いったん何もかも失ってどん底まで落ちた41歳の男性が、人気フリーライターに復活できた理由とは?(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第45回。

吉村智樹さん(53)は京都在住のライターである。かつては関西版『VOW』3部作『VOWやねん!』『VOWでんがな』『VOWやもん!』(宝島社)を大ヒットさせたことで知られている。


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現在は「いまトピ」「メシ通」「TRiP EDiTOR」「SUUMOタウン」などのウェブメディアを中心に、精力的に記事を書いている。

実際に現地に足を運び取材をして描く、綿密で明るいルポが人気だ。テーマは“少し変な場所”“楽しい人”“街グルメ”など多岐にわたっている。

ここ数年の活躍はめざましく“ウェブメディアで活躍するおもしろいライター”として注目されている。

雑誌媒体の衰退で苦労しているライターも多い

近年では、雑誌媒体の衰退の影響で筆を折るライターも少なくない。特に40歳を超えたライターが、立ち回りに苦労しているという話もよく耳にする。

吉村さんはなぜ50代を超えてバリバリとライター仕事を開拓していけるのか?

人生を振り返りながら話を聞いた。

「生まれは長崎県の平戸市でした。父親の転勤で大阪に来たのが3歳の時です。ちょうど大阪万博が始まる前の宅地造成ブームでした。『筍山を全部潰して団地を造ります』と言っていたのを子ども心に覚えています。その時作られた寝屋川市郊外の団地に住むことになりました」

小学校時代は“雑誌っ子”だったという。『テレビランド』(徳間書店)という子ども向けの雑誌がお気に入りだった。

「類似誌では先行して『テレビマガジン』(講談社)があったんです。子ども心にもテレビランドはテレビマガジンに比べて予算がないのがわかりました。苦肉の策で、編集さん同士の内輪受けみたいなのでページを埋めていて、その感じが好きでした」

当時テレビランドには『とよみたんとエーコたん』という漫画が連載されていた。テレビランドの副編集長だった市川英子さんをモデルにしたキャラクターが、漫画家の大塚とよみさんをモデルにしたキャラクターから原稿を催促する漫画だった。

「編集者が漫画家を出刃包丁で脅して漫画を描かせるという展開に腹を抱えて笑いました。読みながら、編集者、漫画家、ライター、デザイナー、カメラマン……などいろいろな人がかかわって雑誌を作ってるんだなって子どもながらに理解しました。」

テレビランドでは全国の読者から50人、ちびっこ記者を募集していた。選ばれると、大きなボールペンと記者バッチ、記者手帳がもらえた。

「毎月、街を歩いて取材してテレビランドに送っていましたね。『近所で交通事故がありました!!』とかそういう内容でした。そして誌面に署名記事が載りました。

当時、小学校4年生だったんですけど、その時の取材手法を現在でも使っていますね」

小学校6年生の時には『ビックリハウス』(パルコ出版)というサブカル雑誌にハマった。以降、判型の小さい雑誌を片っ端から読んだ。

『BOMB』(学研)、『投稿写真』(サン出版)、『写真時代ジュニア』(白夜書房)、『ぱふ』(雑草社)、『PHP』(PHP研究所) などなどだ。

雑誌を読むことで想像を広く飛ばすことができた

「投稿系の雑誌もやたらと出ていて、全部面白かったですね。小学校から社会人までずっと読んでました。雑誌に投稿もしていました。大阪の郊外の画一的な団地に住んでいたので閉塞感もありましたが、雑誌を読むことで想像を広く飛ばすことができました」

だが大学受験の時には、ライターになりたいという気持ちより映画監督になりたいという気持ちが強くなった。

「大阪で刊行されていた『プレイガイドジャーナル』(プレイガイドジャーナル社)が大好きだったんですけど、プレイガイドジャーナルが映画を作ることになったんです」

それは『ガキ帝国』(井筒和幸監督)という映画だった。島田紳助を主役に据えた、昭和40年代の大阪を舞台にした不良少年たちの物語だった。


いろいろな人に影響を受けやすいたちなんです(筆者撮影)

