「第7回:ドミニク・チェンの醸され『発酵メディア』研究:明晰夢とアブダクション」の写真・リンク付きの記事はこちら


結果よりプロセスを注視するのは、なぜ?

ドミニク さて、トークも中盤に差しかかりました。次は何の話題で行きますか?

小倉 「すごく透明なコンテクスト」の話をしてもいいですか? ロラン・バルトの話なんですけど。

ドミニク どうぞどうぞ。

小倉 バルトは、死ぬ前にアカデミーフランセーズで「最後の講義」をしているのですが、それがめちゃめちゃ面白くて。「俺はもう批評するのは嫌だ」とか、「最期に、余生も長くないから小説を書きたい」って話をするんです。連続講義なんですけど、いかに自分が小説を書くかっていう方法論について話す講義にするみたいなこといって、毎週毎週やるんですが、言い訳しかしてないんです。「こういう理由で書けなかった」って。「俺は小説を描こうとしたけど、こういう理由で書けない」みたいなことを延々やって、で、死んじゃうんですよ、そのまま。

それを読んだとき、「小説なんて最初っから全然書く気がない」って思ったわけなんですけど、実はそうじゃなくて、ある種絶対にたどり着かないものを仮設のゴールとして、そこにずっとぐるぐる迂回し続けることによって出てくる無駄なプロセスみたいなもののなかに、バルト的に言うと「ゼロのエクリチュール」っていう、すごく透明なコンテクストみたいなものを見ようとしたんじゃないかって。

「なぜかヨーロッパの偉い人は、最期に東洋性に行き着く」のは、一応ゴールを立ててもいいけれど、それは仮説のもので、ひたすらそこへ向かうプロセスと、プロセスが進むにつれて変わって行く関係性を愛で続けるみたいな、そういうものに価値を見出すからなのかなって、ぼくは思うんですよね。

ドミニク 結果じゃなくて、プロセスを注視するようになる。

小倉 そうそうそう。

ドミニク その考え方で、先程チラッと言ったんですけど、ポジティヴコンピューティングというものの研究がつながるかもしれません。

小倉 それはどういうもの?

ドミニク 「日本的なウェルビーイングを促進する情報技術」を考えよう、という研究プロジェクトです。ウェルビーイングって何かというと、「幸福」という言葉の最新ヴァージョンなんですよ。幸福って言葉を使うことをやめて、ウェルビーイングという概念で考えようっていう。

どういうことかと言うと、「幸福」かどうかって、単線的な指標であり、状態なんです。つまり、「いま、幸福度何パーセント?」「50パーセントくらいかな」「日本は低いな」みたいな話なんですね。でも、結局GDPとの相関を探すような方法で「幸せですか?」みたいなことを聞いてまわっても、リアリティにたどり着けないということで、ウェルビーイングという考え方が出てきました。

これは何かというと「心がいい状態」とか、「人が潜在的な能力を発揮できているか」ということを、複数の指標で探る考え方なんです。いろんな理論がありますが、いちばん有名なものにポジティヴ心理学というものがあって、それだと、PERMAという5つの要素で人のウェルビーイングを測るんです。自分の会社でつくってきたサーヴィスでも人の心に触れているという実感を得たことで興味をもって、ウェルビーイングを高めるテクノロジーに関する本を翻訳したんですけど、それでまた、「心の状態をトップダウンで決めちゃっていいのか」っていう根源的な問いが出てきたんですね。

小倉 一応要素は複雑にしてみたけど、やっぱり事前にゲームのルール自体は規定されている。

ドミニク それも唯一神信仰っぽいなって。

小倉 「正解が決められてるじゃん!」と。

ドミニク そうなんです。ところが、ぼくの共同研究者たちが、振動スピーカーが付いた聴診器デヴァイスを2011年頃につくっていたんです。それを心臓に当てると、四角い箱が「ドクンドクン」と心音を響かせる。そこにヒントがあるんじゃないかと思ったんです。自分の心臓に聴診器を当ててこの箱を手に持つと、自分の心臓が外部化されて、それを手で握っているっていう不思議な感覚が生まれる。さらに、ぼくがヒラクさんの胸に聴診器を当てると、さらに不思議な感覚が…。

