がん闘病生活から生まれた型破りビジネス
■闘病経験から生まれたブランド
「『患者さん』と呼ばれて死ぬのは悲しい。だから、私の作る服は『患者らしくより私らしく』がコンセプトなんです」。
花のような笑顔でそう話すのは、TOKIMEKU JAPANの塩崎良子社長だ。自身で作った「KISS MY LIFE」というケア・介護用品ブランドは、パジャマや医療ケア用帽子に機能性だけでなくファッション性を取り入れ、女性患者の心をつかんでいる。
これは塩崎さんが乳がんになり、闘病した経験から生まれたものだった。
■どんぶり勘定のオーナーに代わって経営者に
塩崎さんは1980年に千葉で生まれた。音楽が大好きで、高校の頃からバンドを立ち上げ、大学を1年でやめてDJをやるなど、音楽の道で生きていくことを模索していた。
小さい頃から「変わり者」と周囲に言われていた塩崎さんは、どこかにとどまることを好まず、就職する気にもならなかった。ファッションも好きだったので、セレクトショップでバイヤーをしながら日々を過ごしていた。
六本木のセレクトショップで働いていたころ、勤め先の給与支払いが滞りがちになり、スタッフの離職が続いた。会計の知識があるわけではなかったが、なんとなく気にかかった塩崎さんは、オーナーに帳簿を見せてもらうと、驚くほどのどんぶり勘定であることが分かった。「会社がなくなっては困る!」と青ざめ、勉強して仕入れの整理を始めることに。
結局半年後にオーナーは店を閉めることにしたが、「それならば私にやらせてほしい」とオーナーから事業を売却してもらった。これが経営者人生の始まりだった。塩崎さんが25歳のときだ。
■アルバイトをしながら従業員に給料を払う
はじめは自転車操業が続いた。スタッフに給料を払うために昼は他店で、夜はバーでアルバイトをしていたほどだ。1年後に事業は軌道に乗ったが、トレンドを追って大量に仕入れて大量に廃棄するというアパレル業界の「常識」に疑問を持つようになる。そして20代の終わりには、日本ではほとんどなかった結婚式のパーティドレスなどを取り扱う衣服のレンタル専業ショップへと転換する。
ヒントを得たのは、海外への商品買い付けで乗った飛行機の中。当時大ブームだった「SEX AND THE CITY」を鑑賞していると、登場人物が服をレンタルするシーンがあったのだ。
その業態転換もうまくいき、着実に業績は伸びた。ただ、自身では「こんなものかな」とどこか冷めていた。海外旅行が好きなので買い付けも旅行の一環。経営をしているというより、好きなことの延長上に仕事が乗っかっているという気持ちが強かった。
■がんの診断に、従業員は泣き崩れた
そんな幸せで退屈な日常は、2013年の冬、海外出張中のある出来事を境に一変した。
「アイスクリームを食べていたら、胸元にこぼしてしまって。それを拭おうとした時、しこりに気づいたんです」
今まで感じたことのない硬いしこりだった。嫌な予感がして、帰国してすぐに病院に駆け込んだ。診断は乳がんだった。当時「片方のわきが閉じにくい、太ったのかな」と周りに話していたのだが、それはすでにわきに転移があったからだった。
「この状態では手術ができない」と医師に言われ、まず1年間抗がん剤の治療に臨むことになった。
治療を始めるとすぐに髪が抜け始めた。こんな自分の状況と結婚式用の衣装を取り扱う“ハッピー路線”の事業とが自分の中でどうしてもリンクしない。事業継続の道を探していたが、治療1カ月の時点で「店を閉めよう」と決断した。
家族のように接してきた店の従業員たちに、その時初めて自身の病気について話すと、「なぜ社長がそんな目に遭うの!?」と泣いてくれた。彼女たちの転職先探しに奔走し、事業に区切りをつけたあと、治療に専念する生活が始まった。
■すべてを失い、アイデンティティは“患者”だけに
抗がん剤の治療はつらく、立ち上がって移動することすら苦しい時期もあった。それでも治療中は、がんという倒す相手がいるため、モチベーションを保つことができた。それに体が楽なときは海外旅行で気晴らしもでき、決して高くない生存率でも前向きさを持てた。
塩崎さんにとって、治療が終わってからが本当の修羅場だった。トリプルネガティブという部類のがんで、ホルモン治療の効果が期待できない。できる限りの治療を終えたとき、「次のモチベーションをどこに持っていけばいいのだろう」と絶望したのだ。
「常に競争にさらされていた“経営者”という立場から、生きていればそれでいいという免罪符のある“患者”という立場になり、気づいたときには会社も健康も失って“患者”としてのアイデンティティだけになってしまったんです」(塩崎さん)
自分の命が短いかもしれないと覚悟したとき、「果たして自分がやってきたことは正しかったのだろうか」「何か役に立つことができたのだろうか」と自問自答し、自分のダメなところにばかり目がいくようになっていた。
