オードリー・タンを「絶望の淵」から救った人たち

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母・李雅卿(リー・ヤーチン)さんの手記『成長戦争』を手にするオードリー・タンさん(写真:筆者提供)

台湾のデジタル担当政務委員大臣オードリー・タンさん。今でこそ世界中のイノベーションの最先端を牽引する存在ですが、類まれな才能を持つギフテッドであるがゆえに、幼い頃は既存の教育体制に相容れなかったという過去もあります。

そんなオードリーさんを育てた母親・李雅卿(リー・ヤーチン)さんによってその全貌が綴られた手記『成長戦争』は、今から20年前以上の台湾で出版されてベストセラーになった後、現在は絶版となっています。

この度オードリーさんの公認を受け、『成長戦争』を引用・翻訳しながら現代向けに書き下ろされたノンフィクション『オードリー・タン 母の手記「成長戦争」 自分、そして世界との和解』から、オードリー・タンを「絶望の淵」から救った人たちについて、一部を抜粋してご紹介します。

休学し、殻に閉じこもった日々に見えた光明

小学3年生で休学してから、オードリーはまるで「雷に打たれた後のウミガメ」のように頭や手足を縮めて硬い殻の中に閉じこもり、日々コンピュータや書に明け暮れていた。

そんなある日、李雅卿がオードリーを連れて散歩をしていると、家から歩いて20分ほどの山ぎわにある《指南(しなん)小学校》の校長にばったり遭遇し、立ち話の流れで校長からうちの学校に通わないかと誘われた。実際に訪ねてみると、人数も少なくこじんまりとした学校で、子どもたちも教師たちも良い雰囲気だ。

「うちで新しい生活が始められるかもしれないね」と校長に言われたオードリーが「僕は他の子どもたちと違うんです! 少し特別なんです」と言ったのに対する、談話に同席していた蔡文芷(ツァイ・ウェンズー)という教師の「うちの生徒はみんな特別だよ!」という一言がきっかけとなり、オードリーは指南小学校に転入することになった。

穏やかな校風の指南小学校は、前の学校のギフテッドクラスのように競争心や比較に満ち溢れてはいなかったものの、オードリーにはやはり、一般的な学校のカリキュラムが合わなかった。そして、皆が揃って同じことをする団体行動になじめなかった。学校の図書館の蔵書を「スキャン」し終わると、また学校に行きたくないと言い出した。

前述した蔡文芷先生は心根の優しい教師だったのだろう、何度もオードリーの自宅を訪問してくれたそうだ。ある日、家に来てくれた蔡先生の帰りを見送る時、申し訳なくなった李雅卿が「本当に、あの子はどうしてこうなってしまったのでしょう」と言うと、蔡先生は「あなたの態度は必ずお子さんに影響しますから、学校に行かせたいのであれば、時には頑なになることも必要ですよ」と返した。

「頑なになったこともあります。でも私が頑なになれば子どもが悪夢にうなされるので、仕方がありませんでした。それに私には子どもが学校に行かなければならない理由が本当に見当たらなくて、説得できないんです」。


(写真提供:唐光華/オードリー・タン

李雅卿が正直に打ち明けると、蔡先生は「あなたは小さい頃、学校に行くのが好きだったんですか?」と笑った。「どうなんでしょう、こんな問題、考えたことがないかもしれません」と李雅卿が答えられずにいると、「そうでしょうね。あなたのような母親を持ったから、お子さんはこういった問題に挑戦できるんですよ」と言って、蔡先生は立ち去った。

李雅卿は階段口に立ちつくしたまま、長い時間動けなくなった。

「私は子どもにどうなってほしいのだろう? 私は自分自身に訊いた。
温和? 従順? 明るい? 理性的? 寛大? 意志が強い? 独立している? 順応できる? 機敏? 正直? 

