9月25日、ドイツにて第43回ベルリンマラソンが行なわれた。男子は、5000mと1万mの世界記録保持者であるケネニサ・ベケレ(エチオピア)が、マラソン世界記録にあと6秒まで迫る歴代2位の2時間03分03秒で初優勝。そして2位には、2013年大会を制したウィルソン・キプサング・キプロティチ(ケニア)が歴代4位タイとなる2時間03分13秒でゴール。好タイムが出やすいベルリンマラソンは、今年もすさまじいレースが繰り広げられた。

 思い返せば、ちょうど15年前の2001年9月30日――。このスピードコースで高橋尚子が2時間19分46秒をマークし、世界最高記録を叩き出した。1965年6月のイギリス・ウインザーマラソンで重松森雄が2時間12分00秒の世界記録を出して以来、実に36年ぶりの「日本人・世界記録保持者」となったのだ。

 15年前の取材ノートを見返してみて、彼女のすごさを改めて再確認した。

 当時の女子の世界最高記録は、テグラ・ロルーペ(ケニア)が1999年のベルリンマラソンで出した2時間20分43秒だった。そのロルーペも2001年の同大会に出場していたため、レースの出だしは速くなると予想され、高橋は最初の5kmを16分25秒で入る予定にしていた。

 ところが、ロルーペの調子が悪く17分24秒とペースが遅かったうえ、向かい風が強く16分46秒もかかってしまった。ここで高橋は、「最初は焦って、どこかで挽回しなければと思ったが、次の10kmでは上がったので、10秒差くらいなら何とかなるかなと思った」とのちに語ったように、10劼泙任16分25秒に上げ、15kmまでも16分22秒で走った。

 このベルリンマラソンで小出義雄監督は、単に世界最高記録を出すことだけを狙っていたわけではなく、もっと上の記録を目指していた。

「本当は5kmを16分25秒のペースで走り切って、2時間18分32秒を出すことを1年前から狙っていました。最初の5kmは向かい風で20秒ほど損をしたが、10kmまでを16分25秒に戻したので、『これなら2時間18分台はいけるかな』と思った。だが、でも、15〜20kmまでが16分39秒かかったので、そこからは2時間18分台をあきらめて、2時間20分を切るのを目標にした」(小出監督)

 高橋はその後、25kmまでを16分19秒で走ると、16分31秒(25〜30km)、16分26秒(30〜35km)、16分42秒(35〜40km)とラップを重ねた。そして「最後の2kmくらいはきつく、身体が動かなくなってしまった」と振り返るように、ラスト2.195kmは7分36秒かかったが、2時間19分46秒で世界記録を更新したのだった。

「今回は五輪でも世界選手権でもなく、人と争うというより自分のスピードの限界に挑戦するという気持ちで、世界記録へ向けてスタートしました。もう少し自分のペースで走れたら、いろいろなところであと30秒は縮められたかなと思いますが、ラストの2〜3kmが落ちてしまったので、あと1〜2分を縮められるようにこれから練習していきたい」

 レース後にそう話したあと、高橋は他の選手へ向けても、こういう言葉を口にした。

「走ることが怖くてチャレンジできない人もいるし、負けることが恥ずかしいとか、カッコ悪いと思って踏み出せない人はいっぱいいると思います。でも、負けることとか、負けても一生懸命やることが恥ずかしいことでは、絶対にないと思う。たとえ負けたとしても、何かに向かって全力でがんばることが、一番大事だと思います」

 高橋が強い口調でそう話したのち、2004年にはアテネ五輪代表を逃した渋井陽子がベルリンマラソンで2時間19分41秒(当時世界歴代4位)を出し、2005年にはアテネ五輪で優勝した野口みずきが同じベルリンで2時間19分12秒(当時世界歴代3位)を出している。当時の日本女子マラソンの強さというのは、高橋がいう「チャレンジし続ける選手」が次々に出現してきたからだ。

