リピーターが続出している映画『ボヘミアン・ラプソディ』だが、クイーンが「伝説のバンド」扱いされることに違和感も?(写真:Nick Delaney / TM & copyright © Twentieth Century Fox Film Corp. All rights reserved. / Courtesy Everett Collection)

先日、電車に乗り合わせていた20歳前後と思しき女性2人が「クイーンの映画は〜」と話しながら映画館のある駅で降りていった。仕事仲間の大学生からも「見た」「見に行く」という声が聞かれる。筆者の母(喜寿)も「話題みたいだから」と見に行った。

民放の情報番組、NHKの平日夕方枠でも大きく紹介されているのも目にした。音楽雑誌だけでなく、写真週刊誌でも特集が組まれている。SNS上での盛り上がり方もかなりのもの。現代版口コミとしての説得力は誇大宣伝込みのマスコミよりも高いのだろう。

プログラムは一時的に品切れとなり、CD各種も在庫切れ、レンタルCDも貸し出し中が続くなど、関係者の予想をかなり上回り現象と化している『ボヘミアン・ラプソディ』。筆者も劇場で本作を大いに楽しんだ。しかしこれほどの「絶賛の嵐」には疑問を感じている。

クイーンではなく「フレディ・マーキュリー」

本作は「クイーンの」ではなく「フレディ・マーキュリーの」映画であると言っていい。だいたいエンディングロールでフレディ・マーキュリーに続いて登場する名前が、クイーンのメンバーであるブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンではなく、フレディの恋人で友人であるメアリ・オースティンなのだから。

中には「史実と違う!」とアツくなっている人がいるが、この映画はドキュメンタリーではない。時系列や細かい事象が違うことに過敏になると楽しめない。フレディ役のラミ・マレックが小柄であること(逆にフレディの足の長さに気づかされる)など突っ込みたくなるポイントもあるかもしれないが、おそらく途中からそれらは気にならなくなる。それはスタッフとキャストの「クイーン愛」が伝わってくるからだ。それが、本作が「ア・カインド・オブ・マジック」を持つに至った要因なのだろう。

だが、こういう現象が起こるといつも疑問に思うのは周りの過剰な騒ぎ方だ。「感動!」「泣いた!」などというもろ手を上げた絶賛の声ばかりを聞いているとどうも居心地の悪さを感じる。

無名だった青年の苦労、「夢はかなう」的な成功、そしてそれと引き換えの孤独、別離、それを乗り越えての悲劇的な最期を覚悟した結束という、どのジャンルの夭折した成功者にも当てはまりそうなツルンとした美談として、本作そしてクイーンを語る傾向が強まった気がするのだ。

あの頃、クイーンはそんな扱いのバンドじゃなかったのに。

筆者は1978年のシングル「バイシクル・レース」とアルバム『ジャズ』からという、少し遅れたクイーン実体験世代にあたる。1985年夏の「ライブ・エイド」をTVで観たのは18歳の時。いやはや大したバンドだとは思ったが、それは彼らが大規模な世界ツアーを終えた直後なので(映画はここも史実とは違う)、客いじりも含めて大会場に慣れているバンドだなぁ、フレディはやっぱり優秀なエンターテイナーだよなぁ、さすがだなぁと痛感しただけのこと。

そんな実体験ファンの1人としてまず書いておきたいのは、「クイーンは一貫して『変なバンド』だった」という点だ。

わざと物議を醸す、賛否両論を呼ぶほうへ向かうバンド

「伝説のロックバンド」と、特に今回の映画関連のいろいろな場面で書かれ、語られている。確かに知名度はかなり高かった。たとえば友人の兄や姉の部屋の、邦楽がほとんどというレコード棚に交ざっているのはイーグルズとクイーンということはよくあった。しかしイーグルズやザ・ビートルズ(すでに解散していた)のような「海外の憧れのスターバンド」ではなく、クイーンは「変てこなバンド」だった。わざと物議を醸す、賛否両論を呼ぶ方向へと向かうバンドだった。

つい最近知り合った、洋楽にはあまり興味がなかったという同い歳の男性も「クイーンってイロモノでしたよね」と話していた。そういう位置づけのバンドだったのだ。

また音楽的にも、クイーンはあの時代を「代表している」とは言いがたい。今の騒がれ方だと、彼らの音楽があの頃のロックの「ど真ん中」だと誤解されてしまう。それに対する危機感を筆者は強く持っている。あんな音楽をやるバンドはほかになかった。もちろん、褒め言葉だ。

ほぼすべてのロックバンドが持つブルーズルーツの泥くささは皆無に等しい。しかし音のハードさとスピード感はハードロックのそれ。プログレッシブロックの構成力やグラムロックの華麗さも持っていた。誰もが歌えるポップな曲もある。しかしどのジャンルにも属さないコウモリ的な存在だった。ロック以前のクラシックやトラッドフォーク、ミュージカル、ボードヴィル・ショーといった要素も強く、典型的なロック的メロディーやコード進行、構成ではないものが多かった。

全員が優れた作曲家で、リードシンガーが3人いる彼らは、アルバムどころか楽曲ごとにまったく違う音楽を作っていたが、そのどれにも「クイーンらしさ」があった。これは非常に不思議でユニークで、そしてすばらしい点。