――この時、突然自分の中にある貪欲な心と、その矛盾に気が付いた。私が心の中で求めているような子どもは、この世に存在せず、自分でもなることのできない『聖人』だ。そう思った途端に考えがはっきりし、身も心も明るくなった。もう、どんな子どもになってほしいかなど考えない。私は子どもがしっかりと生きていてくれたらそれで良い、ありのままで良いじゃないか!」

蔡先生の啓発を受けた李雅卿はオードリーの休学を受け入れ、1人、また1人とオードリーにとって恩師となる教育者たちと出会っていく。この時の彼女はまだそれを知らないし、それを目指したわけでもない。ただひたすら、オードリーの心を取り戻したいと願って行動しただけなのだと思う。

ギフテッドではない筆者に、ギフテッドであることの苦しみを理解することはできないが、少なくとも、この天賦の才能をいかんなく発揮できる人や場所に巡り合うことが、決してたやすくないということは分かる。それに、大人と同じかそれ以上に数学や物理ができるからといって、人と関わる力まで最初から成熟しているわけではない。オードリーの場合、人格形成の要となる時期を導いてくれたのが、この時に出会う教育者たちだった。

外に連れ出してくれた「教育者」

まず出会ったのは、楊文貴(ヤン・ウェングェイ)という大学教授だ。

あるセミナーに主婦連盟の代表として参加した李雅卿は、セミナー中にした質問が「一般的な保護者が関心を持つ問題でなかった」ことから、国立台北師範学院(現:国立台北教育大学)のカウンセリング学科で教鞭を執っていた楊文貴教授から声をかけられた。これをきっかけに、楊文貴教授はオードリーや宗浩を遊びに連れて行ってくれるようになる。

彼らが海水浴や絵画展へと出かける際、李雅卿は車の運転を担当することになった。しょっちゅう出かける様子を見て、祖母が李雅卿に彼氏ができたと誤解するほどだった。唐光華がドイツから国際電話をかけ、自分もすべて承知した上で支持しているのだから安心するよう伝えている。

ある時、台湾北部の宜蘭で行われた楊文貴教授の実験教育キャンプにゲストとして参加したオードリーは、他の大学生たちの中で特別扱いをされることもなく、自分の年齢を忘れて楽しく過ごした。一晩目はいつも通りベッドに入ると泣き出し、李雅卿に抱きしめられて眠ったが、三晩目には1人で眠り、これ以降、悪夢にうなされて夜中に目覚めることはなくなったという。

李雅卿の喜ぶ様子が伝わってくる。

「1年以上続いている悪夢を追いやれそうだと信じ始めた私に、楊教授は『喜ぶのはまだ早いよ』と、宗漢の状況を分析して聞かせてくれた。

『まだ、彼の人に対する警戒心を解いただけに過ぎない。この子はいくつかの大きなニーズを同時に満たしてあげないと、幸せになるのは難しい』

そう言って、彼が必要としているニーズについて教えてくれた。仲間から受け入れてもらうこと、知識の探求、想像力の広がりに、感情――なんということだ! 私には何ができるのだろう。

借りた自転車に乗り、蘭陽(らんよう)平原の広々とした稲田を通り過ぎると、風が顔を撫で、稲たちが波のようにうねっていた。このままずっとこうして自転車を漕ぎ続け、永遠に戻りたくないと心から願った。

けれども空は暗くなる。私は帰って自分の息子と仕事に向き合わなければならなかった」

キャンプ最終日の成果発表会で、李雅卿は「宗漢のお母様ですか?」と学生から声をかけられた。キャンプ中、オードリーの数学力がずば抜けていることに気付いた彼らは、自分たちの指導長を紹介してくれた。

個人的に教えてくれるという大学教授との出会い

李雅卿が指導長にオードリーの状況を伝えると、彼は「台湾大学の朱建正(ヂュー・ジエンゼン)教授は、ギフテッド教育について非常に深い研究をされていて、数学についてディスカッションをするグループも主宰しています。あなたのお子さんはそこに行ってみても良いかもしれません」と言い、朱建正教授の研究室を訪問する手配までしてくれた。

そうして出会った朱教授は、オードリーと少し会話をしてから李雅卿の方を見て、「唐夫人、この子はうちのディスカッショングループには入れないですね」と言った。李雅卿はきっとオードリーのレベルが追いついていないのだと思い、礼を言ってその場を立ち去ろうとした。ところが朱教授は「私はあのグループには適さないと言っただけで、教えないとは言っていないですよ! こうしましょう。これから毎週彼をここへ連れて来てください。私が2時間教えましょう」と言うではないか。