小倉 ちょっとエロい感じがしますね。

ドミニク 生々しいですよね。相手の心臓を握ってしまった、みたいな。

小倉 なるほど。

ドミニク もともとは、川口ゆいさんというダンサーが、心臓をテーマにパフォーマンスをつくりたいということで生まれた技術だったのですが、それを「心臓ピクニック」と名付け、いろいろなところでワークショップをやっていると、ただの振動する仕掛けなんだけど、とてもポジティヴでおもしろいフィードバックが参加者から来るんです。共通するのは「生きている実感」が生まれるということ。自分や他者の生命性を記号とか論理じゃなくて、直感としてわかる。

これをやってるときに、この四角い箱に意味を投影してるんですよね。いちばんおもしろいのが「電源を切るのが切ない」っていう。これは何がすごいかというと、技術がすごいんじゃなくて、そこに意味を投影してる人間の構造がすごいなって。それで、これをヒントにして、先程から言っている「日本という謎」を一緒に解き明かせないかということを考えているんです。

いわゆる近代的な西洋の考え方って、「個人が社会のなかでキリッと立っていて、それが最適化されることによって社会全体も最適化される」というものですよね。でも、心理学の研究でも、ポジティヴ心理学はアジア地域の人たちには西洋人ほど合わないという実験とかもあって、そこではもっと集団全体との関連性の中で自分のウェルビーイングが決まるのではないかという報告もされてるんです。さっき学会やアカデミアのことについて話したけど、近代の出版文化だと、キリっと屹立した個人が「俺はこう思う」って本を書いて、それを世に問うという形式で、それが引用されて次に繋がる。でも、たとえば…。

小倉 連歌?

ドミニク 連歌とかだともっとバイオロジカルですよね。連歌会で10数人で付句をしていくって、ぬか床的じゃないですか? ぬか床じゃなければ、TCAサイクルに近いっていうか。

小倉 ちなみにTCAサイクルはですね、生き物が呼吸をして食べ物と混ぜ合わせて、エネルギーを得るまでの化学式が果てしなくつながった代謝回路のこと。難しいですよね。

ドミニク 難しい(笑)。とにかく、意識や自我、そういうところも認知心理学の知見や新しい技術を使って、どんどん解像度が上がってきているんです。だから、無意識にどう働きかけられるかっていう話が、最近の科学の中ではホットトピックで、そこでは、いわゆる自我みたいなもので回ってる社会とは全然違う現実のつくられ方が議論されている。

現実のつくられ方というのは、その人のなかでどういう風に現実のイメージが生成されていたり、知覚されているのかという話ですね。そういうところまで科学の解像度が上がってきている背景があって、そこから心理学とインターフェースの研究を使いながら、より相互作用的な「心のいい状態」や、よりリアルなコミュニケーションや創造のモデルがわかるんじゃないかと考えてます。

菌たちは、不可視の連絡法をもっている

小倉 ぼくがデザイナーになったばかりのころ、宮城県の生物学の研究者たちと一緒に田んぼのフィールドワークをやりました。田んぼの生き物、微生物とかも含めて調査をしたのですが、とにかくいろいろなものが見つかりました。で、「生物多様性が高い」「生態系的にすごくいい感じになっている」っていう尺度は、どう測るかっていうディスカッションをした結果、「生物の種類が多ければ多いほど、最終的に生態系はいい方向に行くんじゃないか?」という着地になりました。これ、ドミニクさんの言うウェルビーイング的だなと思っていて。日本的ウェルビーイングかな…? 何と言えばいいんだろう。関係性が増えていくと、最終的には場に委ねていても何かポジティヴな状態が生まれてくるんじゃないかという感覚。