またリーダー不在といえる民主的なバンドだったのも独特だった。フレディはフロントマンでありリーダーではなかった。フレディを「クイーンのリーダー」と紹介しているか否かは、それが好きな人によって作られた記事なのか、流れに乗って作られた便乗記事なのかを判断する1つの目安になる。

彼らの異端ぶりを象徴するのが外見だ。普通にいうところのロック的な「格好良さ」「美しさ」とは違う美意識があった。それはギャグすれすれでさえあった。

なぜ映画はここまでヒットしたのか

フロントマンがいわゆる美形ではなく異形だった。和服(女物)をはだけて着用。かの有名な全身タイツ。ブライアンのひらひら多めの服。フレディが口ひげを生やした時、日本にはしゃれか本気か「フレディのひげを剃らせる会」という団体がラジオ番組や雑誌に登場した(実在したのか?)。女王の王冠とガウン。ひげのあるまま女装。ライブ・エイドという大舞台なのに休日のお父さんみたいなフレディ――。

『ボヘミアン・ラプソディ』はもっとクスクスという笑い声と共に観られてもいいと思う。

この映画のヒットによりクイーンの知名度が再び上がり、ファンが増えるのはうれしい。しかし「今頃になってどうして?みんなそんなに好きだったっけ?」という気持ちもある。しかし、この映画はなぜここまで成功したのだろうか。いくつか理由を列挙してみたい。

・もともとクイーン自体の知名度がとても高かった。4人の顔と名前を当時のほとんどの10代は知っていただろう。しかもファースト・ネームのみで通じた。

・浮世離れした、考えてみれば映画化に適したキャラクターとストーリーを持っていた。『ミュージック・ライフ』誌関係者諸氏が指摘するように、少女漫画の主人公、そして倒錯したギャグ漫画の要素もあった。

・PRスタッフの作戦勝ち。しっかりとした公式ウェブサイトが作られ、少しずつ内容を明かしていく方法も巧みだった。公開の半年近く前からSNSでは予告動画が続々とシェアされ、似ている/似ていないの話題を伴い盛り上がっていた。

・彼らの音楽は途切れることなくお茶の間に流れている。これに関しては、最初にスターにしてくれた日本に対して、クイーン側の楽曲使用許諾が寛容だというすてきな追い風もある。

・当時のファンは50歳以上なので夫婦割(ペア割)を使って映画館へ行ける。

・通常の上映に加え、歓声や合唱OKの「胸アツ応援上映」も話題だ。リピーターが多いのは、どちらも体験したいという考えもあるからだろう。英語詞を字幕に入れるなど気が利いている。当時のフィルム・コンサートをオーバーラップさせている方も多いかもしれない。

・今世紀に入りポール・ロジャースやアダム・ランバートと共にクイーンの活動を再開、現役バンドとして話題を提供している。来日公演はアリーナ/スタジアム・クラスで実施。

・サッカーをはじめスポーツ大会で歌われる曲があり、世代、国を超えて知名度は広がる一方。

・そしてもちろん、ノスタルジー。仕事や子育てが一段落して「久々に若い頃に聴いた洋楽でも」となった場合にクイーンの名が浮かぶ人は多いはずだ。その意味では確かにあの頃を代表するロックバンドではある。

『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』以来のヒットか

洋楽ものの映画としての『ボヘミアン・ラプソディ』の日本での成功は、ドキュメンタリーも含めるならば『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』(2009)以来といえるだろう。クイーンとMJに浅からぬ縁があるのも興味深い。

欧米でも公開初週の興行収入が第1位となった国は多く、アメリカではシングル「ボヘミアン・ラプソディ」が『ビルボード』誌で33位に入った。これは1970年代、1990年代(フレディ・マーキュリー逝去を受けてのシングル・カット)そして2010年代と、20年ごとにヒットした珍記録といえる。

伝記映画としての面白さは、近年では『ジェームス・ブラウン〜最高の魂を持つ男〜』(2014、日本2015)に比肩すると思う。直後にドキュメンタリー映画『ミスター・ダイナマイト ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』(2014、日本2016)が公開されたのもよかった。

別々のスタッフにより制作されたものなので偶然だったとはいえ、近い時期に公開された2本は互いの不足部分を補完し合っていた。今回のクイーンも近いうちにドキュメンタリー映画が公開されれば、上記の違和感や不満はかなり解消されるのにと夢想する。

その予定を耳にしない今、ドキュメンタリーに代わる映像ソフトとしてお薦めしたいのが、映画パンフレットのディスコグラフィーにも載っている「伝説の証〜ロック・モントリオール1981&ライヴ・エイド1985」だ。これには特典としてブライアンとロジャーのコメンタリーが付いており、この時の裏話だけでなく、広くクイーンのことをいろいろと語り合っていて、ロングインタビューとして聞ける。

繰り返しになるが、今のクイーン人気は美しい面が強調されすぎている。その違和感は拭い切れない。このままだと博物館入りしてしまう。安易に「伝説のバンド」扱いされるこのムードが続くと、小学校の図書室の「偉人の伝記コーナー」に、フレディ・マーキュリーが並びかねない。「昔の偉い人」になるのだとしたら、ファンも含め、当時を知る人(含ファン)がすべて亡くなった今世紀後半でいいんじゃないだろうか。