国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の式辞は13分にもおよんだ(写真:Noriko Hayashi/Bloomberg)

日本を代表する一部上場企業の社長や企業幹部、政治家など、「トップエリートを対象としたプレゼン・スピーチなどのプライベートコーチング」に携わり、これまでに1000人の話し方を変えてきた岡本純子氏。

たった2時間のコーチングで、「棒読み・棒立ち」のエグゼクティブを、会場を「総立ち」にさせるほどの堂々とした話し手に変える「劇的な話し方の改善ぶり」と実績から「伝説の家庭教師」と呼ばれ、好評を博している。

その岡本氏が、全メソッドを初公開した『世界最高の話し方?1000人以上の社長・企業幹部の話し方を変えた!「伝説の家庭教師」が教える門外不出の50のルール』は発売後、たちまち12万部を突破するベストセラーになっている。

コミュニケーション戦略研究家でもある岡本氏が「なぜ、バッハ会長のスピーチは刺さらなかったのか」について解説する。

賛否うずまく中、東京五輪が開幕しました。


その開幕の場となったオープニングセレモニー。いつもの派手さはない、極めて異例の式典となりました。

まずは、綱渡りの厳しい状況下で、何とか開催にこぎつけたこと自体、評価されるべきであり、現場のスタッフの皆さんのご尽力には深く敬意を表したいと思います。

一方で、正直、残念さ、物足りなさ、もやもや感を覚えた人も少なくはなかったようにも感じます。

とくに、その祝祭ムードに水を差したのが、ほかでもない国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長の挨拶でした。なぜ、彼の言葉は私たちの心を1ミリも動かさなかったのでしょうか?

バッハ会長のスピーチ、問題点は?

【1】「ぶっ倒れる」ほど長かった

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の橋本聖子会長とバッハ会長、合わせて9分の予定だったものが、結局、2人で20分となりました。うち、バッハ会長が13分

3時間以上の長丁場の最終ステージで、参加している選手も、テレビを見ている視聴者の集中力も途切れるあのタイミングとあって、ネット上でも「長すぎる」「校長先生の話なら、生徒の誰かがぶっ倒れているレベル」と悪評ふんぷんでした。

ロイター通信も、「バッハ氏の長いスピーチが、憤りを買う」と言う記事を掲載。ちょうど橋本氏の2倍の長さのスピーチだったことに言及していました。

【2】「自分の言葉」ではなかった

スクリプトを一字一句読み上げるスタイルで、日本の政治家のように、堅苦しく、四角四面で、少なくとも私の周囲の人間にはその魅力がまったく伝わりませんでした

一流のスピーチは、たとえ原稿があったとしても、それを読んでいるように感じさせないか、ほんの一部でも、書かれていない「自分の言葉」を交えることで、言葉に命が宿ります。そうした工夫も、まるで見られませんでした。

続いて、バッハ会長のスピーチが刺さらなかった3つめの理由は、「絵の浮かばない抽象言葉」の羅列だったということです。

「連帯」ほど刺さらない言葉はない

【3】「絵の浮かばない抽象言葉」の羅列

スピーチで大切なのは「生きた言葉」です。

二流のリーダーがやりがちなのは、「命を失った抽象言葉」を羅列すること。このスピーチもまさに、その典型でした。「希望」「連帯」「平和」「不屈の精神」など、頭の中に、何のイメージも絵も湧かない、感情も奮い立たない言葉が続きました

「私たちが学んだことは、一層の連帯が必要だということです。社会と社会の一層の連帯。また、それぞれの社会の中の一層の連帯が必要です」
「連帯がなければ、平和はありません」

など、「連帯」という言葉が頻出したわけですが、まるで、社長室や校長室の壁に貼られた「標語」のような言葉が心に刺さるわけがありません。私のような中高年世代であれば、1980年代のポーランドの独立労働組合が思い出されるくらいです。

【4】「共感」がない

バッハ会長は日本人に向かって、こう言いました。

「私たちが皆ここに集うことができるのは、私たちをホストいただいている日本の皆さんのおかげです。心からの感謝と敬意を表したいと思います」。「組織委員会、そして日本の関係機関が、大変すばらしい仕事をしてくださいました。オリンピックに出場するアスリートたちに変わり、心から感謝申し上げます」