「めっちゃ影響を受けましたね。『こんな映画が撮りたい!!』って思いました」

大学は、映画監督を目指すため大阪芸術大学の映像学科を選んだ。入学後はバイトをしておカネをため、フィルムを買って映画を撮る日々だった。

だが、そのうちにまた映画からほかのものに興味が移っていった。

「いろいろな人に影響を受けやすいたちなんですよ。それまでも糸井重里や篠原勝之などいろいろな人に影響を受けてきましたけど、その時は井筒監督の友達の中島らもに影響を受けました。『なんておもしろいんだろう!!』って」

当時、中島らもは雑誌『宝島』(宝島社)で『啓蒙かまぼこ新聞』というカネテツデリカフーズのシリーズ広告を手掛けていた。従来の広告手法とはまるで違う前代未聞な内容に、当時の若者は度肝を抜かれた。

「僕も中島らもみたいに生きたいって思いました。そこで素直に中島らもの職業であるコピーライターを目指せばいいんですけど、そうはいかなかったんです。中島らもが歩んだ人生を順番にたどろうと思いました」

中島らもの著作に、氏が印刷会社の営業マンとして働いていたというくだりがあった。それを読んで、

「じゃあ俺も印刷会社の営業マンになろう」と思った。

就職活動の結果、無事、印刷会社に採用が決定した。だが大学を留年してしまった。しかし幸運なことに不採用にはならず、大学に通いながら会社に勤めることになった。

『花形文化通信』というフリーペーパーが作られることになり、印刷の営業に行った。しかし、そこで大失敗をしてしまった。

「失敗の責任を取るわけではないですけど、印刷会社の営業マンは無理だなと思って辞めました。24歳でした。

花形文化通信を出版していた編集プロダクション、『繁昌花形本舗』に謝りに行きました。すると『人手が足りないから手伝え』って言われて社員になりました」

成り行きで編集プロダクションの社員になる

成り行きで編プロの社員になったが、そこから一気に吉村さんの人生のピークが訪れた。

その当時、繁昌花形本舗は関西のカルチャーの最先端を行く会社だった。

雑誌の仕事、テレビの仕事、ギャラリーの仕事、イベント製作の仕事……ありとあらゆるカルチャーの仕事がきた。

「なんでもやらせてもらっているうちに、なぜかバンド『モダンチョキチョキズ』のメンバーとしてソニー・ミュージックからデビューすることになりました。

TV番組の構成としてテレビに出演もしましたし、FM大阪ではラジオのDJまでやってました。20代半ばで完全に絶頂でしたね。

調子に乗っていたんでしょうね。独り立ちしたらもっと儲かるだろうと考えました」

その時、すでに結婚していたが、奥さんに相談することなく会社を辞めた。

「当時の妻は泣いていました。ただ後々、『独り立ちするとこんなに儲かるんだ』ってわかって納得してましたけど」

独り立ちの後も好調は続いた。

その頃関西のメディアは元気だった。『ぴあ関西版』(ぴあ株式会社)、『Hanako West』(マガジンハウス)など関西独自の雑誌が創刊された。テレビ、ラジオも景気がよかった。そのため仕事には事欠かなかった。

当時『VOW』(宝島社)という本が人気だった。雑誌『宝島』に掲載された投稿ページを1冊にまとめた本だ。内容は、街や紙面に転がっているおもしろいネタを所狭しと掲載する街ルポモノだ。

その関西版『VOWやねん!』を吉村さんが担当することになった。小学時代から街ルポをしていた吉村さんにピッタリの仕事だった。ベストセラーになり12万部売れた。

「すごくモテて女の子とも遊び放題、浮気し放題でした。車も買っちゃいましたね。

そんな中、『だんだん大阪でやれることはやり尽くしたな』という思いが出てきました」

その頃東京では、みうらじゅん、根本敬、蛭子能収など雑誌『ガロ』(青林堂)で連載していた人たちの人気が上がってきた。

当時吉村さんは『街のおもしろい看板を見るスライドショー』を開催していたが、集客は100人程度だった。

みうらじゅんといとうせいこうが開催したイベントを見に行くと、テーマはほとんど同じだったのにもかかわらず800人ほど集まっていた。

「『なんで同じスライドショーなのにこんなに集客が違うんだ!!』って悔しかったですよ。今思えば100人も集まっていただいたら十分すごいんですけどね。それで『東京へ行こう!!』って決めました」