そうして鬱々と過ごす日々が続いていたとき、転機が訪れた。主治医から「病院でファッションショーを開いてくれないか」という提案があったのだ。塩崎さんは気持ちを切り替えてファッションショーに全力を注ぐことにした。
■両親の反対を押し切って、再びの起業
ファッションショーは、ヴェルサーチの洋服をレンタルし、メディアを招待して病院のホールで大々的に開催した。ランウェイを歩くのは入院中の患者たち。歩くのは最後かもしれないという人や、一生髪が生えてこない人、そして、もう病院の外に出ることはないという人もいた。
反響は大きく、塩崎さんは「これを単発で終わらせてはいけない」と、入院患者向けのアパレルメーカーをつくることを心に誓い、すぐさまビジネススクールに通い始める。そして、そこで知ったビジネスコンテストに応募して見事グランプリを獲得し、TOKIMEKU JAPANを設立。元DeNA取締役の春田真さんからの出資を受け、自分のなけなしの財産であった車も売って、「KISS MY LIFE」の事業化にこぎつけた。その際には、高校時代のバンド仲間が会社を辞めて、経営メンバーとして参画してくれることになった。
一方両親は、再度の起業に大反対だった。「また事業を立ち上げるなんてストレスになってしまう」と健康を心配してのことだった。しかし、塩崎さんが引くことはなかった。
■古い商習慣をこわす
ブランドの立ち上げで大事にしたのは闘病の経験だ。治療中のファッションを振り返ると、ケア・介護用品は何十年も変わらない「ファッション性がない」服ばかりなのが本当につらかった。
ケア・介護用品は、機能性の高さが何よりも重視される。例えば入院中のパジャマであれば処置がしやすいものが必要になるし、患者さんや高齢者は肌に優しい生地素材のものが喜ばれる。そうした事情もあって、院内や施設にあるカタログで選ぶか売店で買うのが主流だった。そして、メーカーと販売先の間にカタログ等を配布する中間流通業者が存在することは、ケア・介護用品にファッション性が乏しい要因になっていた。流通販路が限られていることで、競争がなく、患者が喜ぶデザインの服をつくるという発想が生まれなかったのだ。
ファッション性の高いケア・介護用品としてブランドを確立するためには、流通に仲介業者を通さず、直販にする必要があった。
そのため、まず院内に小規模な店舗やワゴン販売を行う試みを始めた。自社の製品だけでなく、ケア・介護用品、ファッション性のあるグッズを購入できるセレクトショップだ。患者の憩いのスペースとして存在感を増し、現在では関東の国立大学病院をはじめ8カ所に出店している。他にもECショップや自社カタログの配布を行い、少しずつ販路を広げている。
■ケア・介護分野の無印良品を目指す
「病院に長くいて服も同じものを着ていると、なんだかだんだん“患者っぽく”振る舞うようになるんです。最期まで“私”として生きていくために、衣食住の衣の分野から、『患者らしくより私らしく』を支えたいんです」という塩崎さん。いつかはライフスタイルブランドとして広げたいという夢があり、目指すはケア・介護分野の「無印良品」だという。
先日TOKIMEKU JAPANは2度目の出資を受けた。トリプルネガティブの乳がんでは、治療後10年までは油断ができない。出資を受ける際も、自分がいつどうなるかわからず、迷惑をかけるかもしれないと伝えたが、「そんなことは考えなくていいから売り上げを気にしてくれ」と笑って言われたそう。
前向きに生きる塩崎さんの周囲には笑顔があふれている。がんが人生を変えたことは間違いないが、「どう生きるか」は彼女自身が決めたのだ。ブランドのコンセプトである「患者らしくより私らしく」を自ら実践し、塩崎さんはこれからも前に進んでいく。
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TOKIMEKU JAPAN社長
1980年、千葉県生まれ。2004年より、アパレルショップの海外バイヤーを経て、06年アパレル会社を起業。セレクトショップ、リース専門店、ドレスレンタルショップ等を経営。14年1月若年性乳がんを発症。闘病に専念のため、会社を閉める。15年6月主治医の提案で、がん患者の為のサイバーズFASHION SHOWを企画、運営。多くのメディアに取り上げられる。16年、ソーシャルビジネスグランプリでグランプリと共感大賞をW受賞し、TOKIMEKU JAPAN設立。17年、ケア・介護用品ブランド『KISS MY LIFE』を立ち上げる。同年7月より病院内店舗事業を開始。18年雑誌「AERA」注目の社会起業家54名に選出される。MASHING UP 女性起業家によるビジネスコンテストで優勝。
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(TOKIMEKU JAPAN社長 塩崎 良子 文=藍羽笑生)