現在、NHK総合の土曜ドラマスペシャルの枠で「負けて、勝つ〜戦後を創った男・吉田茂」が放映中(主演・渡辺謙、連続5回)。写真は東京・北の丸公園にひっそりと建つ吉田茂像。その右手には、外交官時代からの吉田のトレードマークともいうべきステッキが確認できる。

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日本の映画やテレビドラマで、存命中あるいはわりと最近まで生きていた人物の伝記、とりわけ政治家をとりあげたものというのは思いのほか少ない。アメリカでは「JFK」や「ニクソン」といった映画が撮られているけれども、彼らと同時代の日本の政治家である池田勇人や田中角栄を主人公にした伝記映画はおそらく存在しない。

実在の人物を主人公にした映像作品といえば、先月のロンドン五輪期間中、NHKのBSプレミアムで放映されたイギリス・BBC製作の「ロイヤル・スキャンダル〜エリザベス女王の苦悩〜」というドラマシリーズというのがまたすごかった。エリザベス女王を主人公としたこのシリーズ(ということにまず驚かされるが)、各時代ごとの政治家たちとの関係もばんばん出てくる。第3回では1980年代に当時のサッチャー首相と女王が外交政策をめぐって対立する様子が、首相を揶揄するような表現も交えつつ描かれていた。こういうのはちょっと日本では考えられない。

日本では現代の政界をあつかうにしても、山崎豊子の一連の映像化作品のように、モデルを仮名にするなどぼかして描くのがせいぜいである。まあ、国民性とか風土の違いといってしまえばそれまでではあるが。そもそも日本の政治家の人生を、はたしてハリウッド映画のようにエンターテインメントにまで昇華できるのかという問題もあるだろう。

そのなかにあって1983年に公開された映画「小説吉田学校」はなかなかの異色作であり、エンターテインメントとしても十分楽しめる作品だった。主人公である元首相・吉田茂ほかライバルの鳩山一郎、「吉田学校の優等生」と呼ばれた佐藤栄作や池田勇人など戦後史を彩る政治家たちがバンバン実名で出てくる。そこには公開当時まだ存命中だった田中角栄や中曾根康弘、宮澤喜一なども含まれた。

吉田役の森繁久彌も鳩山役の芦田伸介も、これまた風貌からして役にぴったりハマっていた。その後、原田芳雄とか角野卓造とかいろんな人が吉田茂を演じたわけだけれども、わたしのなかではやはり吉田茂=森繁久彌というイメージが圧倒的に強い。

それだけに渡辺謙がNHK総合のスペシャルドラマで吉田茂を演じると知ったときは驚いた。しかも脚本は坂元裕二だという。「東京ラブストーリー」や「それでも、生きてゆく」などといった民放のドラマで知られる坂元が、いったいどんなふうに吉田茂を、戦後史を描くのか。そして渡辺が吉田をどう演じるのか……そんな興味を抱きながら、そのドラマ、「負けて、勝つ〜戦後を創った男・吉田茂」の第1回(9月8日放映)を視聴した。

冒頭は監獄のシーン。不衛生な環境のなか体中を虫に刺されのたうちまわる吉田。戦時中、戦争の早期終結をはかったことを理由に原因で逮捕、収監されてしまったのだ。監獄はやがて米軍の爆撃に襲われるが、吉田は九死に一生を得る。

そのあとはこれまでの昭和モノのドラマではあまりなかったような、かなり踏み込んだ場面が続く。昭和20年8月14日に行なわれた昭和天皇による「終戦の詔勅」の録音風景(翌日、国民に向けラジオ放送される)が出てきたかと思えば、天皇と連合国軍最高司令官マッカーサーとの会見のシーンも出てくる。これまでNHKのドラマでは、昭和天皇が登場することはあっても顔まではっきり出すことはなかったはずで、おそらく本作が初めてのケースではないだろうか。天皇を演じるのは狂言師の大蔵千太郎だが、「終戦の詔勅」のセリフ回しも含めなかなか似ていた。