上京を嫌がる妻を無理やり説得し、東京にマンションを買って引っ越した。

「あこがれだった中央線沿いに家を買おうと思ったんです。それで値段と折り合いをつけて選んだ場所が八王子でした。しかも八王子よりさらに西の西八王子。当時は東京のことを全然知らなかったんですが、八王子は東京からものすごく遠いんですよね」

仕事が順調で家路につくことが減り、妻に異変が…

上京後は東京の出版社などから、

「一度一緒に仕事しませんか?」

とよく声がかかり、順調に仕事がきた。打ち合わせや飲み会も頻繁にあり、自然と家にはあまり帰らなくなっていった。

妻は根っからの関西出身の女性だった。外に出てもテレビからも聞こえてくるのはすべて東京弁、旦那は全然帰ってこない。

そのうちノイローゼになってしまった。

「妻の親から『出さへんから離婚届に判を押せ。預かっておくから』って言われたんですよ。仕方ないと思って押して渡したら次の日に提出されて離婚が成立してしまいました」

喧々囂々(けんけんごうごう)があったが、結局八王子のマンションを引き払わなければならなくなってしまった。

その後、念願かなって中央線文化の中心である高円寺に家を借りることになるのだが、それまでの間住む場所がなくなってしまった。

「妻が家を出る際、通帳と印鑑を持っていってしまったんですよ。すぐに新しい通帳を作ったけど、入金があるまでは一文なしです。

結果新宿でホームレス生活をすることになりました。東京の街を歩きまわって

『東京は、大阪と違って段ボール1枚すら落ちてないな……』

って思いました」

名もない小さい公園に野宿をすることもあったし、仕事をしていたミリオン出版や、トークライブハウス・ロフトプラスワンに泊めてもらう日もあった。

食事はベルギーワッフルのお店が廃棄する焦げ焦げのワッフルを拾って食べた。

「ワッフルがすごい甘いんですよ。ホームレス生活をしているのにブクブクに太ってしまいました(笑)」

なんとかホームレス生活を乗り越え、高円寺に引っ越した。仕事は順調に増えていった。

『週刊SPA!』(扶桑社)で1週2ページの大型連載をはじめ、『宝島』からも連載依頼がきた。

「離婚は苦労もしましたけど、しっかり稼ぎました。みんなにおごりまくって、風俗に行きまくってもおカネはなくならなかったです。東京の生活も楽しくてしかたなかったです。クラブに行って踊りまくっていました。そんなふうに浮かれていたからか、バチが当たりました」

手書き原稿のFAXでの入稿ができない時代に

それまでは手書き原稿をFAXで入稿していた。しかし東京では「メールで入稿してください」と言われた。吉村さんはそれまでパソコンはまったく触ったことがなかった。

「ウィンドウズ 95のノートパソコンを買いましたけどまったくわからなかったです。原稿を送るのにひどく手間取って、締め切りに片っ端から遅れてしまったんです。業界では“仕事ができないライター”とレッテルを貼られてしまったんだと思います」

『週刊SPA!』『宝島』など大口の仕事が一気になくなってしまった。ミリオン出版など小口の仕事は残ったがそれだけではとても食べてはいけなかった。

「みるみる貯金がなくなっていくんですよ。

『神は俺を殺す気か!!』って本気で思いましたね。

親から借金して支払いして、入金があったら親に返して。5日後にまた親に借金して……というのを繰り返しました。カード会社3社から借金しましたね」

仕方なく銭湯でバイトを始めたが、清掃にきつい薬剤を使うので足の裏の皮膚が溶けて肉がむき出しになった。「痛い痛い」と苦しんでいると「早くしろ!!」と怒鳴られた。結局、長くは勤まらずクビになった。

