道路での危険運転、駅のホームでの言いがかり――。家族連れで外出したとき、厄介な人物に絡まれたらどうするか。空手道場を主宰し、僧侶、保護司としても活動する作家の向谷匡史氏は、「意外かもしれないが、ガラの悪い男は論理的にインネンをつけてくる」と指摘。その論理をずらしていくことが対処法になると語る――。

※本稿は、向谷匡史『最強の「お父さん道」』(新泉社)の一部を抜粋・再編集したものです。

変な輩に絡まれたら、「相手の土俵に乗らない」ことが大事 ※写真はイメージです。(写真=iStock.com/settaphan)

■「戦わずして難を避ける」が上の上

世界一治安がいいと言われた日本も、防犯カメラの設置が当たり前になった。白昼、子どもが凶悪事件に巻き込まれたり、衆人環視の電車内で暴力を振るわれたりもする。「義を見てせざるは勇なきなり」と教えたのは今や昔。自己中心の価値観は「自己責任」という傍観者意識を生み、危機に陥っても手を差し伸べてくれる人は少ない。

治安において日本社会は、「護ってもらう」から「自分で自分の身を護る」というセルフディフェンスの時代になった。コンクリートジャングルとは言い古された言葉だが、文字どおり現代社会は、獣がそこかしこに棲息している。このことをまず、家族連れで外出するお父さんはキモに銘じていただきたい。

護身の基本は「対処」より「回避」である。いざというときに備えて対処法を念頭に置くことは大事だが、それはトラブルに見舞われたときのことで、トラブルを未然に回避することができれば対処は不要となる。そういうことから、「回避」こそ、究極の護身術ということなる。

剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)に、こんなエピソードがある。卜伝の高弟が往来を歩いていて、馬の後ろを通ったときのことだ。馬がいきなり後ろ足で蹴り上げてきた。

「危ない!」

と通行人たちが叫ぶより早く、高弟はひらりと身をかわしたのである。

「さすが卜伝先生の高弟だ」

と、それを見ていた人たちは称賛したが、この話を聞いた卜伝は、

「未熟者め」

と言って、高弟に免許皆伝を与えなかった。

そして、後日。卜伝が往来を歩いていて馬に出くわす。高弟と同じ状況である。卜伝はどうしたか。馬のそばを避け、遠く迂回して、何事もなく通り過ぎて行ったのだった。それを見て、なぜ卜伝が高弟に免許皆伝を与えなかったか、みんなは納得する。

「君子危うきに近寄らず」

とは、こういうことを言う。

コンビニの駐車場にワルガキがたむろしていたら別店に行けばいい。コソコソ逃げるようで、子どもの手前、みっともないと思うなら、

「○○でソフトクリームを食べよう」

とでも言えばよい。「戦わずして難を避けるが上の上、戦って難を逃れるが中の中、戦って負けるのが下の下」──これが護身の極意なのである。

家を一歩出ればトラブルのタネはいくらでも転がっている。子どもがヨチヨチ歩きから幼児、小学生と成長するにつれて、外出の機会はどんどん増えていく。好奇心旺盛で元気盛りの子どものことだ。電車や飲食店で騒ぐこともあり、それだけ周囲とのトラブルに遭遇する可能性も高くなる。

だから子どもを連れて外出するときは「トラブルになったときにどうするか」ではなく、「トラブルにならないようにするにはどうするか」ということを第一に考えて行動する。これが、お父さんの基本的な処し方なのである。

■それでもガラの悪い人物に当たったら

ガラの悪い男にカラまれたからといって、いきなり殴りかかってくることはない。手を出せば、傷害罪で一発アウト。だから恐れることはなく、毅然として対峙すればよい。繰り返しておくが、いきなりポカリということは絶対にないのだ。

では、ガラの悪い男はどうやってインネンをつけるか。意外かもしれないが、論理的に攻め、「おまえが悪い」という図式に持っていく。手を出した場合を想定し、手順を踏んでカラんでいるのだ。

たとえば、こんなふうになる。

「こらッ、人の顔、なにジロジロ見てるんだ!」
「見てませんよ」
「見てねえ? じゃ、てめえ、オレがウソついてるってのか?」
「ついていません」
「じゃ、見てるってことじゃねぇか! ちょっとこっち来い!」

おわかりだろうか。「見てません」という返答を逆手に取り、テコにし、「じゃ、オレがウソつきか」と恫喝していく。

「ウソつきです」

と言えば、「この野郎!」となる。

「ウソつきではない」

と返答すれば、「ジロジロと顔を見た」は論理的に事実となり、結論は「ジロジロと見たおまえが悪い」ということになって、インネンは正当化される。

実際、こんな例がある。知人の若いサラリーマンのS氏が家族を乗せて運転中、路地の四つ角で対向車とぶつかりそうになったときのことだ。男が高級外車から降りてくるなり、

「どこ見てやがる!」

巻き舌で恫喝した。短髪の大柄で、金縁の色つきメガネを掛けていて、いかにも粗暴な感じだった。奥さんと小学生の子ども二人を車内に残し、S氏が応対する。「家族が見ていますし、一時停止義務は向こうにあるので、私も強気でした」とは後日、S氏が私に語ったことだ。

「なんで停まらないんだ!」

と男が攻めてくる。

「おたくが一時停止でしょう」

S氏が踏ん張る。

「てめぇ、オレが停まらなかったって言うのか?」
「停まらなかったじゃないですか」
「それがわかっていて、てめぇはなんで停まらねぇんだ。この野郎、わざと突っ込んできやがったな。てめぇ、ケンカを売る気か!」
「ケンカなんか売ってません」
「じゃ、なんで能書き言うんだ!」

