墓を掘り起こし埋葬された死体をむさぼる…ヒグマが人肉に執着する「人喰い熊」に変身した"本当のキッカケ"
※本稿は、中山茂大『人喰い熊大国ニッポン』(小学館新書)の一部を再編集したものです。

■鉄道と「人喰い熊事件」の意外な関係
筆者が調べた限りでは、明治・大正期において、定山渓から千歳、苫小牧にかけての勇払原野一帯で、人喰い熊事件の記録はひとつもない。
その理由としては、札幌から室蘭に至る「札幌本道」(現在の国道36号線)が明治6年に早くも完成したこと、そして明治25年に開業した室蘭本線の影響が考えられる。特に室蘭本線は、夕張炭山の積み出し基地として室蘭港が整備されて以降、著しく重要性を増した。
〈1935(昭和10)年度の実績出炭量831.8万トンの内、道外輸送量は515.5万トン(62%)で、更にその94%の486.3万トンが室蘭と小樽の両港から積み出され、この両港の割合は室蘭の60%に対して小樽40%となっていた。室蘭はその位置から太平洋岸方面の輸送において有利であった〉(「石炭輸送のための室蘭駅における水陸連絡設備の推移に関する考察」高津俊司、内藤庸治 『土木史研究 論文集』vol.28 2009年)
■昭和初期から急増したクマの襲撃
室蘭から移出される石炭量は明治34年の39万1000トンから大正13年の206万6000トンと、5倍以上に増加した(前掲資料)。石炭積み出し港としての主役は、日本海側の小樽よりも東京にはるかに近い室蘭に取って代わろうとしていた。その結果、石炭貨車の往来が増加し、ヒグマの個体群は東西に分断された。
そして、まさにその時期、つまり昭和初期から、定山渓~苫小牧間で人喰い熊事件が続発し始めるのである。
最初の事件は大正14年に発生した。
四月三日、定山渓線滝の沢の工藤正勝(十四)が兄(十八)と裏山で遊んでいると、ガサガサ物音がするのでなんであろうと振り向いて見ると小熊二頭に続いて親熊が突如として現れた。兄は正勝に「うつぶせになれ」と命じ、自分は大木の根に首を突っ込んだが、熊はノコノコとうつぶせの正勝のところへ来て右手で頭や背中や耳を掻きむしり、正勝は数十ヶ所に傷を負って気絶してしまった。熊は今度は兄の方にかかり、大きな舌で顔面をベロリベロリと舐めたが、兄は知らぬ顔をしていたので命拾いをした(「北海タイムス」大正14年4月17日、『熊』犬飼哲夫 ぷやら新書、昭和38年、抄出)
■ベテラン猟師も恐れる危険な特徴
それから2カ月後、タケノコ採りに山に入った主婦が無惨な死を遂げた。
定山渓温泉地の樵夫(しょうふ)、有馬長作の妻トキ(四十一)は、六月十日午前十時頃、付近の女子供八人連れで裏山にタケノコ採りに入ったが、上手(かみて)に一頭のヒグマが現れた。一同は悲鳴をあげ、散り散りに逃げたが、トキはその場に気絶してしまった。その後、三歳、二十五貫(約九十四キロ)程度の赤毛の加害熊が射殺されたが、トキは臀部および右腕を喰い取られた無惨な死体となって発見された(「小樽新聞」大正14年6月13日、抄出)

定山渓のクマが〈昔から根性が悪い〉というのは『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』(砂沢クラ 福武文庫、1990年)に出てくるが、以下のベテラン猟師の発言にも同様の示唆が含まれる。
木村=(中略)面白いもので、その山によってクマの性質も違う。手稲山と定山渓のとでは違うように思う。毛色も真黒なのは体が大きくてのんびりしたところがあり、性質はおとなしい。赤毛は小型で、せいぜい二五〇キロぐらい止まりで、コセコセして遠歩きする(「札幌のクマ狩り名人の座談会」、『熊・クマ・羆(ひぐま)』林克巳 時事通信社、昭和46年)
定山渓はベテラン猟師も警戒するヒグマの危険地帯であった。
■21歳男性は右全半身を喰い尽くされ…
次に発生した人喰い熊事件は、13年が経過した昭和13年、同じ定山渓の豊羽(とよは)鉱山であった。
二十一日午後一時半頃、道路視察に赴いた道庁職員一行を案内した定山渓土木請負業、前花幸次郎(二一)、吉倉良太郎(三九)が、馬に乗って定山渓から約三里(約十二キロ)奥の薄別(うすべつ)大曲へさしかかったところ、巨熊が出現した。ヒグマは前花が逃げようとするのを狙って一目散に襲いかかった。翌日昼頃、前花は〈現場より二十間〔約三十六メートル〕を隔てた草むら中に、右全半身をほとんど喰い尽くされ、無残な死体となって埋没されていたのを発見された〉。加害熊は現場から約二キロ離れた地点で撃ち取られた。六歳のメスで六尺〔約一・八メートル〕、五十貫〔約百八十八キロ〕であった(「北海タイムス」昭和13年10月23日・24日・27日、抄出)
■加害熊は被害者を「エサ」と認識していた
別の資料によれば、
この熊は一カ月ほど前に、豊羽鉱山の入口の一の沢で射止め損なった手負いの熊だった。このときも、獰猛な奴で、銃口を向けると、猛然と猪進して来たということだった
とのことで、
あとから馬を走らせていた三人には目もくれず、傍らを通り抜けて、まっしぐらに最初に狙ったこの人を追いかけていったということである。(中略)熊獲り名人の談義によると、手負い熊は例外なく人間をみると襲いかかるし、いちど人間の味を覚えた熊はとことんまで執拗に人間に襲いかかると話していた(「中山峠と人食い熊 渡辺整」、『農業北海道』昭和三十四年十二月号)
遺体が「埋没されていた」ことや、前記名人談義からも、加害熊が被害者をエサと認識していたこと、そして以前にも人肉を喰った経験があった可能性が示唆されている。

