1992年に始まった新日本プロレス恒例の1・4東京ドーム。四半世紀にわたる大会の歴史の中でも、一、二を争う最高のメインイベントと評されるのが、正月のドーム初進出の翌年となる'93年、SWS崩壊後の天龍源一郎が長州力に挑んだ一戦である。

 SWS旗揚げに対するバッシングは、昭和プロレスにおける黒歴史の一つと言えるだろう。
 「メガネスーパーの資本による新団体の設立は“金権プロレス”と批判を浴びましたが、今になってみればレスラーに高待遇を用意したことの何が悪いのか分からない。しかし、当時のファンの間には全日と新日による引き抜き合戦に辟易した記憶がまだ根強く残っており、それを焚きつけるような感情論でのSWS叩きを展開した週刊プロレスの影響は大きかった」(スポーツ紙記者)

 SWSへ移籍した選手たちを「金に釣られた」とののしった同誌のターザン山本編集長が、あとになって全日から裏金を受け取っていたと告白したのも、笑えない話ではある。
 「ただ、これもターザンが突出して金に汚かったというわけではなく、本人としては“もらって当然”ぐらいの気持ちだったのでは? なにせ記者会見や大会の取材に行けば、大入り袋で1000円、5000円と配られていた時代のことですから」(同)

 当時の記者のそれぞれが、大なり小なり団体からの恩恵にあずかっていたのだ。
 「全日の社長だったジャイアント馬場の意向を受けてSWSを叩いた癒着にしても、アングル作りや選手の引き抜きにまで関わっていた記者もいたわけで、つまりターザンはその真似をしただけとも言えます」(同)

 一方、叩かれたSWSの方も決して褒められたものではなかった。ただ楽に稼ぎたいというだけで、どんなプロレスをやりたいかという理想を欠く選手が少なからずいた。また、プロレス界で初の試みとなった部屋別制度の導入が派閥意識を生み、選手間の深刻な分裂を招く結果となった。
 それまでの実績から本来エース格であるべき天龍源一郎の独走を許さず、足を引っ張ろうという選手もいたという。
 また、その天龍にしても、全日時代にはジャンボ鶴田ら強者に挑む姿にファンは感情移入をしていたが、SWSでは格落ちの日本人、もしくはエンタメ色の濃いWWF勢を相手にすることで、どこか不完全燃焼の印象を持たれることになってしまった。
 結局、SWSは'90年9月のプレ旗揚げ戦から'92年6月のラストマッチまで、2年弱の活動期間をもって崩壊へと至る。だが、皮肉なことに、これが天龍のレスラー人生における好機となった。

 新団体のWARを旗揚げした天龍は、その直後から新日本プロレスとの団体対抗戦に討って出た。
 「巨大メジャー団体への挑戦は、まさに天龍にとっての真骨頂。天龍革命の復活は改めて熱心なファンの心をガッチリつかみ、また、この頃には鶴田が肝炎発症により長期欠場を決めていたことから、鶴田vs天龍の時代を懐かしむ層からの共感を得ることにもなりました」(プロレスライター)

 越中詩郎率いる平成維震軍との絡みから始まった抗争は、年を越した'93年1月4日の東京ドーム大会、メインイベントの長州力戦で一つのクライマックスを迎える。
 両者のシングルマッチは、最後の対戦から実に6年4カ月ぶり。ジャパンプロレス興行における、エプロンでのバックドロップによる長州リングアウト勝ちに始まって、全日では天龍が2度の反則勝ちを収めている。
 前年から始まった1・4東京ドームで、長州は藤波辰爾戦から2年連続のメインイベント出場。一方の天龍は前年暮れの大阪府立体育館、越中戦から2大会連続で新日ビッグマッチのメインを張ることになった。

 試合は両者ともに気迫を前面に出すゴツゴツとしたぶつかり合いで、最後は天龍がパワーボムで3カウントを奪った。
 「歴代1・4メインの中でもナンバーワンと称されるほどの名勝負。なにせ滅多なことで他人を褒めないアントニオ猪木が、試合後に『ありがとう! 素晴らしい試合!』と評したほどですから」(同)

 その後、天龍は新日において、橋本真也をはじめとする多くの選手との激戦を繰り広げ、一方ではインディー団体のリングでも大仁田厚や神取忍らと相まみえている。ハッスルではエンタメプロレスにもチャレンジした。
 「猪木や馬場はどこかプロレスラーであることに対して引け目を感じ、他の格闘技と比べてやたら優位を誇ったり、リングを下りればイメージとは程遠い絵画をたしなむなどしたのに対し、天龍はプロレスラーとしての矜持を持ち、どんな相手とでも自分のプロレスを表現してみせた。65歳の引退までメインを張り続けた、そんなレスラーは世界を見ても天龍以外にどれほどいるでしょう」(同)

 まさに“ミスタープロレス”として、現役生活を全うしたのである。