悪いことはさらに続く。以前クラブで遊んでいる時に目立とうと思いブリッジをしたことがあった。バキッと腰が折れた。ぎっくり腰になり、ひどい痛みではうように家に帰った。それから2カ月くらいまともに立てず、しばらく入院して治した。以来、しょっちゅうぎっくり腰になる癖がついてしまった。

「2月の凍てつくように寒い日に家に帰ったら、玄関先でひどいギックリ腰になってしまったんですよ。ドアを閉めたところでばったり倒れたので外にも出られなくなりました」

玄関先で倒れたまま動けなくなってしまった。糞尿は垂れ流すしかなかった。そして垂れ流された糞尿は、2月の冷気で凍った。

空腹に襲われて周りを見ると、手を伸ばしてやっと届く場所に、母親が送ってくれたコメがあった。袋を破り生米を食べてなんとか命をつないだ。

4日後、以前合鍵を渡していたなじみの風俗嬢がたまたま様子を見に来てくれた。玄関先で糞尿にまみれて倒れている吉村さんを見て、慌てて救急車を呼んでくれた。

「ウンコとしょんべんまみれで病院に運ばれました。お医者さんに

『車いすをお貸しできますけど、押す人いますか?』

って聞かれました。恋人も身内もいなくて、そして仕事もほとんどなくなり、貯金もない。

さすがに『ここまで落ちたか……』って凹みました」

大阪に帰ろうと思った。

31歳で上京してから10年が経っていた。

完全な都落ち

両親が老後に備え購入していたマンションに転がり込んだ。

「完全な都落ちですね。41歳でやり直すと言ってもなかなか難しいものがあります。大阪を出た時は鼻息荒く『大阪なんか捨てます』という態度でしたからね。『なんや今さら帰ってきたんか!! お前なんかに仕事あるかい!!』って突っぱねられることもありました。また当時の担当者はすでに偉くなっていてライターを採用するような立場じゃなくなっている場合もありました」

関西のメディア自体も冷え切っていて、仕事自体がほとんどなくなっていた。今から12年前は、まだネットメディアの仕事もほとんどなかった。ただ例外的にテレビ業界だけは好調だった。

「知人を頼っていてはどうにもならないなと思い、放送作家の面接に行きました。ほんの少しやったことがあるだけでしたけど『放送作家の仕事できます!!』とうそをつきました」

放送作家の主な仕事はテレビ番組の台本を書くことだ。


まともに台本を書いたことはなかったけれど(筆者撮影)

大阪時代、確かに放送作家をしていたことはあったが、当時は若者向けの番組が多く

「台本なんていらねえよ!! ノリで行っちゃえ!!」

というスタイルの番組が多かった。

だからまともに台本を書いたことはなかった。フォーマットすらよくわからず、ネットに落ちていた台本を参考に、なんとか書いた。

放送作家の仕事は大抵週1である。1本当たりの単価は安くても、積もり積もれば結構な額になる。順調に仕事は増えて収入的にはどん底から抜け出した。

そして良縁もあった。2011年、ツイッターで巡り合った小説家の花房観音さんと結婚した。

「放送作家の仕事って文字は書くんですけど、どこかで発表されるわけではないし、タレントに無視されてしまうことも多い。空気中に溶けてなくなってしまうような仕事なんですよね。いつも『これはやりたくてやってる仕事じゃない。食うためにやっている仕事だ』って思っていました。

