苦労 〜「へこみ」は「うつわ」/村山 昇
〈じっと考える材料〉
荒野のまんなかに大きな岩があった。
その岩は、日々、砂まじりの強い風によって表面をけずられる。
いつしか、岩の一部にくぼみのようなものができた。
ある日、めずらしく雨が降った。
岩のくぼみに水がたまった。
するとそこに昆虫や鳥などが集まってきた。
それぞれは水浴びをし、羽を休めた。
その小さな水の鏡は広大な空を映しだしていた。
打ちのめされたり、傷ついたり、落ち込んだりした状態を、俗に「凹(へこ)む」という。でも考えてみるに、凹んだ部分は器になる。その器でなにかをすくうことも、なにかを受けいれることもできる。
釈尊やイエスの教えが、なぜ千年単位の時空を超えて人びとの心を抱擁(ほうよう)するのだろう。それは彼らが偉大な苦しみのなかに身を置き、光を発したからだ。
ガンジーやキング牧師の言葉が、なぜ力をもって民衆の胸に入り込み、民衆を立ち上がらせたのだろう。それは彼らが深い深い闇の底から叫んだからだ。
ドストエフスキーが狂気的なまでに善と悪について書けたのはなぜだろう。それは彼があるときは流刑の身となり、兵士となり、またあるときはてんかんをわずらい、あるときは賭博(とばく)に明け暮れるという、まさに狂気の淵(ふち)でものを考えたからだ。
正岡子規があれほど鋭く堅牢(けんろう)な写実の詩を詠めたのはなぜだろう。それは病苦に悶絶(もんぜつ)し、命の火も絶え絶えになるなかにあって、魂で触れることのできる堅いなにかを欲したからだ。
東山魁夷はこう書いた───
「最も深い悲しみを担う者のみが、人々の悲しみを受け入れ慰めてくれるのであろうか」。 (『泉に聴く』より)
ヒルティは『幸福論』のなかでこう記す───
「ある新興宗教の創始者が、自分の教義の体系を詳しく述べて、これをもってキリスト教にかえたいというので、彼(タレーラン侯)の賛成をもとめた。すると、タレーランはこう言った、しごく結構であるが、新しい教義が徹底的な成功をおさめるにはなお一事が欠けているようだ、『キリスト教の創始者はその教えのために十字架についたが、あなたもぜひそうなさるようにおすすめする』と」。
人は、苦しんだ深さの分だけ喜びを感受できる。また、ほんとうに悲しんだ人は、ほんとうに悲しんでいる人と、ほんとうの明るさを共有できる。生きることの分厚さや豊かさといったものは、苦や悲といったネガティブな状態にえぐられることによって獲得できる。宗教が慈悲や愛を基底にしているのはこのことと無関係ではない。
いずれにせよ、すべての人は負(マイナス)を正(プラス)に転換できる力をもっている。おおいに悩み、おおいに迷うことは、自分のなかの凹みという器を大きくしている過程であるともいえる。その器は、やがてあなたの徳となって表れる。
[文:村山 昇/イラスト:サカイシヤスシ]