私たちは組織に属して生きている。「人事」が重要なのは戦国時代も同じで……(写真:takashi/PIXTA)

現代を生きる私たちの多くは、なんらかの組織に属し、組織人として生きている。そして、組織のなかで生きる以上、「人事」は無視できないだろう。もちろん、「人事」が重要なのは現代に限らない。

歴史学の第一人者たちである遠山美都男、関幸彦、山本博文の3氏が「抜擢」「派閥」「左遷」「昇進」などから歴史を読み解いたユニークな日本通史『人事の日本史』。本書から武田信玄の「『人材』を見抜くための眼力」について抜粋して紹介する。

戦国の雄、武田信玄

戦国の雄として知られた武田信玄の居城、躑躅ケ崎は、まことに小さかったという。江戸時代、荻生徂徠が甲斐を訪れたときの感想だ。

信玄の偉業との隔たりが大きかったせいもあり、徂徠はそう感じたにちがいない。たしかに信長の安土城などと比べればそうであったろう。だが、ライバルだった越後の上杉謙信の春日山城に比べても見劣りがしたようだ。

信玄らしいという点は、この居館の姿に、実用に徹したその生き方が語られている。

信玄の有名な言葉がある。

「人は石垣、人は城。情は味方、仇は敵」

軍学書として知られる『甲陽軍鑑』に収められる、徂徠の「峡中紀行」も引用する一節だ。ご存じの読者も多いだろう。

たしかに信玄は領国の要を「人」においたことがうかがえる。領国の経営と安定のために、領内の武士と農民をしっかりつかまえておけばよい。城の構えは二の次だ、との思考が見える。

居城や館はシンボリックなものとして、当時の戦国大名たちが巨大さを競ったことも事実だが、一方ではこの信玄のように虚飾を棄てた人物もいた。

堅固な城は領内での反乱に対する防御のためももちろんあった。だが、信玄は配下の武士、農民ともどもが自己の陣営のために命を張ることを疑わなかった。

とすれば、堅固な城もなんら必要はないし、まして石垣や堀で城を補強することもない。これが「人は石垣、人は城」の本質ということになる。ここには人間第一主義ともいうべき領国経営の方針が見事に表現されている。

これは経営者にもあてはまる。公私を混同し、社員の福利厚生と称して御殿のような屋敷を建てる輩もいる。だが、それでは社員に愛社精神は芽生えない。社員を城という会社に同化させ、アイデンティティを醸し出す算段こそが問われる。

では信玄は、この人間第一主義をどう展開したのか。

目先の利にとらわれない生き方

その前に簡単に、その生涯を振り返っておこう。

信玄は大永元(1521)年に甲斐守護武田信虎の長男として誕生した。北条早雲がこの2年前に死去している。また毛利元就が家督を継いだ時期に近い。信長の誕生はこの十数年後だった。

幼名勝千代、天文5(1536)年に元服して晴信と称した。天文10年に父を駿河の今川氏に追放し、家督を継ぐことに成功する。

以降、信濃各地に転戦、雄族村上義清を越後へと走らせた。これを受けた上杉勢が南下、その後の信州川中島の戦いへとつながる。

さらに相模や駿河へも兵を進め、元亀3(1572)年には大軍を西上させ、上洛をくわだてた。三河そして遠江へと進んだ信玄は、三方ケ原の戦いで家康軍を撃破、長篠城へと進撃するが、途中の信州伊那で天正元(1573)年死去する。53歳のことだった。

50年あまりの彼の生涯は、他の戦国武将と同じく東奔西走の日々だったが、注目すべきは、すぐれた人材活用術に加えて、“富国”のための政策だった。

言うまでもなく、大名たちが戦いに勝つためには、農民支配がいちばんの基礎である。安定した領国経営を前提にした総力戦だった。そのために、特色ある領国経営が問われた。

信玄に関して言えば、年貢(税金)を取るという目先の目的に終始しなかった。奪うことのみでは利益は生まれない。奪う前に、まずは与えること、この発想こそが信玄だった。

与えることは回収を予測してのことだが、目先の利にとらわれすぎればその大局を忘れ、与えることの意味さえ定かでなくなる。

“森”を見すぎれば、“木”に注意がいかないこともある。“木”を農民にたとえるなら、一本一本の木々の力が“森”を活性化させる。このことを信玄は知り抜いていた。

堤防も人も、“すぐに”ではなく“いずれ”