しっかりと形として残る文章を作っている妻をうらやましいなと思って見ていました。しかし自分にはもうライターの道はないな、ってあきらめかけていました」

そんなある日、ツイッターを見ていると、NTTレゾナントが運営する「gooいまトピ」というウェブ媒体の公式アカウントが、

「新しいライターを募集しようかな」

とつぶやいているのが、バンッと目に飛び込んできた。ダイレクトメールで「東京に行くから、とにかく会ってほしい」と伝えた。

「このチャンスを逃したくないと思って『これこれこういうことが書けます』と必死に売り込みました」

編集部からは「とりあえず何本か書いてください」と言われた。

原稿料はネットの相場価格だった。もちろんそれだけで食べていける額ではないが、久しぶりにライターとして仕事をしておカネを稼げたことがうれしかった。

「それが2016年だから、非常に最近です。僕はライター歴が長いんですけど、東京から大阪に帰ってきて10年間、休止していたんですね」

ウェブメディアと雑誌媒体の違い

初めてウェブメディアでライターをして、雑誌とはかなり違うなと気づいた。

吉村さんが仕事をしている媒体は編集を通さずに、自分で取材対象を決め自分で取材をすることが多い。写真も多くの場合はライター自らが撮る。

SEO対策(広く露出するための対策)を考えたり、記事がアップされた後ライター自らがページビュー(PV)を稼ぐように動いたりといった“攻めの姿勢”もウェブメディアならではだ。

つまり全部自分でやるのだ。

それは吉村さんの性に合った。

「それってまさに子どもの時やりたかった仕事だって思ったんです。小学校の頃、コツコツと1人で学級新聞を作るの好きだったんですよね(笑)」

いまトピでは、街にあるおもしろいスポットや一風変わったグルメレストランを紹介したり、個性的な人物をインタビューした。まさに、ちびっこ記者だった時と同じ手法だ。

「僕がウェブでライターを始めた時には、すでにウェブ内に有名ライターがたくさんいました。ウェブのどこに自分の居場所があるだろう?と毎日悩み考え、ノートに作戦を書いていました」

吉村さんは長くテレビの仕事をやっていた。だから「テレビが後追いしたくなる」のがどういう記事なのか、知っていた。

「意図的にテレビの取材が後から入るようなネタを選んで記事にしました」

案の定、記事が出たのち、後追いでテレビの取材が入るケースが多かった。

するとテレビ番組が放映された後に、再び記事が読まれ「人気記事ランキング」にランクインする場合もあった。

そうして1年半にわたり、コツコツと記事を書き続けた。

「これはウェブメディアで仕事を始めてわかったのですが。雑誌の仕事って売り込みに行くとき、それまでの作品をポートフォリオ(作品集)にして他人に見せなければならないじゃないですか? ウェブメディアはウェブに上がった原稿がそのまま資料になるんですね。これは売り込みにとても便利です」

確かにたとえば当連載でも連載名や筆者名で簡単にソートして羅列することができる。自己紹介するとき、

「こういう媒体でこういう連載をしています」

と一発で提示できるのはとても便利だ。また自ら見せに行かなくても、勝手に見ていただいて仕事がくることも多い。

それは雑誌にはない強い利点だ。

「1年半書いてやっと『この吉村って人が書いてる記事、変やけどおもろいな』って思ってもらえるようになったと感じました。

実績として紹介できる本数になったので、いろいろなメディアに送りました。またライターの交流会に出て名刺を配ったり、東京のメディアに企画書を送ったりもしました。

そうしたら『うちでもお願いします』とバンバン採用されました」

ウェブの連載だけで7媒体から依頼がきた。また雑誌『週刊大衆』(双葉社)から週刊連載の仕事もきた。

「昨年はテレビの放送作家の仕事がつらく、ストレスから直腸に腫瘍ができて2回手術したんです。それで去年の末、2本放送作家の仕事を降りました。それで月に22万円の減収になりました。

かなりキツかったんですが、今年になってライターとしての仕事が増え、やっと今月になってライターだけの収入でやっていけるようになりました」

何歳でも復活のチャンスはある

いったん何もかも失ってどん底まで落ちた41歳の男性が、53歳で人気フリーライターに復活できたという事実は、ウェブメディアの可能性を示すものだと思う(もちろん吉村さんの才能があればこそだが)。

「今思えば最大の転機は12年前のぎっくり腰でしたね。とことん落ちぶれました。

『ウェブメディアは過去の紙媒体のキャリアはまったく通じない』

という普通ならデメリットになる部分が、逆に50代でリカバリーできたカギになったと思います。

もう53歳ですけど、ライターとして行けるとこまで行きたいですね」

プライドを捨てジタバタとあがけば、何歳でも復活のチャンスはあるのだ。