悲劇の舞台裏で起きた
知られざる「真実」――うじきつよし編

1993年、日本代表は初のW杯出場が期待されていた。そのため、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌など、あらゆるメディアが注目し、アメリカW杯アジア最終予選の開催地、カタール・ドーハに取材陣を派遣した。そのテレビ関係者の中に、当時サッカー情報番組のMCを担当していたうじきつよしがいた。オフトジャパンの選手、スタッフとも親密な関係にあった彼もまた、「ドーハの悲劇」に深く関わり、人生を大きく変えられたひとりだった。

■ずっと見送ってくれていた
 ラモスの姿が忘れられない

 かつて、『Jリーグ A GOGO!!』(テレビ朝日系列/1993年4月〜1996年9月)というサッカー情報番組があった。MCを務めていたのは、1980年代に『子供ばんど』のボーカル&ギタリストとして一世を風靡した、ミュージシャンのうじきつよしだった。

 うじきは、サッカーについて詳しくはなかったが、番組を通して選手や解説者、サポーターらとの交流を深め、徐々にサッカーにのめり込んでいった。Jリーグや日本代表の試合など、現場に足を運ぶ機会も増え、1993年10月、アメリカW杯アジア最終予選の現地取材(カタール・ドーハ)に行ったのは、自然な流れだった。

「(1993年4月に始まった)W杯アジア1次予選で日本代表がすごく強くて、素晴らしい戦いを見せてくれて、そのあとにJリーグが開幕して、サッカー熱が一気に高まっていった。自分もその波に乗せられたっていうか、代表の勢いに引きつけられて(ドーハに)なだれ込んじゃった感じだよね(笑)。テレビ局はすべて来ていたし、本当にみんなが注目して、期待していた。

 だから、試合が始まる前までは、当然(W杯には)行ける気になっていましたよ。W杯は番組(『Jリーグ A GOGO!!』)でも取り上げるだろうから、『(1994年W杯開催地の)アメリカにはどうやって行こうか』なんて、計画を立てたりしていた。それに、あのときの選手たちはみんな、強気だったじゃないですか。『W杯には絶対行ける!』みたいなことを口にして。もちろん選手も僕らも、楽な戦いだとは思っていなかったけれども、現場にいたみんなが(W杯に)行ける気になっていたんじゃないかな」

 だが、うじきはドーハで日本が躍動するシーンを見ることはできなかった。初戦のサウジアラビア戦(0−0)、2戦目のイラン戦(1−2)を観戦したあと、日本で『Jリーグ A GOGO!!』に出演するため、帰国しなければならなかったのだ。

 2戦を終えて、日本は6チーム中、最下位。W杯出場のためには、一戦も負けられない状況に陥っていた。にもかかわらず、日本に戻らなければならないうじきは、いてもたってもいられなかった。

「テレビ解説で来ていたオカちゃん(岡田武史/現中国リーグ・杭州緑城監督)なんか、わりと気楽な立場でさ、僕がサポーターに頼まれた御守りをグラウンドに埋めていると、『うじき、(御守りの)効果あるの?』なんて茶化してきたりしていたんだけど、代表の選手、スタッフは、みんなが本当に必死だった。普段は冗談を言って僕らにも絡んでくるオフトが、ずっとムッとした表情をして緊張していた。今では考えられないけど、小倉さん(小倉純二/現協会名誉会長)とか、川淵さん(川淵三郎/現協会最高顧問)なんかもジャージを着て、練習中は汗を流して球拾いを手伝っていた。

 それだけに、イラン戦で負けたあとは、みんな、相当落ち込んでいた。そんなムードの中、自分は(日本に)帰らないといけない。それでもう、自分はじっとしていられなかった。選手たちになんとか『がんばれ』って、『僕らは日本で盛り上げるから』って伝えたくて、一緒に行動していた解説者のセルジオ(越後)さんに、『選手のところに行きませんか?』って言ったんですよ。セルジオさんも、選手たちに何か言いたそうだったし」