その後も、「感謝いたします」を連呼したわけですが、誰かがあなたに「感謝と敬意を表します」「感謝申し上げます」と言ったら、本心だと思いますか? 社交辞令だろうと感じますよね。

ちなみにこれは和訳の問題なのかと思い、英語の原文を見てみましたが、こちらも堅苦しい表現で、儀礼的な表現。ここで、心から自分の言葉で、コロナで苦しんだ日本人、全世界の人々の気持ちを推し量り、寄り添い、共感し、共感させることができていたなら、心象は大きく変わっていたでしょう。

「世界最高の話し方」を解説する連載記事でも、何度も申し上げている通り、コミュニケーションにとって何より大事なのは「共感」です。

「どんなことを言うのか」ではない、「どんな思い、感情を聞き手に残すか」。その部分がすっぽり抜け、心の針がピクリとも動かない内容だったのは極めて残念でした。

また、「情感」がまったく伝わらないスピーチだったという問題もあります。

【5】抑揚も情感もないデリバリー

橋本会長の挨拶も、決して、最上級といえるものではありませんでしたが、少なくとも、こみ上げる涙を必死で抑えている様子などがうかがえ、情感がこもり、訴えかけるトーンであったように感じました。

これが森喜朗・前組織委員会会長の挨拶だったら、いったいどれぐらいの長さの「マウントトーク」になっていたのだろうかと思うと、寒気がしますが、バッハ会長のスピーチは、その「情感」がまったく伝わりませんでした

力強さを前面に出すタイプなのかもしれませんが、ジェスチャーや声のトーンも一本調子。世界のエリートにも、「退屈な話し方」をする人は少なくないことを知る機会になったといえるかもしれません。

【6】ストーリーがない

葛藤や困難、苦労、相克などのヒューマンストーリーやエピソード、逸話などが盛り込まれていなかったことも印象に残らない大きな理由です。

会長の話からはずれますが、「ストーリー」や「共感」という意味では、開会式自体にも多くの課題がありました。

時間や人的な制約で仕方なかったのかもしれませんが、結局、何が言いたいのか、わからない演出。ぶつ切りで、寄せ集め的な構成で、前後のつながりがなく、「キーメッセージ」も「ストーリー」もなかったのは非常に残念でした。

「日本の発信力の欠如」が明らかになった

ジグゾーパズルの一つ一つのピースは精巧に間違いなく作られているけれど、全体を組み合わせてみると、何の絵も浮かび上がらない。

つまり、「ディテールはいいけれど、最も言いたいメインメッセージがあいまいで、結果的に何も伝わらない」という日本人の典型的なコミュニケーション手法を象徴するイベントだったと言えるかもしれません。

これまでの派手で、豪華絢爛なセレモニーが正解だったとは思いません。刻々と事情も責任者も変わり、予算も限られる中で、現場の方々が信じられないほどの制約と戦ってきたことは容易に想像できます。

ただ、その不眠不休の努力、思いを、バッハ会長や現場の責任者が生身の言葉で伝える場面や機会があってもよかったのではないでしょうか。

血のにじむ汗と涙のストーリーを吐露してもらえれば、われわれも共感し、理解しうるところもあったでしょう。世界中の人々が、コロナと恐怖と言う共通の敵と戦ってきたわけです。その気持ちに寄り添い、人智の力で、共に打ち勝つストーリーを描き出せたかもしれません。

しかし、なぜ、そうしたメッセージ性はかき消され、バッハ氏の美辞麗句のスピーチに象徴される、言葉や見世物の羅列で帰結してしまったのか。オリンピックというイベントの特殊性もあるのでしょうが、いずれにしても、「日本の発信力の欠如」という大問題があらためて浮き彫りになったと言わざるをえません。

この課題は、「とりあえず、良かった」「あとは競技を楽しもう」と忘れ去るのではなく、今後、慎重に分析・検証していくべきものではないでしょうか。