【前園真聖コラム】第243回「平成時代で忘れてはならない試合」
平成時代で、僕には忘れられない試合があります。それはワールドカップの試合でも、ワールドカップ初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」でも、28年ぶりの五輪出場を決めたアジア予選サウジアラビア戦でもありません。
そのすべてにつながったのは、1993年10月28日の「ドーハの悲劇」と呼ばれる試合です。26年も前の試合なので知らない人も増えてきたようですが、この試合は決して忘れてはならないと思います。
1994年アメリカワールドカップのアジア最終予選で日本はイラクを2-1とリードし、このまま試合が終わればワールドカップ初出場というところまで行きました。ところが残り17秒で同点ゴールを叩き込まれ、すべてが夢と散ったのです。
その試合を、僕は横浜フリューゲルスが合宿を行っていたホテルの、自分の部屋で見ていました。タイムアップになった後、ラモス瑠偉さんが座り込んで立てない姿などが画面に映し出され、時間が止まった気がしていました。
期待が膨らんでいたぶん、現実ではないような気がしたのです。世界への扉は目の前にあったのに、最後の最後で扉の鍵が手から滑り落ちていきました。
そのころの僕は1996年アトランタ五輪を目指すチームの一員でした。当時の日本はずっと五輪予選で涙を呑んでおり、僕たちは28年ぶりの五輪出場をめざしていました。そして「ドーハの悲劇」を見て、世界に出て行く難しさを実感し、次は自分たちが扉を開かなければいけない番だと、一層身が引き締まったのを覚えています。
あの「ドーハの悲劇」が日本サッカー界を覚醒させました。あのイラク戦があったからこそ、アトランタ五輪出場や、ワールドカップ初出場、そしてその後の連続出場につながっているのだと思います。
つらい試合の記憶です。ですが決して忘れず、日本サッカーの礎として常に記憶に留めておくべきゲームだと思っています。
そのすべてにつながったのは、1993年10月28日の「ドーハの悲劇」と呼ばれる試合です。26年も前の試合なので知らない人も増えてきたようですが、この試合は決して忘れてはならないと思います。
その試合を、僕は横浜フリューゲルスが合宿を行っていたホテルの、自分の部屋で見ていました。タイムアップになった後、ラモス瑠偉さんが座り込んで立てない姿などが画面に映し出され、時間が止まった気がしていました。
期待が膨らんでいたぶん、現実ではないような気がしたのです。世界への扉は目の前にあったのに、最後の最後で扉の鍵が手から滑り落ちていきました。
そのころの僕は1996年アトランタ五輪を目指すチームの一員でした。当時の日本はずっと五輪予選で涙を呑んでおり、僕たちは28年ぶりの五輪出場をめざしていました。そして「ドーハの悲劇」を見て、世界に出て行く難しさを実感し、次は自分たちが扉を開かなければいけない番だと、一層身が引き締まったのを覚えています。
あの「ドーハの悲劇」が日本サッカー界を覚醒させました。あのイラク戦があったからこそ、アトランタ五輪出場や、ワールドカップ初出場、そしてその後の連続出場につながっているのだと思います。
つらい試合の記憶です。ですが決して忘れず、日本サッカーの礎として常に記憶に留めておくべきゲームだと思っています。

1973年生まれ。横浜フリューゲルス、ヴェルディの他、ブラジルなどでプレー。アトランタ五輪では、主将として28年ぶりに五輪出場を決めた。2005年引退後は解説の他、少年サッカー普及に従事。2009年、ビーチサッカー日本代表としてW杯に出場。ベスト8に貢献した。