 うじきに誘われたセルジオは、最初は躊躇していた。しかし彼自身、落ち着かなかったのだろう、少し考えてから、うじきにこう言った。

「うじき、どうする? (選手の)ホテルに行くか?」

 うじきは間髪入れずに答えた。

「行こうよ。やっぱり"気持ち"を置いていかないと」

 そして、うじきは帰国する前の夜、セルジオと一緒に、選手たちが宿泊しているホテルに向かった。当時は厳しい規制もなく、ホテルのロビーに行けば、取材陣に対して選手のほうから話しかけてくることもあったが、その日はイランに負けたばかりで、さすがに選手たちの姿はなかった。セルジオがフロントから電話して、ラモス瑠偉(ヴェルディ川崎/現ビーチサッカー日本代表監督)を呼び出した。

 しばらくして、エレベータの扉が開き、ラモスが出てきた。すると、険しい表情を浮かべていたセルジオが、いきなりラモスに向かってポルトガル語でまくし立てた。対して、ラモスも凄まじい剣幕で言い返した。「ふたりが、すごい勢いで喋り続けていた」といううじきは、その横で呆然と立ち尽くしているしかなかったが、ふたりの言い合いがひと呼吸したところで、ラモスがうじきの顔を見た。

「元気?」

 ラモスは鬼の形相から一転、笑顔でそう言った。

 うじきは、「うん」と小さな声で答えた。そして、「これ、持ってきたからさ」と言って、手に持っていた袋の中から『マメカラ』(カラオケテープのマイク付き再生機)を取り出した。

「オレ、一曲、歌うよ」

 うじきは、そう言うとホテルのロビーで歌い始めた。

「『愛は勝つ』(シンガーソングライター・KANの曲。1990年代初めのヒットソング)を替え歌にして歌った。『ラモスの思いが叶う日は来る』『必ず最後に日本は勝つ』って。半分、いやほとんどかな......、ロビーに響き渡る声で、泣きながら歌っていた。今思うと、バカだなって思うけど(笑)、当時は熱かったんだよね。他のチームの選手が『なんだ、あいつ』みたいな顔をして見ていたんだけど、そんなの関係なかった。ただ、励まして帰るだけじゃ、ちょっとね......。何かを置いていかなきゃいけないっていう、必死の思いだったんですよ。ラモスにしてみれば、鬱陶しかっただろうけど、オフトの日本代表って、一緒に戦いたいというか、周りを熱くさせるというか、そんな気持ちにさせるチームだった」

 ラモスは黙ってうじきの歌を聴いていた。そして、最後まで聴き終えると、平静を装いながらも熱のこもった口調で、うじきにこう告げた。

「ありがとう。オレが(他の選手)みんなにも、歌って聞かせるよ。オレたちは大丈夫だ。オレたちに任せろ。おまえの分まで、オレは戦ってやる」

 うじきは涙で声が出なかった。ラモスの言葉が頼もしかった。自分がもう、心配する必要はないと思った。そのまま、セルジオと一緒にタクシーに乗ってホテルをあとにした。ふと振り向くと、ホテルの外まで見送ってくれたラモスがまだ立っていた。うじきは、その姿が忘れられないという。

「帰るとき、ラモスにマメカラの入った袋と、差し入れの入った袋を渡したんですけど、両足にアイシング用の氷をがっつりつけていたラモスが、両手に大きなビニール袋を下げて、ホテルの前でずっと立っていたんですよ。僕が振り返って挨拶しても、ホテルの中に入らないで、いつまでも見送ってくれていたんです。振り返っても、振り返っても......。あの姿は、今でもはっきりと覚えています」

■イラクの同点ゴールの瞬間から
 当時の記憶はまったくない

 帰国したうじきは、残り3試合を国立競技場の正面入口の前で見ていた。ポータブルの小さなテレビを配置して、サポーター仲間と観戦していた。

「日本のファンもみんな、家にじっとしていられなかったんでしょうね。それで、仲間内で国立に集まろうってことになって。北朝鮮戦は、20、30人ぐらいで見ていたかな。それが、韓国戦ではさらに増えて、最後のイラク戦のときは、200人以上は集まっていた。今なら、ツイッターやフェイスブックがあるから、すぐに集まると思うんですけど、当時はそんなものなかったですからね。口コミで広がったんでしょうね。とにかく(W杯出場が決まる)その瞬間をみんなで迎えたい、喜びを分かち合いたい、そういう思いがあったのかもしれませんね」

 イラク戦は、異常な状況だった。小さなテレビはふたつに増えていたものの、ふたつとも画面の大きさは10インチにも満たない。200人を超えるファンが集まっては、全員がテレビを見られるわけもない。点が入る度に歓声が沸き、怒号が飛んだ。