信玄には“信玄袋” “信玄餅”など、その名にまつわるものが少なくない。新田開発のためにつくられた堤防、“信玄堤”もやはりそうだ。

かつて税は力、すなわち労働力だった。“税”の文字にはチカラという意味がある。

このチカラ(労働力地代)とカネ(貨幣地代)の間に位置するのがモノ(生産物地代)で税をまかなった時代だ。

人間の歴史を税の変化から言えば、チカラ→モノ→カネという形で移った。古代→中世→近代がこれに対応する。そして、このモノ(生産物、年貢)を税とした封建社会が、信玄の時代だった。要は農業がすべての基本となる社会だ。富国強兵の基盤だったのである。

「水を治めるモノは天下を制す」とは中国のことわざだが、時は移り、所は変わっても同じことが言える。信玄の卓越さは、この「治水」を領国統治の基本にすえたことだった。

甲斐盆地には、釜無川、笛吹川をはじめ大きな川が流れ、氾濫による被害が重なっていた。そのたびに対症療法がとられたものの、洪水には無策だった。農業経営の不安定さが、領国の経済基盤を弱いものにしていたわけで、これへの取り組みが課題となっていた。

目先のことへの対応はできても、100年先の大計は現実のものとはならない。膨大な費用と大量の民衆、金と力を使い続けなければ達成できない事業だった。信玄堤と呼ばれる堤防の実現は、それだけの難事業だった。

「甲州流川除け」とされた技術で、竹・松・柳を植えて根固めをし、亀甲出しを設けるなどの築堤術が駆使されていた。

この苦心が実り、領国内での農業生産は安定する。信玄の西上への夢は、この治水の成果で現実のものとなった。

余った資金を使っての設備投資は誰もが考えつくことだ。現代のわれわれだって、会社の運転資金が厳しい状況では、その優先順位があるのが普通だ。だが、“普通”では生き残れないことを信玄は教えてくれる。

組織の飛躍のために先を読んだ施策が何であるかを考えた上での発想が、信玄堤だったことになる。

苦しいときに何を優先させるか。これは組織の長たる者の経営センスに属する。

信玄の場合、目的(農業経営の安定→信用)と手段(治水→築堤)との間に速効性を考えなかったことだった。“すぐに”ではなく“いずれ”という大輪の咲かせ方を用いたのだった。

一般には目的と手段に速効性のみを追求しがちだ。だが、時間をかけ、費用をかけねばならぬものに速効性を求めてはいけない。

これは何も信玄堤に限ったことではない。「人は石垣、人は城」のとおり、人をまさに“材”とみなす活用法にもあらわれている。

真の人材である、分別・遠慮・兵を求める

独断専行が多い戦国武将の中にあって、信玄は合議を重んじた。出陣に際しては徹底して議論をしたという。聴く耳を持っていたのだ。

「信玄家法」あるいは「甲州法度之次第」とされた規律のさまざまには、公正を重んじたその性格が読みとれる。

自分が法律であるかのような誤解を、信玄は持たなかった。ワンマンにありがちな専横を自ら戒めたのだ。だから、もし信玄自らが法の趣旨に背くようなことがあれば、貴賤を問わず目安に申し出よ、と令達した。人の和を重視する姿勢のあらわれであり、同時に例外状況をつくらない公正さの表明だった。領民に信頼されるゆえんである。『甲陽軍鑑』には、信玄の人の見方を知る上でおもしろい内容が語られている。

一、信玄宣(のたま)ふ、世間に侍の事は申に及ばず、奉公人、下々迄も、具生付たる形義有べし。……一つには分別有る者を佞人と見る。二つには遠慮の深き者を臆病とみん。三つには、がさつ成る人を兵とみん。是大なるあやまり成るべし。分別の有る人は十を七分残して三分申す。遠慮深き者は後先をふみ、常に万事を大事にする。


いささか長い引用だが、人を見極める信玄の眼力がよく表現されている。そこには「分別」と「佞人(ねたみ、へつらう人物)」、「遠慮」と「臆病」、「がさつ」と「兵」のちがいが語られており、真の人材は「分別」「遠慮」「兵」の気風を備えていると指摘する。

表面的な判断で人物を評することの戒めともとれる信玄の人材登用法。人の活用を通じて、信玄は甲斐を一等の国へと育成した。

大局としての森を見ることの重要性もさることながら、足元の木、これを忘れたのでは意味がない。戦国武将武田信玄の教えの1つでもあった。