ドミニク なるほどね。そういえば松岡正剛さんは、日本は「シリコンヴァレー」じゃなくて「エンザイムヴァレー」を目指すべきだとおっしゃっていました。エンザイムとは酵素のことですが、その話の中で、「クオラムセンシング」という概念が出てきたんです。クオラムとは、もともとは古代ローマの議会における協議の仕方で、議決数の閾値に達するまで協議することを指しています。

ぬか床のような微生物がひしめくバイオ環境の中では、まさに微生物たちが連絡し合っていて、一定の閾値を超えると一気にドライヴする。菌たちは不可視の連絡法をもっていて、その連絡の結果として、ヒラクさんが言ったような共生だったり、また別の時にはある菌が支配的になったりする。そういう話があって、『謎床』の中では「どうやったら人間は微生物のクオラムセンシングのような連絡網を得られるんだろう」と問うていたりします。

人間社会のコミュニケーションは、いろいろ揉めたり誤解も生まれたりする。微生物たちの圧倒的な協議のスピードを見ていて、そこに学べるものがあるんじゃないかと。

小倉 そういうクオラムセンシング的な話は、いま微生物界の最新トピックスで、とりわけ人間の体中環境にまつわるトピックスのなかによく登場します。わかっていないことが本当にいっぱいあるから、「確実にこうで」という話はできないんですけど、人間が食べ物を食べて消化吸収して代謝をしていくっていうことが、人間だけじゃなく、お腹の中の微生物たちと共存しながらやっているってことがわかっていて、だから、ぼくたちが何かを食べるということは、自分の体を養っているのと同時に、お腹の中の微生物たちを養っていることなんです。

そうやってお腹の中と食べるというかたちでコミュニケーションを取ると、今度は微生物側からのフィードバックがくるわけですよ。「オレたちはこんなものを食べてえんだぞ!」という風に。だからお腹、腸を介して膨大な数の微生物たちとコール&レスポンスをしているわけです。そう考えると、自分はいま本当にりんごを食べたいのか、それは自分の脳で考えてる自由意志なのか?という話になってくるわけですね。

ひとつおもしろい話があります。ヨーロッパの人って、海藻を食べても食物繊維としてお腹には効くけれど、エネルギーはゲットしないでそのまま出ちゃうんです。それに対して日本人は、なぜか海藻を食べて、そこからエネルギーを吸収することができるんですよ。何でそんなことになったのかってことを、フランスの「ロストフ生物学研究所」という海洋生物学のチームが研究しています。彼らの出した仮説が、なかなか興味深い。

海苔やワカメなんかの表面には、海藻類を分解する微生物がたくさん付いています。で、加熱せずにそれらを食べた時に、その菌ごと食べることになるわけですね。体に取り込まれた微生物のうち、一部は腸の中まで行きついて、そこで何かしらの理由で人間の免疫システムの攻撃を免れて生き延びる。そして人間の腸内で海藻を分解し、エネルギーや栄養をつくるわけです。おそらく海藻の繊維を糖分なんかに分解するのでしょう。植物繊維というのは、糖分が連なった鎖みたいなものですから。

ここまででも結構すごい話じゃないですか。でも、このフランスのチームはさらにすごい仮説を出しているんです。海藻の消化吸収のメカニズムをさらに調べていくと、どうやらその海藻についていた微生物に助けてもらわずとも、日本人は海藻を分解する力があるらしいんですね。

なぜ、普通はそのまま体外に出てしまうものを吸収できるのか? その謎に対して彼らが出した仮説が「プレゼント」なんです。

ドミニク 機能をプレゼントしたってこと?

小倉 そう。海藻に付いていた微生物が、人間に消化機能をプレゼントした。正確に言えば、人間の腸内に住んでいる別の微生物に自分の酵素をプレゼントし、その結果日本人の消化吸収機能に海藻から栄養をゲットする能力が追加された。

ドミニク ミトコンドリアみたいに共生してるんじゃなくて、機能を遺すというのはおもしろいですね! エピジェネティクスよりも先にある、というか。体内の微生物たちの環境、つまり微生物叢マイクロバイオームですね。

ぼくたちの体重のうち、平均して1kgから1.5kgくらいは微生物が占めているし、 ぼくたちの体の中の微生物の数は、人間の細胞の数よりも多い。昨年秋にサンフランシスコへ行って、バイオテクノロジーの専門家の人たちとお話をしてきたんですけど、微生物という新しい謎が花開いてるんですよね。つまりは未開拓領域が広がっている。まだ よくわかってないんだけれども、たとえば肥満とマイクロバイオームが関係しているかもしれないということで、肥満体型の人の胃の中の一部を普通のマウスに移植したら、そのマウスも肥満になった。今度は痩せてる人のマイクロバイオームを太ったマウスに移植したらそのマウスが痩せた。今度は、痩せたマウスの一部を最初の肥満の人に移したら、その人が痩せた。そして重要なのが、この太ってる人と痩せてる人は双子なんです。だから遺伝子の働きではなくて、純粋にマイクロバイオームの働きによって、太っているまたは痩せているという形質が決まったのではないか、という実験。

小倉 それは、人間の体の中のぬか床の発見ですよね。

ドミニク そう、ぬか床みたい。だからぬか床っていうのは、一種のマイクロバイオームの外在化の方法なんじゃないかっていう気がしてきましたね。さっき話した心臓ピクニックは、心臓を外在化するツールなんです。心臓と呼吸の研究もやっているんだけれども、心臓と呼吸が異なるのは、呼吸ってある程度コントロールできる点なんです。地球上で息をコントロールできる生物ってすごく限られていて、歌を歌うとか、言葉を分節化するほど高度なことができるのは人間くらいなんです。

心臓っていうのは、呼吸とも関連はしているんだけども、自律神経系や情動系といって、人間がたとえばいまからBPMを30上げますとか、そういう意識的な操作はできないものですよね。たとえば100m走ることによって心拍を上げることはできるけれど、スタティックな状態で操作することはできない。つまりそこには、無意識の現れというもののがすごく顕在化していて、だから謎の病気とかが多かったりする。たとえば、自律神経失調症とかね。

あと最近多いのが、過敏性腸症候群といって、胃がいきなり痛くなるけど理由が分からないというもので、若い人を中心に増えてるらしい。先日お医者さんと話していて、いろいろなことを試すんだけれど、まだこれが効くということがわかっていないそうです。まだ可能性の話ですが、もしかしたら心臓ピクニックが治療に使えるかもしれない、というお医者さんの意見があって。それだけ心臓というのは、ぼくたちが意識的には気づけない、いろいろな無意識とか情動の状態を表してるんじゃないかっていう。

外在化した心臓を手にすることで、データ的に数値化したりグラフ化したりした、意識で処理する情報ではなく、いわゆるハプティック、触覚的な情報として受け止めると、意識にいく前に情動系のレヴェルで意味を受容しているのかもしれないですね。

それと同じ意味で、もしかしたらぬか床も、体内のもう一つの謎の生態系であるマイクロバイオームの、外在化ツールなのかもしれない。ぬか床を触ることによって、体内のマイクロバイオームをより直感的に観想できるというか、親近感が湧くというか。どうなっているのかが、少しわかってくるような体験をしますよね。

小倉 それは頭でわかってくるようなことじゃなくて…。

ドミニク ハプティックにわかること。ヒラクさんは本の中で、交換・贈与経済って言葉を見事に文化人類学の理論と混ぜ合わせて説明してますよね。ぼくらは乳酸菌とか酵母たちにいい環境を整えてあげることによって、彼らは彼らで勝手に生きてるんだけど、同時にぼくらに贈与を返してくれる。そこにはお互いに、ある種の功利性っていうものがちゃんとあるわけですね。

人間はやっぱり、完全な無目的性とか完全な瞑想とか完全な解脱というのは、不可能だと思うんです。100パーセントそうなっちゃっても、生きていけないというような悲壮感がある。でも、ぬか床っていうのは、瞑想よりも遥かに簡単にできるし、しかもそれによってマインドフルネスだけじゃなくて、ボディフルネスにも影響するんじゃないかと。体との会話のインターフェイスとして、発酵食品づくりという行為は、想像以上に役立つんじゃないかなって思います。

トーク終了後には、森本桃世による、さつまいもと米からつくられた「ミキ」というお酒が振る舞われた。

帰納、演繹、アブダクション

小倉 さぁ、ぼくたち2人の話はこれぐらいにして、会場からの質問受け付けてみましょう!

質問者A ドミニクさんにお聞きします。『謎床』のなかで、松岡正剛さんと夢の話をされていましたよね?

小倉 あ! ぼくもそこ聞きたかった。

質問者A 「夢って意識と無意識の間みたいな状態で、面白いよね」という話を、松岡さんとドミニクさんがされていたと思うのですが、今日の文脈でその話をもっとしていただけたらと思います。

ドミニク 発酵と夢ですか…。

小倉 難しいお題ですね。

ドミニク この本は『思考が発酵する編集術』、というサブタイトルをつけているのですが、それはつまり、意識で処理できる情報とか知識とか記憶というもので行き着ける限界があるんじゃないか、ということなんです。体内で起こっているいろいろな発酵現象だったり、微生物たちの作用による代謝だったり、マイクロバイオームだったりが、われわれの在り方や形質や考え方や欲求といったことに作用してるのと同じように、情報や思考や感性も、醸成させるのではないか、という。

大量の情報が身体に蓄積して、発酵的に醸成させるプロセスがあるのではないかと考えてるわけです。その意味でいうと、夢というのは、無意識や情動系が発酵中の情報を勝手にミックスしたりしてるモードなのではないか思っています。ぼく、結構夢好きで、子どものころにすごく夢日記をつけてましたね。

小倉 明晰夢を見るんですよね。

ドミニク そうなんです。要は眠りが浅いだけなのですが、いまでも毎晩夢を見るんです。で、それを自分で記録していると、明晰夢が見られるようになる。明晰夢というのは、夢を見ていると自覚しながら夢を見ることなんです。これは個人差があるし、科学的に確立されていないメソッドなので、絶対そうだとは言えないんですけどね。

夢の中の自分を把握する、ウォッチすることをもしかしたら30年くらいやってるのかもしれないですけど、そのときに何が起こっているのかというと、普通に意識が働いているときに結びつけない記憶やクオリアを強引に結びつけて、その要素同士が衝突したときに変なものとして夢の中に現れてるんだと、ぼくは想像するんです。だから、夢の中でしか見たことないけど、現実以上にリアルでマテリアルな感覚があるんですね。

夢と向きあうということは、先程の体内環境の外部化としてのぬか床という話に近くて、自分の無意識が、自分の気づけないバックグラウンドモードでの考え方というものをつくっている現場を、垣間見るようなことなのではないかと思っています。

小倉 夢といえば、「ラクトバチルス・ロイテリ」という菌を摂取すると、赤ちゃんの夜泣きが止むという研究レポートがあります。

ドミニク すごいですね。

小倉 悪夢を何とかしたかったら、ラクトバチルス・ロイテリの入ってるヨーグルトを食べるといいかもしれません(笑)。まあそれは余談として、ぼくが『発酵文化人類学』を書いたときに、記憶が飛んでわけわからない状態で書いていた、という話をしたいと思います。実は、ぼくの本とドミニクさん&松岡さんの『謎床』には、サイバネティクスの研究者にして人類学者という、非常に越境的な研究者であるグレゴリー・ベイトソンが、共通して出てきます。ぼくはベイトソンが提唱していた「アブダクション」という方法論を意識しながら本を書いていました。

