちろん強制労働を想定しているのは承知している。またISO26000やSA8000などの国際規格にのっとって、これらの規範が作られている。

ただ、その先を考えてみよう。日本企業では優秀な社員が辞めようとすると上司らが全力で止めにかかるが、これはおそらく近い将来には労働者の自発性を確保していないとみなされるだろう。『辞めます』『考え直せ』が批判の対象となる。

ところで先日『ROCKIN' ON JAPAN』2022年3月号にシンガーAdoさんの興味深いインタビューが載っていた。『うっせぇわ』が爆発的ヒットになったAdoさんといえば素顔を出さない歌い手として知られる。Adoさんは「今もなんですけど、自分に対してコンプレックスがすごくて。容姿から言動から性格から、何から何までほんとに大っ嫌いで。(中略)このままの自分でいるのはすごい嫌だって思い続けていた」と語っている。漂白化される社会で、リアルな自らを消し、アバターを作り上げた歌手がヒットしている現実は興味深い。

話をふたたびビジネス現場に戻す。

そこで登場したのが、バーチャル面接におけるアバターだ。これはコロナ禍ではじまったオンライン面接を発展させたものだ。面接官も、応募者もオンラインかつ、アバターに扮する。こうすることで見た目にも影響を受けずに、内面重視で採用ができるという。さらに学歴や性別、年齢も不詳にできるように、声も変化させられる。技術系の学生は、どうしても素の自分を出せないから、アバター越しのほうがいいらしい。

見た目は採用の重要項目か

かつてインタビューで「ウチは美男美女を採用します。だって、働くならそっちがいいでしょ」と語った経営者がいた。しかし、現在ではそのような発言をする経営者はいないだろう。すくなくとも堂々と語る勇気はもてないに違いない。

以前、ある面接官は「容姿を見ると、その人がどのような人生をたどってきたかがわかる」と言っていた。この話に私は大きくうなずいた。しかし、この面接官も私も、もはや時代遅れ、ということなのだろう。

非常に興味深いのは、こういったニュースを伝えるメディアの人たちは誰もが美男美女のように見える。しかし、この感想を抱く私は差別主義者ということなんだろう。たとえばメディアの採用官にどんな基準で採用しているのですかと問えば、「総合的に決めています」「容姿では決めていません」と答えるだろう。もちろん、私はルッキズムの観点から、この手の議論が繰り返されてきたのも知っている。ただ、企業側の高度な二枚舌に、ある種の違和感をもつ人たちも多いに違いない。

趣旨ではないので固有名詞は書かないが、ある自治体の首長が昨年(2021年)に高速道路の建設現場を視察に行った際に、女子学生が同行した。首長は、その女子学生たちの容姿が「きれい」だったと語った。さらに、同高速道路の開通が予定より早まったことについて、建設現場監督が女子学生を気に入ったので仕事がはかどった、と分析してみせた。

おそらく以前であれば、「あ、なんかオッサンが適当なことを言っているな」と冷笑されるか無視されていただけだったかもしれない。しかし、報道陣からも容姿発言が問題視され、さらに建設現場への侮辱とも捉えられ、首長は謝罪に追い込まれた。

たぶん首長は女子学生を「きれい」と思ったのはほんとうだろうが、それを言ったり、建設現場の成果と結びつけたりするのが決定的に間違っていた。思うのと、言うのでは、まったく違う時代に私たちはいる。しかし私はこのような時代の潮流に反対したいわけではない。不可逆で追随すべきとすら思っている。

漂白化される社会における内面重視

私たちは、すべて内面を問われる社会にいる。たとえば採用面接のとき。実際の採用基準はわからない。それに明示化された基準はないかもしれないが、表面的には内面が判断され落とされることになる。

会社に入っても、表面的には内面と能力だけが問われることになる。昇進できなければ、つまり内面と能力が否定されることになる。ほんとうの昇進基準とは違うかもしれないが、それはもはや問題ではない。そんなことを疑うこと自体がもはや時代錯誤だ。

繰り返しになるが、私はこのような傾向を否定していない。ただ漂白化する社会は、こんなところに私たちを連れていった。「何も言えなくなるじゃないか」と嘆く人がいる。そのとおりで、私たちは漂白化する社会では、何も言わないほうがいい。

(第3回に続く)

前回:日本人の間で進む「潔癖を求める社会」のリアル(2月24日配信)

(坂口 孝則 : 調達・購買業務コンサルタント、講演家)