ピンクの看板が目立つ、カクヤスの店舗(写真:カクヤス提供)

ピカピカの蛍光ピンクの看板が目印の「なんでも酒やカクヤス」。店舗では配達用リヤカーが次の注文を待っている。お酒の宅配サービスによって、業界ナンバーワン酒販企業となったカクヤスだが、実は創業97年の老舗だ。大正10年(1921年)、関東大震災から遡ること2年、カクヤスは東京で産声を上げた。

年商1000億円の「カクヤス」、はじまりは小さな町の酒屋

新潟出身の初代社長佐藤安蔵氏が、現在の東京都北区豊島で始めたのは「カクヤス酒店」という小さな酒屋だった。第二次世界大戦の最中、昭和20年(1945年)2月19日、空襲により、豊島地区は壊滅。店が焼けたため、より駅に近い場所に移転して店を始めた。


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地元で親しまれていたカクヤスだったが、当時は事業を拡大させるのは難しい時代。当時、酒類販売業界は国税庁の厳しい監督下に置かれていたからだ。酒税を安定して徴収するために販売免許制を敷き、廉価販売にも否定的だった。

加えて、業界には互いに価格競争に持ち込まないという暗黙の了解があり、値引きで集客することは難しかった。そこで2代目社長・佐藤安文氏は近所の酒屋との軋轢を生まないよう、自店から遠い銀座に営業攻勢をかけたが、急拡大は叶わなかった。

カクヤスがその名を知られるようになったのは、3代目の佐藤順一現社長になってから。佐藤社長が入社した1981年当時、従業員15人ほどにトラック6台、年売上高7億円ほどの中小酒販店だった。「汚いトラックで配達するのは魅力的に思えず継ぎたくなかった」と佐藤社長は振り返る。しかし、筑波大学を卒業する直前の2月に「しかたない」とようやく継ぐことを決心した。酒販店の跡取りはいったんビールメーカーで修行することが多いが、直前すぎて間に合わずそのままカクヤスに就職した。

大学卒の佐藤社長は異色の存在。入社してからは遊ぶ暇もないほど働いた。早朝5時に出社して、深夜に入った飲食店からの注文の留守電を聞くのに2時間、伝票を書くのに2時間、9時に出社してきた社員とトラックに荷を積み、夕方まで配達、夜から飲食店の集金……。睡眠時間を削った生活が10年も続いた。

バブル景気が到来すると、新しくオープンした飲食店やクラブに営業攻勢をかけ新規顧客を次々と獲得、売上高を拡大した。だが、バブルが崩壊すると、潰れたのはバブル期にオープンした飲食店ばかり。「不良債権を作るために営業をしてきたような皮肉な結果となった」(佐藤社長)。売上高は徐々に下がり赤字転落が見えてきた。

バブル崩壊後に消費の冷え込みに対応して低価格指向が強まると、家庭向けに毎日安売り価格で酒を販売するディスカウントストアが時代の寵児となった。カクヤスも1992年に「スーパーディスカウント大安」をオープン。だが、ライバルのディスカウントストアが大量陳列・大量販売するために広大な敷地を有しているのに対し、カクヤスの敷地は40坪ほどで狭いうえ車が出入りしにくい悪立地であった。現在でも酒販免許は「販売場ごと」に取得する必要があり、その場所でしか営業ができない。免許取得が規制されていた当時は、出店場所を選ぶことは基本的にできなかった。

お客さんが車で来られないなら、直接届けるしかないと、近隣の有料宅配を始めた。自転車だと商圏は1キロだろうと、コンパスで地図に円を描くと近所の大きな団地の3分の1が圏外になってしまう。団地をすべて配達範囲にすると1.2キロになった。これがのちのカクヤスの「1.2キロ商圏モデル」の原型となった。

宅配を強みに事業拡大

カクヤスにとって大きなターニングポイントとなった出来事がある。2000年、それまでディスカウントストアで低価格戦略をとっていたのを、より「宅配」の付加価値を高めた戦略に転換させたことだ。

きっかけは、佐藤社長の「このままではカクヤスは潰れる」という危機感だった。酒販業界を取り巻く環境は劇的な変化を見せていた。1つは、酒のマーケットが1996年をピークに縮小を始めたこと。ビールメーカーは生産設備に巨額の投資をしているため、売り上げが落ちれば利益を確保するために販促費を削減する。酒販店もその煽りを受け、ディスカウント価格での販売ができなくなった。

2つ目は、酒販免許の規制緩和が1998年に閣議決定されたことだ。1938年に酒類販売が免許制度になって以降、距離基準や人口基準での強い規制により、免許発行が制限されてきたが、2003年の人口基準廃止で酒類小売業免許は原則自由化され、大手スーパーやコンビニが参入してくることになった。

低価格戦略が取れない中、スーパーやコンビニにどうやったら勝てるのか。考えた末に思いついたのが「宅配」。だが、普通の宅配ではすぐにまねをされてしまう。スーパーやコンビニが大手運送会社とタッグを組めば勝つことができない。

他社がまねをできない宅配として編み出したのが、「23区内どこでも」「2時間以内で」「1本から」「無料で」配送する、というサービスだった。わかりやすさにもこだわり、「我が家はエリア内なのか、いくら頼めばタダなのかなど、お客さまにとっての“バリア”はすべて取り除いた」(佐藤社長)。


早くから物流に着目した佐藤社長。ユーザー目線を持ち、数字にも強い(写真:筆者撮影)

実現するためにはどうすればいいか。再び地図を広げた。各店舗の配達圏を半径1.2キロメートルとすると、東京23区の面積をカバーするには137店舗が必要になる。一般企業のオフィスや住宅のない臨海部や皇居などを除けば必要なのは110店舗で、既存店舗から差し引けば80店舗ほど。規制緩和が始まる2003年までに23区内110店舗を達成する構想を打ち上げた。

しかし、計画どおりに事は運ばなかった。「一番つらかった」と佐藤社長が語るのは、日本経済がようやくバブル経済崩壊後の平成不況を脱却しようとしていた2003年。店舗が100を超えたが、68店舗が赤字続きの状態となっていたのだ。「価格戦略の場合はすぐに売り上げにつながるが、付加価値戦略はサービスを使ってもらわないと良さが理解されず、売り上げに結び付くのに時間がかかった」と、佐藤社長が振り返るように、出店間もない店舗は経営に苦しんでいた。

銀行にも新規融資を断られる厳しい状況になったが、「店がすべて完成してはじめて物流インフラが整う」という信念を貫いて計画を続行した。

「なんでも酒やカクヤス」という屋号には、「お客様の要望になんでもこたえたいという意味を込めている」(佐藤社長)

だが、当初の計画のまま店舗を増やしただけでは失敗に終わっていた可能性もあった。

「当初、店舗からの宅配は家庭のみが対象だったが、若手社員の何気ない一言で飲食店への営業を開始した」(佐藤社長)。すると、当日注文分を当日配達するというニーズと合致し、業務用の売り上げが急増した。3年間で宅配の売り上げが2倍になり、2006年ついに黒字に転換した。その後も拡大を続け、2011年には売上高が1000億円を超えた。

カクヤスは、業務向けビジネス、家庭向けビジネスを臨機応変に成長させてきた。小さな町の酒屋から始まり、バブル期は景気拡大に乗って業務向けを拡大。バブル崩壊後はディスカウントストア価格で一般家庭をターゲットとし、東京23区構想では、一般家庭向けとして構築した物流網によって両方を急成長させた。

現在、家庭向けと業務用の割合は3:7。今後も景気や業界環境の変化に応じて、荒波を乗り越えていく考えだ。

ドライバー不足という逆風

宅配需要の増加を背景にしたドライバー不足、2017年6月の酒税法改正に基づく酒類の安売り規制、縮小し続ける酒類市場、EC大手の酒販参入など酒販業界を取り巻く環境は厳しいが、カクヤスは次の一手を打ち続ける。

2017年8月には、東京・大田区に平和島流通センターを開設。卸売業者からの納品を1カ所に集め、全店舗に自社配荷することでコストを抑えることに成功した。「東京23区の酒市場全体におけるシェアは現状15パーセント。さらに増やす余地はある」(佐藤社長)と語るように、主要エリアの拠点や倉庫を増やし、東京の物流網を充実させる。また、カクヤスは現在、上場を目指している。

町の酒屋から一気に業界トップに上り詰めたカクヤス。その理由はカクヤスが業界環境を予測し、大胆なビジョンを描いてきたことにある。加えて、ユーザー目線でサービスを作り出す「目利き」があったからではないだろうか。佐藤社長へのインタビューは、「居酒屋が22時ごろになると〜」「配達スタッフがお届けの際に〜」など、現場の映像が目に浮かぶような具体的なエピソードに富んでいた。当社の姿勢は、業界を広く俯瞰する目とともに、現場目線で顧客のニーズにこたえつづける姿勢の大切さを教えてくれる。