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東京大学は1月6日、細胞が生み出す物理的な力と細胞の運動との間に成り立つ関係を明らかにしたと発表した。

成果は、東大大学院 理学系研究科 物理学専攻の谷本博一博士研究員(現・ジャックモノー研究所・博士研究員)、同・佐野雅己教授らの研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、近日中に「Biophysical Journal」に掲載される予定。

運動は細胞の基本的な能力の1つであり、がん細胞の転移に代表される多数の疾患にも関わるという。細胞運動の機構については生物学的な立場からすでに数多くの研究がなされており、関わっている因子の同定が進められているところだ。その一方で、物理学的な立場から細胞運動の「原理」を探る試みは始まったばかりだという。物理学の方法論を用いて細胞の運動を研究することで、その原理が明らかになり、生物と非生物の運動様式の共通点・相違点が明らかになることが期待されるとする。

非生物の受動的な運動は外部から加えられた力によって駆動され、その外力の総和と運動との間の関係は「ニュートンの運動方程式」として古くから知られている。ニュートンの運動方程式とは、物体に働く力と運動の関係を記述する方程式のことで、物体に働く力の総和と物体の速度変化が比例することを示す。

対して細胞は外界から取り込んだ化学エネルギーを利用して、外力に頼らずに能動的に運動することが可能なのは、その細胞を成人では60兆個持つといわれるヒトである我々が、常に実践していることだ。

細胞1個当たりの運動における典型的な時間・空間スケールは微小なため、慣性力をほぼ無視することができることから、細胞が自ら生み出す力(内力)の総和は実効的にゼロになる。このことは非生物の場合とは異なり、外力で駆動されるニュートンの運動方程式は細胞の運動をよく記述しないことを意味しているというわけだ。

合力ゼロの内力によって細胞が運動する仕組みを明らかにするためには、単に和を計算するのではない「応力場」の新しい解析方法が必要とされる。よって、これまでは力の測定から細胞の運動を予測できるような解析方法は知られていなかったというわけだ。なお応力場とは、細胞が接着している外部基盤に及ぼす力のことである。細胞が自ら生成する力である内力のほぼすべてがこの応力場であり、この力を用いて細胞は運動・変形する仕組みだ。

そこで研究チームは今回、「多重極展開」と呼ばれる手法を導入することで細胞の応力場の空間構造を解析し、応力場の「空間非対称性」と細胞の運動とが関係していることを解明。多重極展開は複雑なデータを座標の級数で展開することにより、その空間構造をいくつかの簡単な指標で代表させる手法である。この手法は流体物理学・原子核物理学など物理学のさまざまな分野で応用されている一方で、生物学においてはこれまでほとんど使われていなかった。

研究チームはまた、「共焦点顕微鏡」と画像解析手法を組み合わせることで、細胞の応力場を定量的に測定する装置「牽引力顕微鏡(Traction Force Microscopy)」を構築し、典型的な運動性細胞である「細胞性粘菌」の応力場をナノニュートン・マイクロメートルの精度で計測。

さらに得られた測定結果を多重極展開に基づいて解析し、応力場の「回転対称性」と「前後対称性」それぞれの破れを特徴づける2つの指標の計算が行われた。なお回転対称性とは、ある図形が中心周りの任意の回転により元の図形と一致する性質のことをいう。応力場の回転対称性が破れていることは、応力場に特定の軸(主軸)が存在することを示している。また前後対称性とは、ある図形が軸に対する反転により元の図形と一致する性質のことをいう。応力場の主軸に対する前後対称性は、細胞の頭部と尾部の違いに対応している。そして計算の結果、これら2つの指標が細胞の運動方向を決めていることを明らかにしたというわけだ。これは細胞の力と運動との関係が見出された初めての報告となる。

今回の研究は、細胞が自ら生み出す応力場に対して新しい解析手法を導入することで、いわば細胞の運動法則に当たるものが発見された形だ。この手法はほかの生命現象、とくに多細胞生物へも応用可能なものだという。例えば多細胞生物の発生過程では、個々の細胞が空間的に協調して運動することで複雑な成体が形成されることがわかっている。今回の研究で導入した手法は、個々の細胞の運動だけではなく、運動している細胞同士の相互作用をも記述し得るものであり、多数の細胞が協調して運動する現象への応用が期待されるという。

他方、今回の研究により得られた知見は、物理学分野で現在精力的に行われている細胞運動の理論的な研究のカギとなるものでもあるとする。今回の研究は生物学的課題に対して物理学的な方法論が有効であることを示す、生物学・物理学の境界領域に属する数少ない研究であり、今後の生物学・物理学各分野への波及のみならず、両分野のさらなる融合的な研究のきっかけとなることに加え、細胞運動はがん細胞の転移に代表される多数の疾患に関わっており、その原理の解明は、将来的には医学への応用へとつながるものと期待されるとしている。

(デイビー日高)