「3度死んで2度蘇った」受刑者の足が溶け…遺体を蹴り続けた医務課長を襲った「直立死」の謎【刑務所の怪談】
怪談師・怪談作家として全国を歩き、実際に収監を経験した人々や刑務官を取材しながら“塀の中の実話怪談”を蒐集してきた正木信太郎氏。
その正木氏が聞き集めたエピソードをまとめたのが、書籍『刑務所怪談 刑務所で起きた身の毛がよだつ30の怪異』(彩図社)だ。
舞台となる施設や体験者の人物像はプライバシーに配慮してぼかされているが、語られる出来事の根幹は、確かな取材に基づいた事実だという。
第3回で正木氏が書き留めるのは、ある元刑務官が語った、いまは使われていない刑務所の医療病棟にまつわる怪異である。
深夜、誰もいないはずの廊下に、革靴の音が響く――。だが、受刑者に革靴は許されていないという。
※この記事は正木信太郎氏の書籍『刑務所怪談』(彩図社)より一部抜粋・構成。
ある刑務所には、病を抱えた受刑者を収容する医療病棟が設けられていた。
今は使われていないその棟に、足音の噂が残っている。
深夜、誰もいないはずの廊下に、革靴の踵(かかと)がリノリウム(※)の床を打つ音が響く。硬く、乾いた、迷いのない音だ。
※亜麻仁油など天然素材を使用した建材。床や天板などに用いられる。
巡回中の刑務官が振り返っても、誰もいない。廊下はまっすぐに長く伸びている。蛍光灯の間隔が広く、明かりの届かない場所が暗く沈んでいる。突き当たりまで目を凝らす。待っても、誰も姿を現さない。
そもそも受刑者たちは、薄いゴム底のサンダルか、裸足しか許されていない。刑務官が履く革靴は、施設内では管理者の証でもあった。受刑者が刑務所内でそれを手にすることは、生涯あり得ない。
だが足音は、確かな重みを持って廊下に響き続ける。立ち止まり、引き返し、しばらく沈黙したかと思えば逆方向へ遠ざかり、また戻る。規則的なようで不規則な、奇妙な徘徊だった。
一体、何が歩いているのか。
元刑務官のひとりが、そのいきさつを語っている。
話は、昭和40年代の前半まで遡る。
当時、その施設は病を抱えた受刑者が集められる場所だったが、医療刑務所というよりは隔離収容所と呼ぶ方がふさわしかった。設備は古く、冬は凍えるほど寒い。
刑務所はまだ、明治時代に制定された監獄法(※)で運営されていたのだ。
※刑務所や拘置所の運営に関する法律。受刑者の人権より秩序維持・拘禁を優先する内容。2005年の新法(現在の刑事収容施設法)制定に伴い、2007年に完全廃止。
元刑務官は、重い口を開いた。
「あの頃の塀の中は、治す場所じゃなかった。死なせる場所だったんだよ」
その施設に、佐々木さんという受刑者がいた。20代後半、痩せ型で、表向きは詐欺罪で収監されたということになっていた。だが、上司から本当の罪状を明かされていなかったという。
「俺はもう死んでいる」と訴えるように「あいつの刑期は、ただの詐欺にしては異常なほど長すぎた。本当は何をやらかしてここに来たのか……」
現場の刑務官たちがそう訝(いぶか)しんでも、詳しい事情を知る者は誰もおらず、本人も一切語ろうとしなかった。
ただ、入所時にひとつだけ異様なことがあった。所持品を没収される際、佐々木さんは革靴だけを手放そうとしなかったのだ。よく磨かれた、黒い革靴だった。担当の刑務官が無理やり引き剥がすと、声も上げず、ただその靴を目で追い続けた。後の休憩時間などに、同囚の者たちが興味本位でその執着の理由を尋ねても、曖昧に笑って話をはぐらかすばかりで、結局誰ひとりとしてその真相を知ることはできなかったという。
収監当初、佐々木さんは他の受刑者と変わらず、黙々と作業をこなしていた。
だが、しばらく経った頃から様子が変わり始める。作業中に突然手を止め、自分の胸に手を当て、じっと何かを確かめるような仕草を繰り返すようになったのだ。
やがて「俺はもう死んでいる」「心臓が動いていない」と訴えるようになり、作業を拒否して寝込むようになってしまう。
今にして振り返れば、これはコタール症候群と呼ばれる精神疾患だったのだろう、と元刑務官は語る。自分がすでに死んでいる、内臓が存在しない、肉体が腐敗しているなどと確信する重度の妄想性障害だ。
