日本記録保持者の金井大旺【写真:奥井隆史】

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男子110m障害・金井大旺が反応速度0.099秒で失格、人間の限界は0.100秒以上が定説

 スプリンターは医学的根拠を超えたのか――。そんな疑問の浮かぶ出来事があった。

 陸上の世界選手権(9月27日開幕・ドーハ)代表選考会を兼ねた日本選手権が27日から4日間、福岡・博多の森陸上競技場で行われ、男子100&200mに出場したサニブラウン・ハキーム(フロリダ大)の出場2大会連続2冠などで大いに盛り上がった。一方、男子110メートル障害では、昨年覇者で日本記録保持者の金井大旺(たいおう・ミズノ)がフライングで失格に。大会連覇、そして自身の持つ日本記録13秒36への挑戦も夢破れる結末となった。

 29日の準決勝。静寂を打ち破るピストル音が鳴り響き、選手たちは一斉に飛び出した。だが、一瞬の間を置いて再び号砲が鳴る。誰かがフライングをした。スタンドからはため息が漏れた。複数の競技委員たちが機械を覗き込んで検証。協議を終え、スタート位置に並ぶ選手たちの前に一人の競技委員が歩み寄る。3レーンの古川裕太郎(山形市陸協)が不正スタートに。そして5レーンの金井の前でも、失格を告げるボードが掲げられた。

 驚きを隠せない金井。決して“ヤマカン”ではなく、しっかりと音を聞いて動いた自信があったのだろう。悔しさを押し殺すように頭を掻きながら、曇り空の広がる戦いの舞台を後にした。競技を終えた夜、自身のツイッターで「0.1秒がボーダーですが0.099秒で反応してしまいました。この試合に掛ける思いが強く、本当に悔しいですがまた切り替えて頑張るしかありません」と記している。

 ピストル音から0.1秒以内に反応した場合は不正スタートとなり、スターティングブロックに圧力が加わればセンサーが即座に反応する。金井はピストル音から0.099秒で圧力が加わり、1000分の1秒速く動いてしまった。

 反応速度が0.1秒以内で失格というルールは、人間が音を聞いて体を動かすまで最低でも0.1秒はかかるという医学的根拠から成り立っている。音が耳に入って神経から脳に達し、脳から体の筋肉に指令が伝わる時間。つまり、0.1秒以内に圧力センサーが反応すれば「音を聞く前にスタートした」と判断される。それが人間の限界なのだ。

 トップ選手において、反応速度は0.140秒が良し悪しの基準とされ、0.120秒なら好スタート、0.160秒なら遅いとされるのが相場である。2016年全日本実業団選手権の男子100メートル決勝で、山縣亮太(セイコー)が反応速度0.107秒を記録。“神スタート”と称され、10秒03(追い風0.5メートル)で優勝した。

法大・苅部俊二監督、金井は「0.1秒を超える人間かもしれない」

 無風で100メートルを10秒00で走った場合、0.1秒で1メートルの差が生まれる。0.01秒なら10センチ。1回のまばたきをする平均時間が0.100から0.150とされているのだから、どれほどの世界で勝負をしているのか。

 失格を告げられた金井は、唖然とした表情を浮かべ、機械を確認していた。本人が自信を持っている以上、疑問が浮かぶ。人間の才能、技術が医学的根拠を上回ったのではないか――。時折、陸上界で議論される問題について、金井の母校・法大の苅部俊二監督は持論を明かした。

「その可能性はある。0.1秒以内で失格というルールの根拠が、平均を取っているのであれば、バラつきもある。それより速い選手も当然いるし、遅い選手もいるでしょう。そして、アスリートというのは速いから外れ値なわけですよ。何もないところからパッと動くのではなく、用意というものもある。反応時間より早く反応できるのではないかと思いますね。

 技術も、人間も進歩してますから。0.1秒より早く反応できる技術とか、そういうものを持った人間もこれから出てくる可能性もある。彼(金井)はちゃんと音を聞いて出ていますし、山を張ったわけではない。もしかしたらその0.1秒を超える人間のなのかもしれない。閾値(いきち)を超えてしまった。速すぎたというやつですよね」

 ルール上、失格は仕方のないこと。今回の結果には納得するしかない。では、金井はどのようなスタートスタイルなのか。大学での4年間を見守ってきた苅部監督は言う。

「スタートは元々速い。いつも0.1ギリギリでいける反応時間の速い選手。(スターティングブロックを)蹴るというより、体をポンっと前に出す感覚の選手ですね。手から離れていく感じで、狙ってできることではない。(反応時間の速さは)天性ですね。ちゃんと音を聞いて出るというのは、ほぼ天性のものだと思います。

 指導したというよりも彼の元々持っているもの。あんな反応はできない。僕は400メートル障害だったので、のそっと出ますから。ああいうポンっという感覚は私にはわからない。それを体現できるというか、実践できるのはすごい選手ですね。反応時間は集中力や精神的なものもあるし、そこは教えてできるものじゃない」

ベストを尽くして失格のジレンマ「陸上競技がおかしくなる」

 金井にとっては、陸上を始めた小学3年から23歳の今日に至るまでに培った技術が否定された。ベストを尽くしたのに、失格になるという状況。今回の結果が与える影響について、苅部監督は「今回のことで怖くて出られない、みたいなことも言っている。じゃあ遅く出るのかというと、そういうわけにもいかない。いろんなところに影響しそう。私も、本人も納得してないわけではないけど、じゃあどうしたらいいのか…。同じ感覚で出てもまたそう(失格に)なってしまう可能性もある」と分析。音を聞いて反応し、いつも通り、または今まで以上に最高のスタートを切っても、フライングになるかもしれない。失格を恐れ、克服するまでに時間がかかる選手もいるという。

 それでは、現状のルールに合わせるなら、ピストル音に合わせてスタートするのではなく、0.1秒への最短を目指すのが最良なのか。苅部監督は「0.1に合わすのは難しい。できるだけ速く反応すると、0.1はかかるでしょうという根拠ですから。音を聞いて、聴覚野に入って、運動野から指令が出て、それで体が動く」と否定した。あくまでベストを目指し続けるしかない。

 自身も400メートル障害の元日本記録保持者。ベストを尽くしても失格になってしまうジレンマを知る。「だから、すごく可哀そうなんですよね。でも、『遅く出る必要はないよ』って話はしたんですよ。彼は絶対に悪くないし、『また同じように出ればいいよ』って話はしましたね。でも、これでみんなわざと遅く出るようになると、陸上競技がおかしくなる。0.1秒以内で反応できる時代なのかもしれない。『0.1』を考え直す何かいいきっかけになったら」

 今大会の男子110メートル障害では、決勝で高山峻野(ゼンリン)と泉谷駿介(順大)が13秒36(向かい風0.6メートル)で並んだ。記録に残らない1000分の1秒の計時で勝敗を決め、0.002秒差で高山が優勝。世陸代表に内定した。金井を含め、3人が日本記録に並ぶ異例の接戦。0.001秒の差で人生が大きく変わっていく。

 金井の記した言葉には「反応」という2文字がある。これまで培ってきたものへの自信、プライドもあるだろう。極限まで集中力を高め、まばたきよりも短い時間を争う世界。現状では従うしかないが、本格的にルールを再考する時代が来ているのではないか。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平/ Yohei Hamada)