次期日本代表監督は誰になるのだろう。

 サッカー協会の田嶋幸三会長は、西野朗監督の留任を繰り返し否定している。西野監督自身も「ロシアW杯まで」を自らの区切りとしており、続投する意思はない。

 後任にはユルゲン・クリンスマン、ロベルト・ドナドーニ、アーセン・ベンゲルらの名前があがっている。あくまでもメディアに報じられているだけなので、実際には違うところに違う候補者がいることも否定できない。

 外国人監督に日本代表を託すメリットを、改めて考えてみる。

 W杯に出場したことのない当時は、「学び」のニュアンスが強かった。世界のトレンドを知り、選手として、監督として、あるいは選手と監督の両方でW杯を経験した指導者から自分たちに足りないものを吸収する、という目的が大きかっただろう。

 2018年現在の日本サッカーが、依然として「学ぶ」立場にあるのは間違いない。一方で、世界のトレンドは20世紀当時より確実に身近になった。

 世界中のあらゆるサッカーを、我々はオンタイムで観ることができる。各国リーグを熱心にチェックする日本人指導者は数多い。

 海外サッカーを見つめる日本人指導者は、「日本人に同じことができるか」とか「自分のチームにどうやったら応用できるのか」といった視線を持つ。最先端の戦術を単純に真似るのではなく、日本人選手に合ったやり方でチームに落とし込む。

 必然的に、自分の理想を押し付けるような一方通行はチーム作りにならない。日本人選手の良さが生かされていく。

 選手たちのプレー環境も変わった。言うまでもなく、欧州のクラブに所属する日本人選手が増えた。世界のトップクラスの選手と同じピッチに立つことで、彼らは彼我の違いを身体で感じ、自分たち日本人の強みを再確認する。

 南米、アフリカ、北中米カリブ海などからワールドクラスの選手が集まってくる欧州で、日本人選手が数多くプレーしている。世界の潮流を肌で感じる選手たちを、経験と実績のある外国人監督が率いることになれば、興味深いチームが出来上がっていくのでは──外国人監督を招へいする理由は、おそらくそんなところにあるのだろう。

 とはいえ、外国人監督にはデメリットも付きまとう。それまで日本に馴染みのない外国人監督の場合は、欧州や南米とまったく異なる異文化に戸惑うだろう。何事にも正確な生活に快適さと安心を覚える一方で、日本人のメンタリティを理解するのは簡単ではない。

 日本のサッカーに根づく習慣──良いものだけではない──も、実際に来日して指導をしてみなければ分からないだろう。

 通訳を介するコミュニケーションでは、細かいニュアンスが伝わりにくい。まずは外国人監督と通訳が理解を深め、そのうえで通訳の言葉選びが重要になってくる。日本代表は9月から11月に合計6試合を消化するが、かりに外国人監督が就任したら、来年1月のアジアカップも手探りのコミュニケーションで戦うことになるだろう。それぐらい時間がかかることは、あらかじめ想定しておいたほうがいい。

 コミュニケーションの壁がないから日本人にするべきだ、と言うつもりはない。ただ、外国人監督なら“大目に見られる”ものが、日本人監督にはない。日本サッカーを理解したり、選手との相互理解を深めたりするためには時間が必要だ、との配慮は働かないのだ。

 日本人監督を推す理由をふたつあげたい。

 ひとつは「モチベーション」である。

 日本人選手は、日本代表に選ばれることを目ざす。同じように、日本人指導者には日本代表監督になりたいとの思いがあるはずだ。それなのに、経験や実績を理由としてなかばオートマティックに外国人監督がやってきたら、日本人指導者のモチベーションは萎えてしまうだろう。

 ふたつ目は「覚悟」だ。

 日本人監督になった日本人指導者には、“非難場所”がない。契約が満了したら母国へ帰る外国人監督のように、批判や避難から逃れる場所を持てないのである。自分だけでなく、家族や親類に辛い経験をさせてしまうかもしれない。日本代表監督の仕事を志半ばで終えることになれば、その後のキャリアにも影響が出るかもしれない。

 日本人指導者が日本代表監督を引き受けることは、様々なリスクを背負う覚悟を決めるということなのだ。退路を断つ、という表現も当てはまるだろう。外国人監督が使う「冒険」などという言葉は、日本人指導者には当てはまらない。

 覚悟とは思いである。思いとは揺らぎのない忠誠心と責任感である。日本人監督にあって外国人監督にないものを、もっと評価していいはずなのだ。