さらに、特定の物や順序への強烈なこだわりを持つ自閉スペクトラム症も併発していたのではないか、とも。収監前から革靴に何らかの執着があったのだろうが、自由の利かない閉鎖環境に置かれたことで、もともとあった傾向がより顕著に表れ、ついにはコタール症候群まで引き起こしてしまったのではないか――それが、長い歳月を経た末の推測だった。
冬に起きた二度の異変だが当時の刑務所においては、佐々木さんの訴えは、詐病――仮病で懲役をサボろうとする悪質な態度と断じられた。
仮病を見逃せば他の受刑者への示しがつかない。そうした組織の論理が、現場を支配していた。当時の医務課長はその論理に誰より忠実な男で、自らの診断を覆すことを、職務上の敗北と見なしていた。
「仮病の名人め。叩き直してやる」
課長は佐々木さんを懲罰房に放り込み、食事を減らし、時には警棒で殴りつけた。骸骨のように痩せ細っても、佐々木さんは訴えを変えなかった。ある日、自分の足を指してこう告げた。
「先生、もう歩けねえよ。足が腐って無くなっちまった」
もちろん、足はある。
医務課長は激昂し、脛(すね)を革靴で蹴り上げ、「あるだろうが!甘えるな!」と無理やり歩かせた。佐々木さんは無表情のまま、ズルリ、ズルリと足を引きずっていたという。
異変は、その冬に起きた。
一度目は、朝の点呼だった。呼吸停止、心停止。医務課長が死亡確認をし、遺体は地下の霊安室へ運ばれた。
だがその夜、霊安室の扉を叩く音が響いた。佐々木さんが生き返ったのだ。
「寒い。部屋に入れてくれ」
報告を受けた医務課長は、霊安室へ向かった。扉の前に立ち、しばらく無言だった。
やがて、裸足で冷たい床に立つ佐々木さんを一瞥(いちべつ)し、踵(きびす)を返した。担当の刑務官にひと言だけ告げた。
「独房へ戻せ」
二度目は、その3日後。
今度は死後硬直まで確認された。だが、検視官が到着してシーツをめくると、佐々木さんは目を開けてニタニタと笑っていた。
「……先生、まだ葬式は早えよ」
その場にいた全員が絶句する中、医務課長だけは表情を変えなかった。調書に走らせていた万年筆を止め、静かに、しかし確かめるように口を開いた。
「次は、私が直接確認する」
そして翌日。佐々木さんはついに動かなくなっていた。
長期間放置された死体の臭いが充満…医務課長はもう聴診器さえ当てなかった。
「死亡確認などいらん。今すぐ焼却場へ運べ。生き返るなら、焼いている最中に起きてもらえばいい」
元刑務官は同僚とふたりで、佐々木さんの寝ているベッドの両脇に立ち、遺体袋に入れるため、肩と足首を掴もうとした。
足首のあたりに手をかけた瞬間、妙な感触があった。あるはずの硬さが、そこにない。その瞬間だった。
ズブ、ズブズブズブ……ッ!
手の中で、重みが崩れた。
持ち上げた体が、雨水を吸って腐った土壁のように、形を保てずに決壊したのだ。
ボタボタボタッ!
シーツの上に、中身がこぼれ落ちた。内臓が。溶けた筋肉が。
それらは赤くなく、白濁した茶色いヘドロ状で、強烈な腐敗ガスと共にぶちまけられた。長期間放置された死体の臭いが、一瞬にして部屋に充満する。
「な、なんだこれは……」
全員が息を呑む中、視線は一点に固定されていた。
囚人服のズボン。
中身が崩れ落ちてペラペラになったそのズボンの、太ももから下が平らだったのだ。めくれ上がった裾からは、ドロドロの液体が垂れているだけで、足首はおろか、脛骨(けいこつ)さえ見当たらない。
切断されたのではない。まるで最初からそこになかったかのように、溶けて無くなっていた。
佐々木さんはずっと訴えていた。足が腐って無くなった、と。
その物体は泥のように袋に詰められ、即座に焼却された。公式記録には急性心不全とだけ記され、騒動は闇に葬られてしまった。
直立したまま死んだ医務課長元刑務官は、ふと思い出したように口を開いた。
「あの医務課長な、その一年後に当直室で死んだんだよ」
ひと呼吸置いた。
「変な死に方でな。部屋のど真ん中に、直立したまま死んでたんだ。倒れた形跡もなく、壁に寄りかかった様子もなく、ただそこに立っていた。司法解剖したら、内臓がグズグズに腐っていたそうだ。死後数時間じゃ、ありえない腐り方だって、検死官が首を傾げてたよ」
続けざま、声を可能な限り潜める。
「それでな、課長がいつも履いていた革靴が見当たらなかったんだ。当直室にも、どこを探しても、ついに出てこなかった」
しばらく間を置いてから、続けた。
「足音が聞こえるようになったのは、その頃からだよ。革靴の音でな」

