【逆説の日本史】歴史研究の最大の目的は「空気」「精神論」を的確に分析すること
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開III その1」をお届けする(第1502回)。
* * *
裕仁皇太子がヨーロッパ歴訪から帰国した一九二一年(大正10)九月三日の「未来」を先に語っておけば、この年の十一月四日、つまり僅か二か月後に原敬首相は東京駅駅頭で暗殺され、六十五年の生涯を終えることになる。在任中に暗殺された最初の総理大臣となってしまったわけだが、なぜそんなことになったのか? 当時の状況を分析整理していこう。
懸案の皇太子ヨーロッパ歴訪を成功させた原首相の頭にあったのは解決すべき複数の政治課題であり、その第一は裕仁皇太子を天皇の摂政(天皇代理)にすることであった。大正天皇(この時点では今上陛下)は子供のころに「脳膜炎」を患い、生涯病弱であった。この病気、最近は髄膜炎という。頭蓋骨と脳の間にあり脳を保護している膜が髄膜だが、そこにある脳脊髄液に細菌やウイルスが感染して炎症を起こす病気だ。命に関わることもある。
幸いにして天皇はこの病気を克服し、皇后との間に四男(皇太子、秩父宮、高松宮、三笠宮)をもうけたが、その後再び発病し療養生活に入った。こうしたことは秘匿するはずの政府も、あまりに病状が深刻なので途中経過を公表したことは以前述べたとおりだ。そうした「布石」を打っておかずに、いきなり皇太子が摂政を務めることになったと発表すれば、国内が動揺し混乱するからである。
天皇の病状は、とくにこの年になって悪化した。『昭和天皇実録 第三』(宮内庁編 東京書籍刊)のこの年の十一月二十二日の項目に、「天皇の御病状悪化」として次のような「まとめ」がある。
〈これより先、天皇は大正三、四年頃より御健康が次第に勝れず、七、八年頃よりは御歩行の困難、御発語の障碍、記憶力の衰退などが顕著となり、大正八年末頃よりは公式の出御はほとんど見合わせ専ら御静養に努められる。しかし、御回復の兆しは見えず、宮内省は大正九年三月三十日初めて御病状を公表し、以後七月二十四日、本年四月十九日、十月四日に御病状を公表する。(以下略)〉
こうした事情であるから、ふだんは「(摂政の設置は)天皇の大権を蔑ろにする」などと反対しそうな極右勢力も、もちろん皇室関係も元老からも反対の声は少なかった。反対意見と言っても、天皇が国事行為を行なえないのはあきらかだから、「摂政は大仰過ぎる。天皇代理でよいではないか」というものに過ぎなかった。ただ、これは言霊が潜在意識のなかにある日本人の性格からして、口には出さないが「もう天皇の命は長くないのだから、早めに引き継ぎを進めておいたほうがいい」という「危機管理意識」は当然あったろう。
こんなことを述べると、またぞろ歴史学者それも頑迷固陋な史料絶対主義者は「そんな史料は無い!(ゆえにそんな事実は無い!)」とうそぶくかもしれないので念のために言っておく。こうした人たちの妨害によって、いまだに日本人の歴史教育のなかに「日本人は言霊という信仰を持っている」という事実が反映されていない。しかし自分の身になって考えればわかることだが、日本人はどうしても縁起でも無いこと(起こって欲しくないこと)を、想定したり言及したりすることを避ける傾向にある。
もちろん、政府もその例外では無い。前にも引用させていただいたのだが、近代史を考察する際にきわめて重要な材料であるので、あらためて引用させていただきたい論評がある。それは、ほかならぬ本誌連載の大前研一「『ビジネス新大陸』の歩き方」第六百八十一回「さらば原発--夢も矜持もない電力業界に再稼働など任せられない」(『週刊ポスト』2019年12月6日号掲載)からである。
筆者は『原発再稼働「最後の条件」』(小学館刊)の著者として、自民党の国会議員や電力会社の担当者に対して原発で重大な事故が起きた時のアクシデント・マネジメント(事故対応)についてさまざまな提案を行なった。
〈ところが、彼らは「いざとなったら」という話ができない。たとえば「原発事故が起きた場合を想定して避難訓練などの予行演習をしなければならない」と提案したら、「そんなことを言ったら、お前は事故が起きると思っているのか、と地元の住民に突き上げられるから無理です」と拒否された。これはいわゆる「言霊」(言葉には霊的な力があり、発した言葉通りの結果が現われるとされる)の世界であり、その壁の前で自民党の国会議員は思考停止状態に陥っているのだ。
現在の原子力規制委員会も同様だ。(中略)いざとなったら、原子力規制委員会はかつての原子力安全・保安院と同じく機能しないだろう。原子力安全・保安院は自分たちが安全と認めた福島第一原発のメルトスルー(原子炉貫通※)を最後まで認めなかった。認めたら自分たちの落ち度になるからだ。
※核燃料がメルトダウン(炉心溶融)した上で圧力容器の底を破って格納容器に達すること。〉
この論評の掲載日付を見ていただきたい。これはたかだか七年前、つまり二十一世紀に入って書かれたものである。日本人には「言霊」という特有の「宗教」がある。それに縛られて多くの日本人は二十一世紀になっても社会的に合理的な判断ができない。すべては、そうした宗教があるということを歴史教育に組み込まなかった歴史学界の責任である。
私は三十年以上も前に、この言霊こそが日本人の合理的な判断を狂わせている、それを認識し対策を打つべきだと痛感し、著書を世に問うた。それが私のノンフィクション第一作『言霊』(祥伝社刊)である。これがすんなり受け入れられて歴史学界も認識をあらため、たとえば歴史教科書に言霊の存在を盛り込むようなことをしてくれれば、二十一世紀になっても「原発事故の避難訓練が実行不能」などというバカな事態には絶対ならなかっただろう。現在はさすがに、言霊に対する認識が高まり、避難訓練が実行可能になっているが。
歴史学界の多くの人々は私を異端視し排除しようとしたので、歴史教科書に言霊の問題は一切載っていない。それどころか。この『逆説の日本史』の愛読者はご存じのように、歴史学者のなかには「井沢元彦の歴史ノンフィクションはなんの価値も無い。早く推理作家に戻れ」などと公言する人物まで現われる始末である。いい加減に目を覚ませ、と言いたい。
「本音」を推測し分析する
この論評をこの時点で取り上げたのは、大正から昭和前期にかけての歴史を分析するにあたって言霊という要素は絶対に欠かせないものだからだ。すでに桂園時代のところでも述べたが、西園寺公望はあきらかに教育勅語を改定し憲法改正への道筋を開こうとしていた。だが、多くの歴史学者はそんなことを記した史料は無い、だからそんな事実も無い、という形で私の分析を否定する。
全然わかっていないのは、とくに公家階級出身の西園寺は「改定」とか「改正」などといった言葉を一切使えない、ということだ。それは、明治天皇の作ったものに「正すべき誤りがある」と認めたことになってしまう。それは不敬であり臣下として許されないことであるので、公的史料を見ようが個人的日記を見ようが、「改定」「改正」という言葉を西園寺が残すはずが無いのだ。
また、冒頭で述べた皇后の不安もそうだ。子供のころに病で死にかけ、いまは寝たきりになっている夫を見れば、ふつうの妻が思うことは「夫はもう長くない」であろう。しかし、言霊の世界ではそれを口にできない。「言えば起こる」からだ。妻ですらそうなのだから、臣下の立場ではなおさらそんな予測はできない。いや、予測できても口にはできない。当然書くこともできないから、史料には残らない。
だがこの時代の政府や皇族の動きを見れば、誰もがそう思っていたことがわかる。つまり、日本では史料に盲従するだけではダメで、心のなかに抱いている本音を推測し行動のなかで分析するのが有効で正しい歴史の解釈法である。史料が無ければそれに対応する事実は無い、という「史料絶対主義」は、言霊の無い西欧のような世界では通用するかもしれないが、日本ではそれを振りかざせばかえって歴史の真実を見誤ることになる。
もし、そんなことは無いと言うのなら、二十一世紀になっても、しかも福島第一原発事故で痛い目に遭ったにもかかわらず、世界中の国ならばどこでも実行可能な避難訓練がなぜ日本ではできなかったのか。その理由を合理的に説明できるというのか。言霊というファクターを考慮に入れてこそ、世界中どこの国でもあり得ない現象が説明できる。そして、二十一世紀の不可解な現象でもそうなのだから、当然それ以前の日本史ではそれ無しでは的確な分析などできるはずも無いのである。
ここで、毎年八月十五日を中心に熱心に繰り返されるテレビの終戦特集を思い浮かべていただきたい。そのなかに、しばしば登場する「総力戦研究所」がある。Google AIはこれについて、次のように回答してきた。
〈総力戦研究所は、太平洋戦争開戦直前の1940(昭和15)年に設立された、大日本帝国の内閣総理大臣直轄の調査・教育機関です。最大の功績として、日米開戦の4ヶ月前に「日本必敗」という正確なシミュレーション結果(机上演習)を導き出したことで知られています。
○横断的なエリートの結集:近代戦を「軍事だけでなく、経済・思想・外交などを網羅した総力戦」と捉え、陸海軍の枠を超えて近衛文麿首相直属の機関として設置されました。
若き精鋭の招集:各官庁の若手官僚、陸海軍の将校、新聞記者、民間企業(日本郵船や銀行など)から、平均年齢33歳前後の将来を嘱望されるエリートたち35名が集められました。
次世代リーダーの育成:欧米の国防大学をモデルに、大局的な国策を立案できる指導者を養成する教育訓練機関でもありました。
○昭和16年夏の「机上演習」と「日本必敗」の結論
1941(昭和16)年夏、所長の飯村穣陸軍中将のもと、研究生たちは「模擬内閣」を組織し、日米が開戦した場合のシミュレーション(社会システム・ゲーミング)を行いました。
政治、経済、資源、軍事などあらゆるファクトと膨大なデータを積み重ねて予測した結果、以下の結論に達しました。
・圧倒的な国力・物資の差
・輸送タンカーの撃沈による燃料(石油)の枯渇
・ソ連の参戦
・結論:日本必敗(日本は戦争に負ける。最後はソ連が参戦し、日本は破滅する)
このシミュレーションの経過と結果は、実際の太平洋戦争の推移とほぼ合致していました。
○黙殺された警告と歴史的教訓
1941年8月、この「日本必敗」の報告は近衛首相や東條英機陸相などの政府・軍首脳に直接報告されました。しかし、東條陸相は「これはあくまで机上の空論であり、戦というものは想定通りにいかない。精神力や意外な要素が勝敗を決めることもある」といった趣旨の発言をして彼らの意見を一蹴しました。結局、国家の最高意思決定層は客観的なデータや「都合の悪い真実」を無視し、そのわずか4ヶ月後の12月に真珠湾攻撃を行い、破滅的な戦争へと突き進んでいきました。(以下略)〉
長々と引用したが、なぜそうしなければいけなかったのか、読者のみなさんにはおわかりだろう。そして、これは第二次世界大戦で父母や兄弟姉妹や子供を亡くした方々にとっては、まさに聞き捨てならない事実だろう。ほかならぬ政府が実行したシミュレーションで日本は必ず負ける、破滅するという結論が出ていたのに、のちに総理大臣になり開戦を決断した東條英機はこれを無視したのである。
忘れてはいけないのは、この東條の決断を多くの国民が熱狂的に支持したことである。このAIの回答は、これは「空気や精神論に流され、組織が客観的なデータに基づく知性を失った教訓」であると結論付けているが、この「空気」あるいは「精神論」なるものを的確に分析していくことこそ歴史の研究の最大の目的であると私は思う。
そして、このなかに言霊の要素が入っていることもおわかりだろう。東條の感想は「縁起でも無いことを言うな、日本は必ず勝つ」だったはずだ。そして、二十一世紀にもなって「原発が事故を起こすなんて、縁起でも無いことはとても言えない」としか言えない人間は、東條そして彼を熱狂的に支持した国民を批判することなどできないし、歴史がまるでわかっていないと言えるだろう。
(第1503回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2026年9月25日・10月2日号