「大学の教授が毎週2時間も個人的に教えてくれる? そんなことがあるものか、きっと私の聞き間違いに違いない」――混乱で言葉を失った李雅卿を見て、朱教授は「何か問題でも?」と訊いてきた。いったいどのようにお礼をすれば良いのかと、恐る恐る「私は何を準備したら良いのでしょうか?」と訊き返すと、朱教授は言った。「子どもを連れて来れば良いのです、ほかに準備がいるものなんてありますか?」と。

李雅卿がこのことを楊教授に報告すると、「それは良かったね! これで宗漢の数学はもう大丈夫だ」と喜んでくれた。「人生には計算できないことがたくさんあるんだよ。私も、宗漢のおかげでカウンセリング心理学上たくさんの学びや心得、検証ができた。これだって計算したことじゃないよ! 知らないのかい? 名医っていうのは良い病例に出会うと手が疼くものなんだ。お互い様なんだから、遠慮する必要なんてないんだよ」と笑った。

このようにして、オードリーは朱教授のもとで数年間、知識欲を満たしていった。

朱教授には3人の子どもがいて、全員が理数系に秀でたギフテッドだった。彼は国内でとてもたくさんの優れた子どもたちを指導していたから、ギフテッドらが一般の教育体制の中で抱くであろう悩みについて、非常に深い理解があった。

オードリーへの2時間の指導時間の中で、彼は数学以外にも歴史や地理、人生、物理、化学など、あらゆる話をした。指導時間が終わると、いつも10、20冊の本を与えてくれた。さまざまな雑学までをも教えてくれる朱教授は、唐光華が台湾を不在にしていた間、オードリーにとって「教父」とも呼べる存在だった。


楊文貴教授に「仲間が必要になってくる頃だから」と勧められ、オードリーは台湾の児童哲学の草分けとなった《毛毛虫児童哲学繁室》へ通い始めた。李雅卿もその成人クラスへ通い、そこで楊茂秀教授と出会った。楊茂秀教授は全校生徒が60〜70人しかいない「直潭(ちよくたん)小学校」へ行ってみたらどうかとアドバイスし、紹介までしてくれた。

たまたま楊文貴教授の知り合いが直潭小学校で教務主任をしていたことも手伝って、オードリーは幸いにも同校で特別カリキュラムを組んでもらえることになった。直潭小学校の校長も理解を示し、オードリーは4年生から6年生に飛び級させてもらうばかりか、1週間に3日だけ登校してクラスメイトたちとの友情を深めれば良く、ほかの3日間は彼を台湾大学や師範大学、《毛毛虫児童哲学繁室》などへ行かせ、知識学習のニーズを解決してくれることになった。このようなカリキュラムは、後のオードリーの自主学習にも影響を与えたという。

また、楊文貴教授のアドバイスで、中学3年間で習う数学の内容を1年でオードリーに教えてくれたのが、同じ師範大学で当時4年生だった陳俊瑜(チェン・ジュンユー)だった。母親は毎週3日の午後にその授業を受けるようスケジューリングしていたが、彼らはその日やることをすぐに終えてしまうと、トランプゲーム「コントラクトブリッジ」をしたり、パソコンで遊んだり、台北の秋葉原と呼ばれる光華(こうか)商場へ繰り出したり、女の子に夢中になったりと、大学生がすることはすべてし尽くしたという。

「黄金の歳月」

「ついに宗漢の顔に明るい笑顔が見られるようになった」

オードリーは生き返ったように自分を取り戻し、この頃から詩を書くようになった。李雅卿もまた、オードリーが直潭小学校で過ごした1年間は「母子にとって黄金の歳月」だったと振り返っている。

「宗漢はいつも、自分を助けてくれた教師たちのなかで、誰が最も大きな影響を与えたのかは分からないと言っていた。それでも私にははっきりと分かる。1年以上の努力の末に、宗漢は大人の世界への信頼を取り戻し、世界と和解したのだ。

彼はもう自殺しようとはせず、未来への希望で満ちている。宗漢がゆっくりと自分を取り戻していく過程を見ながら、私は教育に対してさらに深い見方をするようになった。自分の子どもがそこで窒息しそうになり、また同じ場所で命を取り戻すのを、私はこの目で見たのだから」