ガンガン押しまくられ、言葉に窮したところで、

「バンパーかすったから修理代を寄こせ」

と難クセをつけられ、その場で5万円を支払ったという。

「妻子が見てますからね。話がもつれて殴られでもしたらみっともないという思いもありますし、相手の言うことも一理あるような気にもなってきて……。早く話を終わりにしようと思ったんです」

と、S氏は言ったものだ。

似たようなケースはいくらでもある。肩がぶつかったとか、飲食店で子どもの足が当たったとか、難クセをつけるネタはいくらでも転がっている。難クセをつけられたお父さんも、相手が暴力を振るってきたのであればともかく、身の危険を感じたくらいでは110番はしにくい。こうしたグレーゾーンのトラブルは、警察が介入しないだけに厄介なのだ。こんなとき、お父さんはどう対処すればいいか。

相手の土俵に乗らないのだ。

「人の顔、なにジロジロ見てるんだ」

という攻めに対して、

「見てません」

と答えたのでは相手の土俵。

同様に、

「なんで停まらないんだ」
「おたくが一時停止でしょう」
「ケンカ売る気か」
「売ってません」

というのも相手の土俵だ。問いかけに答えること――これが相手の土俵なのだ。図式で書けば「Catch→Answer」で、これがまずい。

ケンカなれした人やディベートに強い人は、意識して「Answer」を素っ飛ばし、「Catch→Question」にもっていく。話を噛み合わせない。相手の土俵には絶対に乗らないのだ。

向谷匡史『最強の「お父さん道」』(新泉社)

「人の顔、なにジロジロ見てるんだ」
「何かご用ですか?」

相手は“二の矢”に詰まる。

「なんで停まらないんだ」
「どうしてもとおっしゃるなら、警察を呼んでいただいても構いませんが?」
「ケンカ売る気か」
「交番に行きますか?」

話を噛み合わせない。こういう言い方をすると“火に油”で相手の怒りを誘うように思うかもしれないが、それは誤解。噛み合わない難クセは恐喝になることを彼らはよく知っている。だから恫喝に対して堂々と胸を張り、“別の土俵”で紳士的に対応すれば相手は攻め手がなくなり、捨てゼリフを吐いて立ち去ることになるのだ。

■駅の酔っぱらいをどういなすか

駅のホームも“危険の宝庫”である。ぶつかった、足を踏んだ、携帯電話が鳴った、大股で座っていて席を詰めない、ヒジが当たったのに知らん顔……。腹が立つことが多く、眉間に皺を寄せて相手をニラみつけようものなら、

「なんだ、この野郎!」

ケンカになる。

夜になれば酒が入る。だから電車やホームの酔っ払いの多くはサラリーマンで、理性のタガが外れ、日ごろの鬱憤を見ず知らずの人にぶつけてくる──というパターンである。カラまれても、それに応じないでいれば暴力的な意味で身の危険は少ないが、一緒にいる家族が怖がってしまう。理性をなくした酔っ払いは子どもには不気味な恐さがあり、お父さんが何の対処もしないとなれば、権威は傷つく。ここが問題なのだ。お父さんは家族の身を守ると同時に、子どもを怖がらせないことが大事になってくる。

そこで、どうするか。私もホームで酔っ払いにカラまれた経験は少なからずあるが、

「うるさい!」

と応じると、酒の力もあり反作用で相手も強気に出てくる。これは酔っ払いの習性である。しかもケンカになって相手がホームから転落でもすればえらいことになってしまう。ホームでのケンカは、どういう理由があるにせよ、絶対に避けるべきなのだ。

私は笑顔であしらう。反作用が起きないようにいなすのだ。ただし、「お父さん、ご機嫌だね」といった軽口はNG。酔っていても軽口に対しては敏感に反応するもので、

「なに言ってやがる」

火に油ということになる。

■問いかけて、すっと引く

酔っ払いをいなすには、問いかけが効果的だ。

「お父さん、どこで飲んだの?」

問われると無意識に答えようとするのが人間心理で、

「新宿……」
「いい店があるの?」
「あるよ」

こんな調子で会話し、スッと引くのがコツ。家族連れの場合は、特にこのときの笑顔が大事で、子どもの目には“余裕のパパ”に見える。恐怖心はどこかへ飛んでしまい、頼もしく思うことだろう。

もし、粗暴な酔っ払いであれば、家族をガードしておいて、手近な男性に「駅員さんを呼んでください!」と大声で言う。視線を据えて頼むのがポイントで、「誰か!」と不特定多数に呼びかけたのでは動かない場合がある。自分を見つめて「呼んでください!」と言われれば、義務感が生じる。声を張り上げるのも、お父さんの勇気なのだ。

私はホームをさっと見渡し、酔っ払いや、行儀の悪い若者グループがいたら避ける。離れた位置で電車を待ち、彼らと同じ車両には絶対に乗らない。乗った車両に“危険人物”がいたら、次の駅でさっさと車両を変える。家族を連れたお父さんであれば、最低限、留意すべきことである。

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向谷 匡史(むかいだに・ただし)
作家、日本空手道「昇空館」館長
1950年、広島県呉市出身。拓殖大学卒業後、週刊誌記者などを経て作家に。浄土真宗本願寺派僧侶。保護司、日本空手道「昇空館」館長として、青少年の育成にあたる。著書に『考える力を育てる 子どもの「なぜ」の答え方』(左右社)、『浄土真宗ではなぜ「清めの塩」を出さないのか』(青春出版社)、『親鸞の言葉 明日を生きる勇気』(河出書房新社)、『角栄と進次郎 人たらしの遺伝子』(徳間書店)など多数。

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(作家/浄土真宗本願寺派僧侶/日本空手道「昇空館」館長 向谷 匡史 写真=iStock.com)