 高橋よりも以前、日本女子マラソンのレベルアップに先鞭(せんべん)をつけたのは、山下佐知子であり、有森裕子だろう。

 彼女たちが台頭してきた1980年代後半は、1985年にイングリッド・クリスチャンセン(ノルウェー)がロンドンマラソンで2時間21分06秒、ジョーン・ベノイト・サミュエルソン(アメリカ)がシカゴマラソンで2時間21分21秒を出して以来、記録の進化が止まっていた時代だった。そんな時期、1991年の世界選手権で山下が2位に入り、1992年のバルセロナ五輪で有森が銀メダルを獲得。暑さとも戦わなくてはいけない夏のマラソンで世界に通用することを証明し、選手たちに勇気を与えた。

 彼女らに続き、1993年の世界選手権では浅利純子が優勝して安部友恵が3位に入り、1996年のアトランタ五輪では有森が銅メダルを獲得。1997年の世界選手権でも鈴木博美が優勝し、女子マラソン選手の心のなかには、「日本で上位に入れば、世界のトップになれる」という思いが生まれた。そして指導者のなかでも、男子マラソンのノウハウを活用し、日本人女性の我慢強い特性を生かしてしっかり強化すれば、世界で活躍できるという自信を持つようにもなった。

 そのような時期に、初マラソンの舞台を踏んだのが高橋尚子だ。大学を卒業して小出監督に師事すると、1998年3月の名古屋国際女子マラソンで2時間25分48秒の日本最高記録を出して才能を開花。さらに同年12月、タイのバンコクで開催されたアジア大会では暑さもあるなかで最初から突っ走り、2時間21分47秒の驚異的な記録で優勝してみせた。

 この記録は当時の世界歴代5位だが、同年4月にロッテルダムマラソンでロルーペが男子選手と同走してマークした2時間20分47秒の世界記録と比較すると、気象条件に加え、女子だけのレースで、しかも最初から独走ということを考慮すれば、勝るとも劣らない快記録と言える。

 その結果、「2時間20分前後で走らなければ、五輪代表にはなれない」という危機感が日本の女子選手のなかに生まれた。また、それに挑戦するのが"常識"にまでなったのだ。

 その象徴ともいえるレースは、2000年11月21日に行なわれたシドニー五輪代表選考会の東京国際女子マラソンだろう。この大会には、1996年のアトランタ五輪を制したファツマ・ロバ(エチオピア)や、1992年のバルセロナ五輪金・1996年のアトランタ五輪銀のワレンティナ・エゴロワ(ロシア)も出場していた。

 それでも、そんな実力者を相手に臆(おく)することもなく、千葉真子は下り基調の最初の5kmを16分18秒でぶっ飛ばし、それを山口衛里が16分24秒で追いかける展開になる。さらに10kmまでは千葉が16分26秒、山口が16分22秒で走り、その後も両者は16分30秒台で走って競り合った。そして最後は、山口が独走態勢を作って30kmまで16分台を維持し、2時間22分12秒でゴールした。

 この記録は、女子だけのレースでは高橋に次ぐ世界歴代2位。山口がこれほど勇気を持って突っ込んでいけたのは、それだけの練習量をこなしているという自信があったからだ。

 日本の女子マラソン全盛期は、高橋の練習量がひとつの目標になり、小出監督を筆頭に、野口を育てた藤田信之監督、天満屋(山口衛里、坂本直子、中村友梨香、重友梨佐)の武富豊監督、三井住友海上(渋井陽子、土佐礼子)の鈴木秀夫監督など、実績ある監督たちが覇を競い合っていた。そんななかで選手たちも、「監督の言う練習をこなせるようになれば強くなれる」と信じ、コツコツと努力を重ねた。選手自身が意識レベルを高め合っていたからこそ、強い日本は続いたのだ。

 だが幸福な時代は、そうとは気づかぬうちに終わりを迎えていた。かつて男子マラソンでは、1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した森下広一がケガで走れなくなり、目標となる選手がいなくなったことで日本勢全体が一気に低迷した。それと同じように、女子も北京五輪直前の野口のケガと、その代役を果たす選手がいなかったことで、目標にする選手が不在となった。世界レベルの選手の存在と、その目標にチャレンジする若い選手たち。そんなサイクルによる底上げが絶たれたことが、今の日本マラソンの弱体化を招いたと言えるだろう。

折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi