官僚が「ブルシット・ジョブ」(くだらない意味のない仕事、どうでもいいクソ仕事)に勤しむのをやめさせるにはどうすればいいのか。政治社会学者の堀内進之介氏は「“どうでもいいクソ仕事”をしているなら、まだいい。むしろ批判を受けて官僚が『人間的』に働くようになれば、より酷い官僚制が生まれるだろう」と指摘する――。

※本稿は、堀内進之介『善意という暴力』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

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■「2030年までに1日3時間労働が実現する」はずが…

少し前から、AIが人間を超えるだとか、そのために仕事がなくなるということが話題になっている。しかし、そうした議論の多くは、人間の能力の一部を取り出して、それを、まるで「人間」そのものであるかのように見なして、機械が人間に勝った、いや人間の方がまだ機械より優れている、と言っているに過ぎない。

そもそも「人間とは何か」が十分に定義されていないのに、人間を超えるとか超えないとか言うのは、論理的にはナンセンスだ。それよりは、こうした議論が必要とされる社会的な背景や、歴史的文脈を考える方が、まだ実りが多いはずだ。

将棋やチェスももちろん素晴らしいが、戦争やテロ、環境汚染や差別、難民の受け入れや富の格差、ヘイトスピーチを減らすことについて、AIを社会に実装することで何が可能かを考えてもよいだろう。実際、機械と人間の対決となると、チェスや将棋、囲碁といった、元々神意を占う盤上遊戯になるのはどうしてなのか、超能力者が曲げるのが、いつも決まってスプーンであるのと同じくらい不思議なことだ。

経済学者は、社会学者と同様に、しばしば、当たらない予言をする人だと思われている。1930年、ちょうどルーズベルトによるニューディール政策が行われ始めた頃だ。経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、2030年までには、技術の発展によって英米のような自由主義の先進国では、1日3時間だけ働けばよくなり、週15時間労働が達成されるだろうと予言した。ところが、実際には、そうならなかった。どうしてか?

■数々の「クソみたいな仕事」はなぜ生まれたのか

社会人類学者のデヴィッド・グレーバーは、その著書『Bullshit Jobs:A Theory(ウンコな仕事――いらない仕事の理論)』(Simon & Schuster、2018)で「技術は、むしろ、もっと人々を働かせるために利用され、くだらない無意味な仕事が次々と生み出された」と主張している。

グレーバーによれば、20世紀に増えたのは管理系の仕事だ。新しい情報関連産業である金融サービスや、テレマーケティングなどが創出されただけでなく、専門職、管理職、事務職、販売職、サービス職といわず、会社であれば法務、大学の管理や健康管理、人事、広報など、広い意味での管理部門が膨れ上がったというのだ。

彼の意見では、受付係やドアマンは、顧客に自分が重要な人物だと思わせるために存在している「太鼓持ち(Flunkies)」なのだそうだ。さらには、雇われて攻撃的に活動するロビイストや企業弁護士、広報担当は「雇われ暴力団員(Goons)」、中間管理職は「ムダな仕事製造係(Task Makers)」だと評するのだから、手厳しい。

グレーバーが不要だという職業が、本当に不要かどうかはともかく、彼は二つ重要な指摘をしている。一つは、保育士や看護師といった、彼に言わせれば「意味のある仕事」をしている人の賃金が低過ぎること。もう一つは、こうした社会システムが「悪い」資本家や政治家などによって意図的に設計されたわけではなく、無策によって出現したということである。

■大量の書類仕事が官僚制化を進めている

さらに興味深いのは、こうした「ブルシット・ジョブ」(くだらない意味のない仕事、どうでもいいクソ仕事)が本人たちにとっても、そのように思われているという指摘だ。グレーバーによると、イギリスの有力な調査会社YouGovの調査では、労働者の50パーセントは「自分の仕事が有用だ」と考えている一方、「社会に対して意味のある貢献をしているとは思っていない」が37パーセント、「わからない」が13パーセントという回答結果であったという(「アナキズム、仕事、そして官僚制―― デヴィッド・グレーバーへのインタビュー」『現代思想』2018年6月号)。

ここで、問題にされているのは、膨大な書類作りなどの事務仕事だ。彼の主張に首を傾げる人も、管理するための仕事が増えて書類ばかり作らされている、という現状認識には同意するのではなかろうか。グレーバーは、こうした大量の書類作りを「全面的官僚制化」(『官僚制のユートピア――テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』邦訳 以文社、2017)と呼んでいる。

「官僚制が非効率だ」とか「非人間的で融通が利かない」といったタイプの官僚批判は、これまでも繰り返し行われてきた。ここで考えてみたいのは、どうして、そうした批判にもかかわらず、官僚制はいっこうに改善されないのか、ということだ。

■結局、効率的なシステムが他に見つからない

人間は、感情的な動物だ。他人のことでも、それを自分のことのように共感できてしまう。それは、規模の大きくなった「市場」や「国家」を動かしていくのに役立つ能力だった。だが、ボスやリーダーが共感能力を発揮して、その都度裁量し判断している社会は、法治社会ではなく「人治」社会と変わらない。

人治主義には、ボスやリーダーの人格や能力に左右されやすく、機嫌のいい・悪いで判断が左右されかねない(属人的)という欠点があるし、「お前のためを思ってやっているんだ」という「温情主義(父性による支配、パターナリズム)」や、身内だからという「縁故主義(ネポチズム)」のような、依怙贔屓(えこひいき)(不平等)を生みがちだ。そういう仕組みは「人間的」かもしれないが、安定した平等な世の中にはなりにくい。「非人間的」に見えたとしても、現代社会には、やはり「法」が必要なのだ。

マックス・ヴェーバーは『経済と社会』において、カリスマ的支配、伝統的支配、合法的支配の三類型を示している(「支配の類型」)が、この合法的支配が、法治主義にあたる。それは、近代国家においては、革命などの例外を除いて、日常政治の原則だ。そして、その合理的支配=法治主義の典型が「官僚制」である。ヴェーバーは、官僚を「働き続ける機関の歯車」であり「非人間的」と表現している。彼の考えでは、官僚制が批判されてもなくならないのは、結局のところ、官僚制よりも効率的なシステムが他には見つからないからである。

■革命すら、官僚制抜きには成り立たないレーニンの例

官僚制といえば、いまのロシアがソビエト連邦と呼ばれていた頃は、共産党の一党独裁の下、党官僚による徹底した支配が行われていた。当然、言論の自由も制限されていたので、官僚制の不条理と不合理を戯画化したジョークがたくさん生まれた。その中に次のようなものがある。

レーニンが、革命運動が始まった頃の党のメンバーについて尋ねた。「最近見ないが、彼は、いま何をしているのか」。すると、側近から、1カ月前に、レーニン自身がサインした死刑執行書によって、その同志が死刑になったという事実を聞かされ、レーニンはむっとしたという。この話は、絶対に間違いを犯さないはずの指導者(独裁者)と(共産)党の官僚を皮肉ったものだ。

だが、現実はもっと厳しかった。ヴィクター・セベスチェン『レーニン 権力と愛』(邦訳 白水社、2017)は、最近公開された資料に基づき、ロシア革命期の実情を明らかにした興味深い評伝だ。

この本によると、実際に殺されたのは、レーニンが子供の頃に親しかった従弟で、逮捕し、秘密のうちに処刑したのは、レーニンが組織したチェーカーと呼ばれる秘密警察だった。それを知ったとき、レーニンがどんな顔をしたかは、伝わっていない。だが、その後も、彼が、秘密警察を維持するよう指示したことだけは分かっている。革命や独裁すら、それを適切に把握し、合理的に管理する官僚制抜きには、成り立たないというわけだ。ましてや、民主国家では複数の利害を調整するための官僚が必要になるのはいうまでもない。

■無際限な拡張を許すのではなく批判の言葉を持つべきだ

私たちが公正で平等な「人間的」な生活を営めるのは、官僚制が「非人間的」に、その時々の感情とは無関係に動いているからなのである。もちろん、このことは、官僚制を無限に受け入れるべきだ、という意味ではない。

しかし、官僚が非効率的だと非難されることによって、「前例がないことはやらない」という先例主義に走ったり、非人間的だと非難されることによって、「首相の奥さんだから」「首相の友人だから」等々、「人間的」に忖度(そんたく)するようになったり、さらには一切の非難を避けるために不作為のサボタージュに徹したりすれば、より酷い官僚制(ブルシット・ジョブ)が生まれるだけだ。

堀内進之介『善意という暴力』(幻冬舎新書)

私たちの社会は官僚制なしでは成り立たないからこそ、無際限な官僚制の拡張を許すべきではなく、そのための新たな批判の言葉を持たなくてはならないのだ。

官庁に限らず、民間企業でも大学でも、どんな組織も生き残ろうとする。チャンスがあれば、自分たちのテリトリーを拡大しようとする。官僚制批判があるにもかかわらず、官僚制が生き残り、制度改革の度に強化されるのは、そうした適応の結果に過ぎない。

このことは、皮肉なことに、当の官僚自身によっても自覚されている。まともな官僚なら自分が官僚制に操られているとは思っても、自分が官僚制を操っているなどとは思わない。官僚たち自らが、自分たちが無力化していると感じるほど、官僚制は拡大しているというわけだ(竹中治堅編『二つの政権交代――政策は変わったのか』勁草書房、2017)。

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堀内 進之介(ほりうち・しんのすけ)
政治社会学者
1977年生まれ。博士(社会学)。Screenless media Lab.所長。首都大学東京客員研究員ほか。専門は、政治社会学・批判的社会理論。近著に『善意という暴力』(幻冬舎新書)、『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社新書)がある。
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(政治社会学者 堀内 進之介)