アンチドロップアウト 第3章 vol.8 part3

「家に戻ると、新潟から帰った彼がリビングのソファに横たわっていたんですけど、"死んでいるんじゃないか"って心配しました」

 小澤の妻である明子夫人は、いつもは快活で明るい表情を曇らせて当時を振り返っている。

「漫画やドラマで、魂が本体から離脱する、みたいなシーンがあるじゃないですか? あれを思い出しました。生気を失って横たわる彼を目の当たりにして、一人で頑張っていたんだな、と痛感しましたね。

 夫は単身赴任で2年近く戦っていました。二人の娘が学校が休みの時には新潟を訪ね、できる限り長く滞在できるようにはしていたし、冷凍で作りおける手料理をたくさんタッパに詰めておいたりもしたんですが。そんなの焼け石に水だったんでしょうね。パラグアイでは本当にいつも家族全員一緒で四六時中会話をしていたので、寂しかったんだと思います。"しばらくは今のパパに愛情を注いであげないといけない"と心に決めました」

 その口調に女性らしい潔(いさぎよ)さと慈(いつく)しみが滲み出る。

「次の所属先が決まっていないことに関しては、不安がなかったといえば嘘になります。でも、"このまんま離れていたらダメになる"という焦りの方が強かったですね。夫婦といっても他人なわけじゃないですか? だから、世間では夫が稼げなくなると離婚するなんてこともたくさんあると思うんですよ。でも、私は性格的に逆境に燃えるんです! こんちくしょう、って頑張りたい。苦しいときにこそ笑いたいんです。

 ただそう思っていても、まだ本心を言えない部分はあったんでしょうね」

 2013年6月末、すでに蒸し暑さが忍び寄っていた日だった。小4と小6の娘を学校に送り出し、ランチを二人で食べるのが日課となっていた夫婦は、外食に出かけることにした。選んだのは、良い評判を聞いていた韓国料理レストランだった。オーダーを済ませると、夫が切り出した。

「ジムのインストラクターでもしようと思っている。少しはお金を家に入れないといけない。貯金を切り崩すだけでは」

 誠実な夫は、数ヵ月収入がなかったことに一種の罪悪感を感じていた。24時間の中で空いた時間を、家族のために活用したかった。以前に一度、妻に軽く相談したときは、「サッカー選手としてのトレーニングに集中するべき」と一蹴されていた。改めて、夫は食い下がった。

 しかし妻はやはり承服できず、ランチセットのデザートが来る頃には二人は言葉少なになったという。

 自宅に戻ってから、再度、その話題となって会話は次第に熱を帯びていった。真夏でもエアコンをつけないことが多いので、家の窓は基本的に開け放っているのだが、妻が気を遣って締めた。選手であることに執着するべきなのか、副業を持つべきなのか、家族の今と将来をどう考えているのか。会話のトーンは上がったが、内容は平行線を辿った。

「家族をここまで振り回して、今の気持ちのままではサッカーにも携わっていけない」

 思い悩む様子で夫は絞り出すように言った。

 その言葉を聞いた妻は、唐突に不安に駆られたという。"このままではパパが、大好きなサッカーから一生離れることになるんじゃないか"。しかし何をどう言うべきか分からない。すでに語気は荒げていたが、思っていることは伝わっていないもどかしさがあった。それに抗議したくて声にならない声を上げ、妻はリビングの椅子を持ち上げていた。それを床に激しくたたきつけると、床には穴ぼこがくっきりと残った。

 夫はその光景に、"妻の人格を生きたまま壊してしまった"と感じたという。高校生の頃、父を病気で亡くした彼は、人が少しずつ死んでいく様子を目に焼き付けていたが、数分前まで普通に喋っていた妻が、突然ろれつも回らなくなる姿を目にするとは思っていなかった。
「パパは奇人なので、そのくらいしないと深いところで会話ができないんです」

 明子夫人は少し照れ臭そうな笑みを浮かべて説明している。

「お互い本心を探り合うところがあったんだと思います。私自身、彼が言うことに対して、考えているのと逆のことを口にしていたのかもしれません。つまり、"復帰したい"というパパに、私は"頑張って"と言いながら、心のどこかで半分諦めさせようとしていたんだと思います。でも私はそう思う一方、"サッカーを続けて欲しい"という思いがすごく強かった。パパはパパで、サッカー選手を続けたいという強い気持ちはありながらも、現状に不安を感じていたんでしょうね。

 だから私が暴れたのは、お互いの方向性が食い違っていたのを、どうにかして一つにしたかったんだと思います。

 妻としては、今の平穏を求めて、彼がずっとやってきたことを台無しにはしたくありませんでした。ジムのインストラクターの話が出たとき、私は"パパは真面目な人だからそれに一生懸命になっちゃう"と怖くなったんです。もちろん二人の娘を育てるのは、親の責任と思っていますよ。ただ私は、パパのゴールキーパーとしての覚悟を誰よりも感じているので、『期間を決めてくれたら、家族で一緒に頑張れる』と言いました。そこでようやく夫婦が同じ思いになれたんです」

 妻は品良く口角を上げて笑った。チーム探しの期限は、ひとまず2014年の年明けまでと決めた。

「二人の娘たちも心配して、『パパ、サッカーやめちゃうの?』って聞いてきますね。だから私は、『大丈夫。今、パパは毎日一生懸命、練習しているからね』って答えると、笑顔になってくれます。ゴールキーパーとして生きるパパの想いは娘たちに伝わっていますし、その生き様を何代もずっと伝えていって欲しい。たしかに今はチームもなくて、底辺ですよ。でも、私たち家族はこれ以上は絶対に落ちない。それにパパの覚悟は、他の人にも分かるはずだから。きっと」
(続く)

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki