2005年4月25日に起きたJR福知山線の脱線事故(写真:ばんぷす / PIXTA)

2005年4月25日に発生した福知山線快速列車脱線転覆事故(尼崎事故)に対するJR西日本の歴代社長3人の刑事責任(業務上過失致死傷罪)が問われた事件の最高裁判決が、今年6月12日にあった。この裁判は、検察審査会による「起訴議決」により起訴されたものであるが、結果はいずれも無罪であった。

尼崎事故の重大な結果、浮かび上がった組織的な問題などもあり、裁判の行方が注目されたが、歴代社長が無罪となったことでいろいろな意見があると思われる。判決から約3カ月が経過したが、ここでは「起訴議決」の意味と、歴代社長の刑事責任について述べてみたい。

起訴議決で起訴された3社長


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人を刑事裁判にかけるかどうかは検察官(刑事訴訟法247条)の裁量に委ねられている(刑事訴訟法248条「起訴便宜主義」)。そのため検察官は犯罪の嫌疑がないと判断したときは起訴しないことができる。しかし、国民感情から見て不起訴が不当な事案もあることから、検察官の不起訴に対する検証手段として検察審査会という制度が設けられている。

尼崎事故に対するJR西日本の歴代社長3人に対しては、検察官が不起訴にしたものの、起訴議決に基づいて刑事裁判が開始された。

検察審査会では、検察官が不起訴とした事案について請求を受けて、有権者から選ばれた11人が不起訴の判断に問題がないかどうかを審査する。その結果、「不起訴相当」「不起訴不当」「起訴相当」の結論を出す。「不起訴不当」「起訴相当」とされると検察官は補充捜査などをして再度起訴するかどうか判断しなければならない。

このうち、起訴相当の判断がなされたにもかかわらず、検察官が再び不起訴の判断をした場合で、検察審査会の11人のうち8人以上が「起訴すべき」という判断(起訴議決)をした場合には、強制的に起訴されることになる。この場合、公判での訴追を担当するのは弁護士から選ばれた検察官役の「指定弁護士」である。もっとも、刑事事件の捜査の専門家たる検察官が捜査した結果不起訴としているため、当初から有罪を得るハードルが高いという見方もある。

尼崎事故は周知のとおり、制限速度を大きく超過して曲線に進入した快速列車が脱線・転覆し、運転士1人を含む107人が死亡し多数の乗客(判決では493人)が負傷した事案である。

裁判で指定弁護士は、尼崎駅構内の工事に付帯して事故現場の曲線半径がきつくなり(304m)、制限速度も厳しくなったところ、列車増発のなか運転士が定時運転を確保するために事故現場の手前まで制限時速に近い速度で走行する可能性が高まっており、運転士が適切な制動をせずに事故現場の曲線に進入した場合には脱線転覆の可能性が高まっていたとした。

そして、JR西日本では曲線半径450m未満の箇所にATS(自動列車停止装置・特に速度照査機能付きのもの)を整備しており、他社の曲線でも過去に速度超過による脱線転覆事故が複数発生していたことを挙げ、歴代社長にはATSを現場に整備するように指示すべき業務上の注意義務があったのにそれを怠り、列車を減速させることができずに事故を発生させたとした。

歴代社長の危険に対する認識については、「運転士がひとたび大幅な速度超過をすれば脱線転覆事故が発生する」という程度の危険性の認識があれば「結果を予見する可能性」があり、過失責任を問えると主張した。

最高裁はなぜ過失責任を否定したか

これに対し、最高裁は、歴代社長らの過失責任を否定した。最高裁は、尼崎事故以前の法令は曲線へのATS整備を義務づけていなかったことを指摘し、実務上も、尼崎事故以前に曲線にATSを自主的に整備していた鉄道事業者はJRで3社、民鉄113社中13社にとどまり、設置基準はまちまちであったことなどを理由に、事故当時曲線へのATS設置は一般的ではなかったと指摘した。

さらに、尼崎事故後に定められた規則では転覆危険率により尼崎事故現場の曲線はATS設置の対象になるものの、事故以前には他社でも転覆危険率による危険性の判別は行われておらず、JR西日本管内には半径300m以下の曲線は2000カ所以上存在しており珍しいものではなかったこと、尼崎事故の現場における転覆の危険性がほかの箇所に比べて高いという認識が社内で共有されたことはなかったことを指摘した。

そして、会社の職掌上、曲線へのATS設置は鉄道本部長の判断に委ねられ、社長らはその危険情報に接する機会が少なかったという事情の下では「運転士がひとたび大幅な速度超過をすれば脱線転覆事故が発生する」という程度の認識では、過失の根拠となる注意義務の発生根拠とすることはできず、歴代社長らが鉄道本部長に対してATSを尼崎事故の現場に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったとは言えないとして、無罪としたのである。

事故が起きたときの会社やトップの責任は、民事責任、刑事責任、行政上の責任、社会的責任、道義的責任などさまざまな責任が考えられる。

そのなかでも、国家権力が刑罰権を行使して人の自由や財産に対して厳しい制裁を科す刑事責任の認定については、やはり慎重かつ厳格にならざるをえない。尼崎事故時に事故現場のような曲線区間にATS設置をすることが法律上義務づけられていなかったなら、事故に対して社長らに刑事責任を科すことは、国家が刑罰により義務なきことを強制することになるからである。刑罰を科せられるのかどうか明確な基準がなければ、あるいは予測不能な刑罰が科せられることになれば、日々の行動の萎縮につながる。

無罪でも「責任」はある

もちろん、だからといって会社や役員の責任が軽くなるというものではない。

余裕のないダイヤ設定や「日勤教育」など組織上の問題も事故の遠因として指摘された尼崎事故では、間接的にではあれ、トップの意向が無理な回復運転につながり、尼崎事故を発生させたという側面も否定できない。

確かに、運転士が制限速度を守っていればATS設置の有無に関係なくそもそも事故は発生しなかったが、鉄道事業者として、列車の高速化や余裕のないダイヤ設定、厳しい線路配置をする以上は、その前提として速度超過による危険を回避する措置など十分な安全確保を行うべきであったともいえる。その点では少なくとも歴代社長や会社の社会的責任や道義的責任は免れないであろう。

刑事責任は、判決で示された刑を個人や法人自体が受け、刑が終わればそれで責任は果たしたことにはなる。しかし、社会的責任や道義的責任は刑事責任とは異なり、主体の面でも内容の面でも明確な範囲の限定があるわけではない。いつか社会の信用が回復されるまで永続する責任であるし、むしろ社会の信用が回復されても永続されなければならない責任である。

尼崎事故について歴代社長は無罪になったが、会社や現役員にはJR西日本のHPのトップページにあるように事故を風化させることなく「責任」を果たしていくことが望まれる。