ほかにも、連合国軍(進駐軍)の日本上陸を前に、兵士による婦女暴行を防ぐため特殊慰安施設の設置が政府内で検討されるシーンにはドキッとさせられた。このとき施設の設置にかかわる役どころとして登場するのが、大蔵省の主税局長だった池田勇人(のち首相。演じるのは小市慢太郎)だ。池田はあるとき、同じ広島出身で吉田の側近である柴田達彦(永井大)を慰安施設へ連れてゆく。柴田はそこで、郷里のおさななじみの慶子(初音映莉子)が派手ないでたちで米兵の相手をする姿を目の当たりにし激昂する。これに対し池田は、「(彼女は)媚びてるんじゃない。勝手に戦争を始めて負けた男たちの尻拭いをしてるのだ。女のほうがよっぽど負けっぷりがよい」となだめるのだった。

池田が終戦後、実際にこのような仕事をしていたのかどうか、わたしは寡聞にして知らない。おそらくかなりフィクションも含まれているのだろうが、上記の場面からは敗戦のみじめさが十分に感じ取れる。また池田が国のため汚れ仕事を請け負う姿は、のちに吉田内閣で大蔵大臣となった彼が講和条約の準備のため訪米し奔走することへの伏線になっているように思われた。

さて、第1回は主に吉田と近衛文麿の関係を軸に描かれていた。劇中、野村萬斎の好演もあって近衛の存在感はきわだっており、この回を“近衛回”と呼びたくなるほどだ。近衛と吉田は、第一次世界大戦のパリ講和会議にいずれも全権団として参加していたことから知り合う。戦後にいたっても交流は続いていたが、近衛がマッカーサー(デヴィッド・モース)の命を受け憲法改正に乗り出したのに対し、幣原喜重郎内閣の外相となっていた吉田は現内閣での憲法改正の必要性を認めなかった。そのため両者のあいだに亀裂が入る。

やがて近衛は、首相在任中の戦争責任を問われ戦犯容疑で指名される。精根尽き果て病床についた近衛を見舞った吉田は、彼が逮捕から免れるよう入院をすすめるのだが、近衛はこれを断る。そして吉田に自分の果たせなかった日本再建の望みを託すのだった。近衛が自ら命を絶ったのはその直後のことである。

現実に吉田と近衛のあいだにこれほど深いつきあいがあったかはわからない。しかしドラマでこういうふうに男の友情物語として描くのはありだと思う。近衛邸を出る際、近衛が早まったりしないよう身の回りには注意したほうがいいと忠告する吉田に対し、千代子夫人(中嶋朋子)が「私はあの方が何をしようと止めるつもりはございません」と毅然と答える場面も印象的だった。

このドラマについて史実との違いをあげていけばきりがない。吉田茂がかっこよく描かれすぎじゃないか、というのはわたしもちょっと思った。たしかに身長180センチを超える渡辺が、160センチにも満たなかったという吉田を演じるのはやや違和感がある。とはいえ、それをいちいち指摘するのは野暮だろう。何しろ冒頭に「これは史実をもとにしたフィクションです」というテロップが掲げられているのだから。このドラマのキモは、史実にどれだけ忠実かということではなく、つくり手が史実をもとに物語をふくらませ、歴史からとりこぼされたものまで想像力によって描き出すことにこそあるはずだ(というか、それはあらゆる歴史ドラマにいえることだと思うが)。たとえば、吉田自身は積極的に語ることはなかったというその生い立ちについて、ドラマ中回想という形でことあるごとに触れらているのも、そんなつくり手の意欲の表れといえる。

明日(9月15日)放映予定の第2回では、いよいよ吉田の宿命のライバルである鳩山一郎(演じるのは金田明夫)が登場する。両者の関係がどんなふうに描かれるのか楽しみだ。(近藤正高)