「ウォー!」

「どうした、何があった?」「どっちのゴールだ? 日本か? イラクか?」「日本だぁ!」「ウォー!」

「おい、見えねぇ〜ぞ!」「やめろ、押すな!」「静かにしろ!」

 小さなテレビの前に200人の人間が押し寄せて、そんなやりとりが続いた。日本がリードし、勝利の瞬間が近づいてくると、興奮度はさらに増していった。残り時間が少なくなるにつれて、泣き出すファンも出てきた。迎えた最後の場面。イラクのショートコーナーから同点ゴールが決まると、ほとんどのファンが状況を把握できていなかった。ただただ騒然としていた。

「引き分けでも(W杯に)いけるはずだ」「いや、行けない」「ちゃんと調べろ」......。

 騒然とする輪の中に、うじきはいなかった。イラクに同点ゴールを奪われた瞬間、いや、その前からの記憶がほとんどないという。

「最後のイラクのゴールは、覚えていないんですよね。試合が終わって、どうしていいのかわからなくて、気がついたら、国立の周りをウロウロと歩いていました。放心状態というか、何も考えられなかったんだと思います。だから、イラクの最後のゴールの記憶は、あとから見たテレビの映像なんですよ。あの瞬間はどうしていたんだろう......。本当に覚えていないんです」

 それからの数日間、うじきはすっかり落ち込んでいた。

「何日間は、お通夜みたいでした。もう絶望感だけでしたね。でも、僕には『Jリーグ A GOGO!!』という番組があった。そこでは、何とかして盛り上げなきゃいけないんです。何を喋ったらいいんだって、ずっと悩んでいましたね」

 そんなうじきを助けたのが、日本代表のサポーターである『ウルトラス』のメンバーだった。彼らは番組に出演すると、「これで日本は、W杯出場に向けて、本当の意味でスタートラインに立てた」「今回の予選で、はっきりと世界が見えた」と、前向きな発言を繰り返した。それは、負け惜しみでも、お世辞でも何でもなく、これから明るい未来が待っている、というまさに正当な評価だった。

「僕は、彼らの言葉にすごく救われました。未来に希望が持てるにようになって、『じゃあ、これからはJリーグを盛り上げなきゃいけない』『Jリーグで切磋琢磨して、次こそ世界へ行こう!』というムードになった。そして実際、日本はその後、輝かしい歴史を刻んでいった」

 1993年、激動のサッカー界に足を踏み入れたうじき。彼にとって、「ドーハの悲劇」とは何だったのだろうか。

「僕にとっては、サッカーそのものの"原点"ですね。あれから、サッカーが本当に好きになって、のめり込んでいった。それまでも、スポーツを見るのは好きだったけれども、決して熱くはなれなかった。必死に声援を送るファンに対しても、『他人がやっていることに、なんでそんなに熱くなれるんだろう』『自分がやったほうが面白いじゃん』って、さめた目で見ていました。それが、あのチームとの出会いから変わった。『オレは一緒に戦っているんだ』って平気で言えるようになったんですよね。完全にそういうDNAが体に染みついちゃいました。"悲劇"まで味わってしまったから、サッカーを見ながら、生きるの、死ぬのって騒いで、泣いて、叫んでいた。もう、単なるサッカー観戦じゃなくなっていっていましたよね。"ドーハ"での戦いは、魂がぶるぶると震える、そういう自分のスタートでした」

「ドーハの悲劇」以来、うじきはW杯予選、W杯本大会にも必ず足を運ぶようになった。その度に、数々の興奮を味わってきた。しかし、1993年10月に体感した、あの高ぶりを超える瞬間はなかったという。(文中敬称略)

うじきつよし
1957年9月18日生まれ。東京都出身。1980年代に人気を博した『子供ばんど』のボーカル&ギタリスト。同グループの活動休止後は、俳優、タレントとしても活躍。1993年4月にスタートしたサッカー情報番組『Jリーグ A GOGO!!』(テレビ朝日系列/1996年9月に終了)の初代MCを担当した(1994年9月まで)。現在は、スカパー!の『UEFA Champions League ハイライト』のMCを務める。

渡辺達也●文 text by Watanabe Tatsuya