科学的な思考方法って、データを積み上げて結論にいたる「帰納法」と、立てた仮説に基づいてデータを積み上げていく「演繹法」のどちらかで行うのが通常です。しかしベイトソンは、それらとは違う第3のやり方としてアブダクションをつくる。ひとことで言えば「お話をつくる」ということです。

普通は繋がらないもののなかに関連性を見い出して、異なる2つのものをブリッジするお話をつくっていくような感覚です。ぼくの本の中では「ほんとはこんなの繋がるはずないだろ!」というお話がたくさんあります。生物学的なトピックスと文化人類学的なトピックスがアブダクションによって重ね合わされていく。こういうブリッジ作業をしていた時に、自分は夢を見ているような状態だったのかもしれません。

ドミニク アブダクションが起こってたのか。

小倉 意識がハッキリしているときではつながらないはずのものが、なぜかつながってしまう。あるはずの境界が溶けていって、異質なものが結合されてしまう。そんなことあるはずがないのに、なぜかごく自然に思えてしまう…という瞬間が何度もありました。それはいったいどういうことなのかわからなかったんですけど、夢を見ている感覚に近いのかなと。

ドミニク ほんと、『発酵文化人類学』はそういうところが面白い。クロード・レヴィ=ストロースのブリコラージュの話と発酵文化を結びつけるところとか、経済のサイクルの話とATPのエネルギーの交換について語っている箇所とか、神がかってるんですよ(笑)。それはやっぱりアブダクションが降りてたの?

小倉 ぬか床的な感じで、アブダクションの神が降りていたのかもしれません。

ドミニク あと、Twitterで「昨日京都で安田さんと対談をしていて、時間感覚がわかんなくなって、何時間話してたとか、誰が何をいったかわかんない」って書いていたけれど、ぼくも安田(登)さんと「寺子屋」というイヴェントで話していた時に、2時間くらいぶっ通しで話してたんだけど、そんな感じでしたね。能の舞台を見ている時にも通じるかも。その感覚と似てるのかもしれないね。

小倉 それはきっとぬか床を「まぜまぜ」してる感覚だと思うんですよ。そして2人で夢を見てる。

ドミニク 同期してる!

小倉 京都で安田さんと話している途中、だんだん女子高生みたいになってくる。舞台上でいい年したおじさん2人がキャッキャウフフしているわけですが(笑)、それと同じような感覚が今日のドミニクさんの話にもあって、とても不思議な感覚です。ドミニクさんが松岡さんと13時間も話し続けられたのは、おそらく不思議なシンクロニシティが、夢のような世界のなかで繰り広げられていたのではないでしょうか?

ドミニク そうですね、自分で言うのも変なんですが、いまも『謎床』を読み返してて、「こんなこと言ったっけ?」とか、「あっ、これは面白いな松岡さん」っていう、その場にいて聞いてたのに今更もう一回読み直して「なるほどね!」と改めて思うことが多いんです。情報とか考え方って、受け取るタイミングがものすごく重要だと思っていて、一生を通して一回インストールして終わりっていう知識はないと思っています。たとえば一回忘れ去って、忘れ去ることによって本当に体得するっていう。武術の世界なんて、そうでしょう。

小倉 中島敦の小説に出てくる、中国の弓矢の名人の話ですね。弓矢の名人になろうと思って、とことんまで極めていったら最終的に弓を打つことを忘れたという(笑)。でもその瞬間に、彼は最強の弓の使い手になっているというお話です。

ドミニク 剣にしてもね、無刀の境地みたいなことを言いますね。それで言ったら、言語を無くす状態というのは、夢を見るとかアブダクションの状態だと思うので、もしかしたら今後科学っていうのはそういうところで、よりよくアブダクションを起こしやすくする方向を模索するのかもしれない。とはいえ、ずっとアブダクションしてたら危ないよね(苦笑)。

