雅子さまが直面した"約束と違う"皇室生活
※本稿は、矢部万紀子『美智子さまという奇跡』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■「究極のキャリアウーマン」だった雅子さま
雅子さまが「均等法第一世代」だったことは、皇室入りしてからの雅子さまのいろいろなことに影響していると思う。
東京大学を中退された雅子さまが外務省に入省したのは、1987年4月。外交官試験に合格した「総合職組」だ。しかもハーバード大→東大→外務省という抜群の経歴。ご成婚が決まった頃から「究極のキャリアウーマン」「エリート中のエリート」と書かれ、大変な美人でもあった。度外れた才色兼備の女性が「皇室に嫁ぐ」という事実は、総合職女性に少なからぬ影響を与えた。
1988年に「アエラ」という週刊誌が創刊された。創刊後しばらくして、均等法第一世代の女性に関する記事を増やし、部数がどんどん伸びた。
女性を採用はしたものの、組織はほとんど変わっていなかった。依然、「男性ファースト」の世界だった。均等法第一世代はそういう現実を、「そんなものだろう」とは思わなかった。「約束と違う」ととらえた。だって、「均等」を約束されて入ったのだ。
「アエラ」は「約束と違う」さまざまな現実を切り取った。それでも組織にとどまり努力を続ける女性たちを書き、見切りをつけて留学、転職、結婚など別な道を選ぶ女性たちも書いた。編集部に均等法第一世代女性が増えたことが、大きかった。同世代が同世代に向けて書き、部数が増えた。
だから「アエラ」は、ずっと雅子さまの味方だった。
■雅子さまの皇室入りは「転職」
均等法女子たちは、雅子さまの皇室入りを「嫁入り」でなく「転職」と見ていたと思う。新しい職場で、究極のキャリアウーマンがどのように力を発揮してくれるのか。そう注目していた。
雅子さま自身、「嫁ぐ」意識より「転職」意識が強かったのではないだろうか。
そのことは1993年1月、皇室会議で結婚が決まった後の記者会見からもうかがえる。外交官の職を捨てることに悔いはないかという質問に、小和田雅子さんはこう答えている。
新しい場所で力を発揮する。その意気込みが伝わってくる。
その34年前、婚約後の正田美智子さんは、皇室に入ることについてこう言葉にしている(宮内記者会のアンケートへの文書回答)。
この二つの言葉は、のちに何度か「アエラ」が対比することになるのだが、平成が終わろうとしている今になって改めて読んでみると、なおさら複雑な気持ちにさせられる。
■「お世継ぎファースト」な人生のしんどさ
1993年に皇后陛下の主治医になり、皇室医務主管という「皇室のホームドクター」を2012年まで務めた金澤一郎さんは、医務主管退官直後に雅子さまの「適応障害」についてこう語っている。
(「文藝春秋」2012年8月号「前皇室医務主管独占インタビュー」)
均等法第一世代は「約束と違う」世代だ。
均等ですよ、と言われて入社し、「男性ファースト」の会社組織に「約束と違う」と苦しんだ彼女たち。雅子さまは皇室外交できますよ、と言われて皇室入りし、「お世継ぎファースト」の皇室に「約束と違う」と苦しまれたことだろう。
ここは皇室なのだ、「お世継ぎ」をクリアしなくてどうする。そう考える人の気持ちもよくわかる。だが一方で、同じ働く女性としては、出産だけが期待される人生はしんどいだろうと思う。
まして雅子さまは転職を決めたとき、「お世継ぎファースト」と聞いていたかどうか。転職を勧める側は、厳しい話より楽しい話をしがちだろう。
さらに思うのは、「お世継ぎファースト」さえクリアしていれば、雅子さまはオールハッピーになっただろうかということだ。
■雅子さまの肉声はほとんど聞こえなくなった
2001年、敬宮愛子さまが生まれ、雅子さまは「生まれてきてくれてありがとうという気持ちでいっぱいになりました」と語り涙ぐまれた。
その8カ月後にニュージーランド・オーストラリアを訪問、帰国後の記者会見で「外国に参りますことが、(略)私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」と心情を吐露した。
が、それを最後に、雅子さまの肉声はほとんど聞こえなくなった。
「民間初の皇太子妃」の美智子さまは、同世代女性のあこがれだった。ご結婚後、どんどんやせていった美智子さまの姿に、同世代女性は「嫁いびり」という言葉を思い浮かべ、いっそう思い入れを強めた。「嫁同士」だからだ。
■「魅力ある働く女性」1位だった雅子さま
雅子さまへのあこがれは、「キャリアウーマン」が決め手だった。ご成婚直後に就職情報調査会社「文化放送ブレーン」が就活中の女子大生約7500人に「魅力ある働く女性」を尋ねたところ、1位に輝いたのは雅子さまだった。
なのに皇室内での活躍が見えず、2003年12月から公務を休んでしまう。
その5カ月後に「アエラ」が掲載したのは「他人事ではない私たち 雅子さま異例のご静養の陰で」という記事(2004年5月3日号)だった。
「ダイアナ妃が『愛』を求めて苦しんだのに対し、雅子さまはもっと『自分らしく生きること』を求めているのではないか」
そんな同世代女性の声を紹介している。
■「適応」しようとすると心を病んでしまう
この記事が載った「アエラ」の発売直後、雅子さまの心が傷ついていることを明らかにしたのは、夫である皇太子さまだった。
「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
2004年5月、ヨーロッパ訪問にあたっての記者会見で突然、そのように発言されたのだ。
その2カ月後、雅子さまの病名が「適応障害」と発表された。
皇室に「適応」しようとし、雅子さまは心の病を得てしまった。逆に表現するなら、皇室は「適応」しようとすると、心を病んでしまうような場所だということになる。まさかそれほどまでとは思っていなかった。
当時、多くの国民が感じたショックは、そんなふうだったと記憶している。
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コラムニスト
1961年生まれ。83年朝日新聞社に入社し、記者に。宇都宮支局、学芸部を経て、「アエラ」、経済部、「週刊朝日」に所属。「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理を経て、書籍編集部で部長を務め、2011年、朝日新聞社を退社。シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長となる。17年に株式会社ハルメクを退社し、フリーランスで各種メディアに寄稿している。
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(コラムニスト 矢部 万紀子 写真=時事通信フォト)