最近の日本の政治を見ていると「アカウンタビリティ」が欠如しているのではないかとつくづく思う。なにも政治に限ったことではないが、日本の組織においてはこの「アカウンタビリティ」が十分に果たせていないリーダーが実に多い。そもそも、「アカウンタビリティ」とは疑惑や不祥事など何か事が起こった時にだけ行うものではなく、常日頃から行うべきリーダーとしての重要なコンピテンシーである。

 「アカウンタビリティ」は外来語で、Accounting(会計)とResponsibility(責任)の合成語で、「会計説明責任」という意味であった。時代の変遷とともに拡大解釈され現代では、「あらゆる組織体において権限を有する者が自ら行った結果、または行うべきことを怠ったことが招いた結果について、利害関係者に対して合理的な説明を行う責務」ということを意味する。

 日本ではこの「アカウンタビリティ」を単に「説明責任」と訳して捉えることも多いが、説明を十分に行えばアカウンタビリティを果たしたことになるのだろうか。たとえ説明をしたとしても、受け手である人が、その説明に対して理解し納得しなければ説明そのものが意味をなくすわけであるから、この場合にはアカウンタビリティを果たしたとは言えない。当たり前のことであるが、この辺の認識が欠けているようである。

 このことから、アカウンタビリティとは、受け手の理解と納得の得られる説明責任ということになるが、しかるべき立場にある人に対しては、その責任の重要性から説明だけにとどまらずもっと広い意味で捉えられるようになってきている。

 リーダーとして「アカウンタビリティ」を果たすということは、結果の説明にとどまらず、結果に対する内外の評価を得て、将来のビジョンを示し、組織成果を生み出すためにどの様に行動するのかについて説明する責任までをいうようになってきているのである。


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