このたび4月から子どもが小学校入学、新一年生になるにあたり、保護者説明会に行ってきた。
ウワサでは働くママの融通などおかまいなく、昔ながらのルールと人的キャパ不足で運営されているという公立小学校である。想定どおりモヤモヤを抱えて帰ってきたので、ここに報告しておこう。

■子どものタメになるのはどっち?


母親の弱点に、「お子さんのためを思って〇〇してください」という殺し文句を前にすると、ほぼ言いなりになってしまう、というのがある。悪い母親よりはいい母親になりたい私たちである、新しい環境ではとくにその傾向が強くなるのではないだろうか。

だから小学校の先生が「学習環境を整えるのはお母さんのつとめです」と言ったとき、「やはり、そうなのですか……!」とうなづいた。ところが続けて、「折り紙を持ってくるとき、新品の状態ではなく、あらかじめお母さんが半分くらいの量にして、袋にしまい、お子さんが取り出しやすくしておいてください」と言われたときにはこう思った。「……マジすか?」。

先生いわく、過去に保護者から電話がきたらしい。「ウチの子の折り紙は、いつもくしゃくしゃになっているのだけど、一体どうなっているのか?」という、素直すぎるのかクレームなのかと想像してしまうお電話である。先生がたは誠実であるから、その理由を切々と述べ、改善策を提案したのだろう。そしてその策をあらかじめ新一年生の保護者にシェアしてくれたのだと推察する。

クレームに対して事前にエクスキューズするため、マニュアル本が辞書並みに分厚くなるご時世である。ちょっとしたことでも芽は摘んでおきたい気持ちと、100人いる新一年生の保護者に周知するには絶好の機会であることはわかる。わかるんですけど、その3分前に先生がお読みになった≪目指す児童像は、自ら学ぶ子≫が泣きますぜ……。

言わずもがな「自ら学ぶ子」を目指すなら、折り紙をくしゃくしゃにしない解決方法をお母さんにやらせてはいけない。なんでくしゃくしゃになってしまうのか児童自ら考えて、実行してもらわねばならないのだ。超ハードル高いですよ。そもそも折り紙がくしゃくしゃでイヤだと思っているのは、子どもじゃなくてお母さんだけの場合もありますから。

■手段と目的がごっちゃになってる問題


で、忘れてはならないのは、折り紙はたったひとつの手段にすぎないということだ。今後、きっと新一年生のおはじきはどんどん減り、えんぴつは消え、クレヨンは折れていくだろう。そのたび先生がひとつずつの手段に回答を出していてはキリがないし、目的を見失う。

目的である「自ら考える子」になってもらうには、「なんで、そうなっちゃうと思う?」と児童に問うことではなかろうか。また親から先のような質問が来たら「折り紙がくしゃくしゃになってしまうことを、本人がどのようにとらえて解決するかを考えてもらうことが教育方針です。」と言い切るしかない。そして「こちらかもう少し、促してみますね。ところで○○(本人)さんは、折り紙がくしゃくしゃになるのは問題だと思っているのでしょうか?」と続くのだろう。

しかし、現場の先生は「こんなの現実的じゃない」とおっしゃるだろう。そう、上記の回答で納得してくれる親御さんならおそらくクレーマーではないだろうし、先生方はほかにやることが山積みなのに、担任児童30人のうちの一人の、折り紙のシワにじっくり時間を割いている余裕があるのか疑問だ。

素人目に見ても、本校の高すぎる目標を達成させるためのリソースは全然足りていない、もしくは絵に描いた餅なのであった。

■こぞってなりたい「自ら学ぶ子」


ここで一度、「自ら学ぶ子」について考えてみたい。この児童像、大人に当てはめても最もアツい人間像である。

就職の常識がガラッと変わって一生安泰な企業なんてない今、求人サイトをのぞけば、求められるスキルはコミュニケーション能力と、自ら考えて行動できる力だらけである。逆を言えば、これらを備えている人材は乏しく、今までの教育ではなかなか育成できなかったのだろう。もっといえば、そんなスペシャルな人は自ら起業して人の下には集まらなそうだけど。

そもそも私だって「クリティカルシンキング、なにそれ会心の一撃で考えるってこと(ゲーム脳)?」状態で、何の疑いもなくランドセルを買ってしまった身である。じつはランドセルで登校してください、なんて小学校からひとことも言われていないというのにね……!

これは、「自ら学ぶ子」になってほしかったら、授業内容を根本から変え、親が自ら学ぶ大人にならなければいけない因果がある。そのためには、学校でも家庭でも今までの常識を24時間疑って生活するという修羅的ハードモードをこなさねばならんと予感させるのだ。

■親はどうしたらいいのか?


理想と現実の大きすぎるギャップが透けて見えたところで、新一年生の親はどういう心構えでいればよいのだろうか。

と、1日ほど考えてハタと気づいた。教育というものを私はじっくり考えたことがないのである。子どもにごはんを食べさせ、一般的な生活を滞りなくさせる「世話」はしているけど、はて教育……? 「ひらがなが読めるように練習する」とかは手段であって目的ではない。では「食べ物で遊ぶのはイカンぞ」というのは教育だろうか?

親の子育ての目的は子の自立で、私がぼんやり描く理想像は、「他人と助け合いながら、自ら考えて行動できる人」だ(やっぱり人気の人材特性に惹かれている)。教育とはそこへ向かうための手段のはずだ。

となれば、何に関してもギリギリまで手と口を出さず、子どもが要請してきたら助けるということだ。「宿題やれ」とか言っちゃいけないのか……? 「ママ、着替えさせて」と毎日言われたら着せてやるのか……? ウソだろ。わかっちゃいるけど修羅的に難しい。結局、親自らの根気勝負である。

さて、各家庭により目標像は違い、子の特性も違うので、結論は各々にお任せしよう。
私の場合は、やんわり自ら考えてもらうようにし、小学校生活はとりあえず楽しく送ってもらい、何かあったらそのたびに考える、という先送り策を取ることにした。

新しい環境になったら、子どもは今までできていたことができなくなり、斜め上の出来事が勃発するかもしれない。そのとき万が一、先生から「〇〇くん、△△ができないんですよ。お母さんが□□してあげてください云々」と言われたら、いったん真摯に受け止め、場合によっては「自ら学ぶ子を実践中です。先生も見守ってくださいませんか」と一度、お願いしてみるつもりだ。ここは本気出しますよ。

……さて、この妄想がただの徒労だと良いのだが。長子が新一年生だと、親も新一年生なわけで、こっちの方がソワソワしている春である。

斎藤貴美子
コピーライター。得意分野は美容・ファッション。日本酒にハマり、Instagramの#SAKEISAWESOMEkimikoで日本酒の新しい切り口とコピーを思案中(日本語&つたない英語)。これからの家族旅行は酒蔵見学。二児の母。