初戦のナイジェリア戦から、決勝のフランス戦まで、いやその後チームが凱旋するまでのあの熱い日々を、いったい何と言葉で表したらいいのだろう。


凱旋帰国したクロアチア代表のズラトコ・ダリッチ監督(左)とルカ・モドリッチ photo by AFP/AFLO

 残念ながら決勝ではフランスに敗れてしまい、しかも致命傷となった最初の2失点はクロアチア人にとっては納得のいくものではなかった。だが、試合後、チームを率いたズラトコ・ダリッチ監督は、ジャッジのことには触れず、ただこう言った。

「すばらしいW杯をプレーし、クロアチアの人々の心をひとつにしたことを、私は誇りに思う。経済の伸び悩み、人口の流出、失業率の増加と、クロアチアはいま、多くの問題を抱えているが、人々はしばしそれを忘れ、我々に熱狂してくれた」

 クロアチアの成功の秘密をひとつあげろと言われたら、誰もが「ダリッチ」と答えるだろう。彼はクロアチア再生の立役者であり、彼のもとでチームは生まれ変わった。

 ダリッチが初めて代表に合流したのは、キエフに飛び立つ直前の空港だった。そのときクロアチアは、あと一歩でW杯出場を逃してしまう状況にあった。予選最終戦でウクライナに、そしてギリシャとのプレーオフに勝たなければ、我々はロシアに足を踏み入れることもできなかった。それが決勝を戦うまでになるとは、誰が予想しただろう。

「思えばあのウクライナとの予選最終戦で、我々は自身を取り戻し、自分たちの可能性に気づいたのだ」

 ロシアW杯最優秀選手に輝いたルカ・モドリッチは、これまでの道のりを振り返ってこう言った。

「それはダリッチ監督のある言葉がきっかけだった。彼は我々選手に何を言ったらいいのか、どう言ったら選手の寄せ集めが本物のチームになれるのかを知っていたんだ」

 いったいダリッチは何と言ったのか?

「このチームは世界と互角に戦う力を持っている。知っているか? 君たちは普通の選手ではない。最高に優秀な選手たちなんだ」

 クロアチアに優秀な選手がそろっていることは、誰もがわかっていた。選手のほとんどは、ヨーロッパの強豪チームで主力としてプレーしている。しかし、なぜか代表チームではその力を十分発揮できないでいた。今回のロシアW杯は、モドリッチ世代にとって、タイトルに挑戦できる最後のチャンスである。ダリッチはそのことを彼らにあらためて自覚させた。

「今でなくて、いつやるんだ?」という自覚も、チームをひとつにまとめるのに役に立った。

 また、ダリッチはチーム内の和を保つこと、チームが平静にプレーできるよう全力を注いだ。交代出場を拒否したニコラ・カリニッチの追放は、かなり強力なメッセージであったと誰もが言っている。規律を乱す者は、どんな優秀な選手でもいらない。誰も不平を持ってはならない。彼はエースさえ追放することで、そのことを示したのだ。

 ダリッチは、歴代クロアチア代表監督のなかで、唯一、自分の考えを通してチームづくりをした人物でもある。協会やビッグクラブの「アドバイス」という名の命令にも屈しなかった。

 たとえば、ダリッチはGKコーチにドラゼン・ラディッチ(1998年のクロアチア代表GK)を起用したが、ラディッチはディナモ・ザグレブの幹部と戦争状態にあり、彼をコーチに入れないよう、かなり強固な横やりが入った。しかしダリッチは、「彼は私の第一の協力者でならなくてはならない。でなければこのままチームを去るのみだ」とつっぱねた。ダリッチは彼らとの戦いにも勝利したのだ。

 W杯開幕の直前まで、クロアチア代表を取り巻く空気には不穏なものがあった。多くのサポーターは、汚職などで裁判沙汰になりながらも幹部に留まる者がいるクロアチアサッカー協会や、プライベートで問題を抱えるダボル・シューケル会長(1998年フランス大会の英雄である)に反対の声を上げていた。

 ディナモ・ザグレブのオーナーで、クロアチアサッカー界のドンであるズドラブコ・マミッチは、脱税などで懲役6年の有罪判決を受けたにもかかわらず、ボスニア・ヘルツェゴビナに逃亡し、収監を免れている(彼はボスニアの国籍も持っている)。ルカ・モドリッチとデヤン・ロブレンも、かつてディナモの選手であったことから、この裁判沙汰に巻き込まれており、不安定な状況でW杯への日々を過ごしていた。

「マミッチと同罪だ」などというバッシングを受け、精神的にかなりのダメージを負い、一時はW杯出場さえも危ぶまれる状態だった。しかし、ダリッチ監督の力も借りて、モドリッチはその逆境を力に変えた。誰にも何も言わせないように、頂点を目指したのだ。

 監督の必死の働きかけによって、チームのメンタル面は最高の状態となり、初戦のナイジェリアに勝利してからはどんどん成長していった。なにより気持ちを盛り上げたのは、アルゼンチンに3-0で勝利したことだ。リオネル・メッシを完全に封殺したことにより、選手たちはダリッチの言葉だけでなく、肌で自分たちの成長、自分たちの実力を実感し、そしてついには決勝までたどり着いた。

 クロアチアにとってこの2位は、優勝に等しいものだ。選手たちが帰国すると、なんと55万人の人々が、彼らを迎えようとクロアチア中から首都ザグレブに集まった。クロアチアの人口は417万人だから、実に人口の15%以上の人が、選手たちを祝福しにやって来たことになる。

 その翌日には、それぞれの故郷に帰った選手たちを迎えて、今度はクロアチア各地がお祭り騒ぎとなった。特にスプリトは、5人のハイデゥク・スプリト出身の選手がいたため、騒ぎは一番大きかった。

 W杯の期間中、クロアチアはまるで夢の中にいるように、誰もが代表チームに熱狂していた。教会の司祭は、ミサのときにクロアチアの勝利を願う文句を入れることを忘れず、試合の時間はほとんどの店が閉店した。オフィスも仕事は中断、3万人以上のサポーターがロシアにまで押し寄せた。建国以来、これほどまで国中がひとつとなって盛り上がったことはなかった。

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