小倉 危ないですね。なのでそれは適切に制御していく…。

ドミニク そうだね。だから古来からそういうメソッドって、たとえばドラッグとか、すごい祭典、狂った祭とか…。

小倉 サンバカーニバルとか岸和田だんじりとか…。

ドミニク 諏訪の御柱とかね。限定的に荒々しい時間をつくるという方法ですけど、もっと日常生活のなかで、それこそバイオテクノロジーとか人工知能を使うことによって、そういうところへアクセスしやすくできたら、もっと持続性をもたせられるかもしれない。

小倉 さっきのスケーラビリティのハードルを超えられるってことですね。

ドミニク そうそう。御柱祭で人が亡くなってしまうってことが起こりますが、すごく荒々しい祭りですよね。そのことを「人が死んでしまうのはよくない」とか、外部から一面的に判断するのが難しい点があるのだけれども、まさに死なずに、生き延びながら、同質の体験ができたらいいのかもしれない。さっきヒラクさんが言っていた、いろんな菌が共生しながら一緒に生きていけるみたいな、そういうカタチでベイトソンの夢見たアブダクションを常態化させられたら、もっと面白い世の中になるのかなと思うんですね。

トーク終了後は、数々の発酵食品の試食会・試飲会が催された。写真は天然酵母パンの有名店パラダイスアレイ特製の「謎パン」。

誤読や誤解には価値がある

小倉 もうお一人いらっしゃいましたね、質問受け付けましょう。

質問者B 本日はありがとうございました。いまいちばん興味をもっている、人工知能とかシンギュラリティについてのお話を聞きたいです。シンギュラリティについて、レイ・カーツワイルが第3次元第4次元第5次元…と、どんどん次の段階へ進んでいくと言っています。たとえばコグニティヴに脳が繋って、最後には「宇宙と一体化する」みたいなことまで言っているじゃないですか。それって、結局時間とか意識とかっていうものの垣根がなくなって、個人の垣根がなくなっていくような未来が…。

ドミニク 本当にやってくるか、みたいな?

質問者B あるいはそういうものがすでに実現しているのか…。

ドミニク ぼくは、そういうテクノロジーによる人間の進化論みたいな最近のシリコンヴァレーの風潮に対して、一神教を人工的につくったみたいな感じというか、もしくは逆に遠回りしてる感覚をもちます。なぜかというと、いまの情報技術の思想で人間が進化しようとしている方向には、結構懐疑的だからです。すごく単純に言うと、情報技術のコミュニケーションの進化の理論的な終着点というのは、生物間のコミュニケーションに限っていうと、神経接続というシナリオが最終形態として語られています。『攻殻機動隊』に出てくるような、異なる脳同士を回線でつないじゃう、という。

小倉 完璧に思考が同期するモデルですね。

ドミニク そう、たとえば有線でヒラクさんの脳とぼくの脳をピッてつなぐと、ヒラクさんのクオリア、ヒラクさんの世界の感じ方がぼくの脳に逆流してくる。「あ、ヒラクさんってこういう風に見ているんだ、こういう風に感じているんだ」ってわかる。思考実験の考え方として、神経接続は以前からされてましたね。

ぼくは、人のコミュニケーションの行き着く先としての神経接続というのは、あまりに貧しいヴィジョンだと思っています。ヒラクさんがどう感じるかって知っちゃうことっていうのは、一周すると非常に貧しい体験なんです。ヒラクさんが感じたことをヒラクさん自身の言葉を使ったり、身体を使ったり、ジェスチャーを使ったり、すごいマルチモーダルに情報を発して、それをぼくは自分の身体という不完全な受容体を通して受け取って解釈する。その差分を生むプロセスの中にこそ意味性が生まれるのだと思います。言い換えると、イコールで繋げちゃうと何も謎が生まれないんですよ。「ああ、ヒラクさんってこういう人なんだ」で終わるみたいな。多分、会話が消滅する。

小倉 楽しいかどうかでいうと…。

ドミニク 楽しいかどうかもそうだし、新しい価値が生まれるかということにかかっているかと思います。誤読とか誤解というのは、新しい価値が生まれる原点であって、異なる何かと何かをイコールにするっていう神経接続の発想は結局、現代のコンピューティングの理論の拡張にすぎないと思うんですね。それは残念ながら、人間の、身体っていう構造物のなかで生きている人間というものがつくれる多様性とか豊かさとは程遠い世界だなって思います。

小倉 『発酵文化人類学』のなかの大事なキーワードとして「幸せな三角関係」という話を書きました。発酵食品におけるマーケットづくりにおいての話なんですが、もっと普遍的なコミュニケーションモデルでもあるかなと思っているんです。


『東京タラレバ娘』というマンガの4巻で、主人公の倫子さんが細マッチョの奥田くんと付き合うエピソードが出てきます。そこで注目したいのが2人の「座るポジション」です。倫子さんと奥田くんはいつもカウンターを通して向かい合うんですね。対面のポジションって、一見ちゃんと向かい合う関係性に見えるんですけど、実はハッピーになれないとぼくは思っています。相手と向かい合うほど、お互いを完璧に理解しようと躍起になり、お互い無限に要求を突きつけて苦しくなっていくっていうことを、現代女子の倫子さんは延々とやっている(笑)。

最終的に倫子さんは、KEYくんというモデルの男の子と付き合うことになるのですが、彼が登場するときは必ずヒロインの横に座っているんですよ。横に座って一緒に壁のメニューとかみながらお酒を飲んでいる。「向かい合う」のではなく「隣り合う」。お互いに見つめ合うんじゃなくて、一緒に同じものを見るわけです。カウンターには酒場の大将がいて、倫子さんとKEYくんが隣り合って、カウンター越しには大将がいて、という3角形になる。先程の「ぬか床まぜまぜウェルビーイング」の理論と一緒です。

ドミニク すごい分析だね(笑)。

小倉 ぼくはこの「向かい合うのではなく隣り合う関係」を、超イイ!と思っています。直線関係で向かい合っちゃうとハッピーになれなくて、自分とは異質な第3の要素を介してコミュニケーションが円滑に、ハッピーに回っていく。たとえば今日のトークイベントだって、ドミニクさんとぼくが隣り合って座って、その前には来てくれた「みなさん」がいるという3角形の関係性ができているでしょう? 

神経接続ってあまりにも直線的すぎて、そこにハッピーとかウェルビーイングはあるのでしょうか?と思ってしまいます。倫子さんと奥田くんみたいに苦しい関係性になっちゃうような気がするんですね。ドミニクさんと2人でぬか床をまぜまぜしている時に「なんかちょっとあったかいねぇ」なんてほっこりしている瞬間に、意識の外側に広がっているハプティックだったり夢のようだったりする世界も含めて、ドミニクさんとぼく、そして今日来てくれているみなさんと大事なものを分かち合っている、わかり合っている…。ぼくはそういうのがハッピー、ウェルビーイングだなと思っています。

ドミニク 向かい合う対話ではなく、同じ時間と空間に隣り合わせでまなざしを向ける「共話」に近い感覚かもしれないですね。ヒラクさんのおかげで、発酵とウェルビーイングがつながりました。今日はどうもありがとうございました!

※ 今回の対談を主催したBioClubとは、バイオテクノロジーの未来や新しい可能性について、研究者からアーティスト、一般市民までが分け隔てなく学び、議論できる場を目指す東京初のオープン・バイオ・コミュニティ。現在、週1回の定例ミーティングのほか、さまざまな領域のプロフェッショナルを招いたワークショップやMeetupイベントなど、活動の場を広げている。

今回の対談がきっかけとなり、ドミニク・チェンと小倉ヒラクは、新たな「発酵メディア研究」プロジェクトを進めることに。写真は、共にフランスを旅した際の一葉。リヨンのサンテックスの銅像前にて。