この事件から4年後の昭和17年、今度は千歳市で事件が発生した。
千歳郡千歳町小山田ナミ子さん(一九)は去る十七日午後二時頃、野草採取のため同町字鳥棚舞方面へ出かけたまま行方不明となったので捜査中のところ、二十日午後三時頃、二里半〔約十キロ〕ほど離れた山中で熊に喰われ惨死体となっているのを発見され、附近住民は目下総出で熊狩り中である(「北海道新聞」昭和17年11月23日)
■若い男性が徴兵され、ヒグマの個体数が急増
戦争中は食料難のために、主婦が連れ立って、相当な山奥まで山菜を採りに行ったという話を、筆者も祖母から聞いたことがある。これらの中には、人知れずヒグマに襲われて亡くなった人もいただろう。
しかし未曾有の国難の時代にあって、ヒグマに関する事件記録は、残念ながら皆無に等しい。
またこの時期は、若い男性の多くが徴兵されたために、ヒグマの個体数が急増したと考えられる。
それが飽和状態に達したのが昭和20年代後半であり、彼らが人間に牙をむくきっかけとなったのが、〈1953(昭和28)、1954(昭和29)、1956(昭和31)年の相次ぐ冷害による凶作〉(小内透「戦後北海道の地域社会変動」、『現代社会学研究』第10号、1997)であった。
■筆者が注目した事件前日のできごと
昭和28年、千歳で新たな人喰い熊事件が発生した。
二十日午前八時ころ、千歳町字水明郷水上部落、林業高坂富蔵さん(六七)が薪切りのため支笏(しこつ)湖■■(判読不能)東側国有林付近に出掛けたが、同日午後四時半になっても帰宅しないため、三男知巳さん(二五)と末弟の世司さん(二〇)の両名が捜しに行ったところ、いつも通る道路から約五百メートル入った林道で、大腿部を大きな爪で引掻かれ、頭部打撲、下顎、右胸部、鎖骨部を喰いちぎられて死んでいる富蔵さんを発見、部落民の応援を求めて自宅に運び込んだが、熊により殺害されたものと判明した(「北海タイムス」昭和28年9月22日)
現場の状況から、加害熊は犠牲者の太ももに手をかけ、さらに頭部を一撃して殺し、その後、食害に及んだものと推測される。
損壊が比較的軽微なのは、襲撃から発見までの時間が短かったためと考えられるが、この経過からでは、食害が目的だったのかどうかはわからない。
ここで筆者が注目したいのは、この事件の前日に、事件現場から15キロ南の苫小牧市内で発生した次の事件である。
■執拗に被害者を襲う共通点
十九日午後四時ころ、苫小牧市字アツベナイ苫小牧営林署管内事業区の山中で、苫小牧市表町藤田木材店帳場、広瀬忠行さん(五四)が、払い下げの原木調査中、突然八十貫〔約三百キロ〕位の雄熊が襲いかかり、広瀬さんが付近の木によじ登ったが、右足首にかみつき、右足に爪をかけ、さらに左の臀部をえぐり取られた。気丈夫な広瀬さんは腰のナタを抜いて飛び降りざまに熊をめがけてナタを横殴りになぎ払ったところ、熊はおそれをなしたか漸次後退して姿を消した。(中略)なお同日午前、山中の二頭の仔をつれた雌熊を目撃した人もあり、入山者に注意が喚起されている(「北海タイムス」前掲)
この事件が、冒頭に紹介した赤松作業員が木から引きずり下ろされた事件と酷似していることにお気づきだろうか。
襲われた広瀬は足首や尻をツメでえぐられながらもナタで応戦し、全治2カ月の重傷で命拾いしたが、加害熊が執拗に被害者を襲った状況は、食害が目的であったことを物語っている。
そしてこの事件の24時間後に、15キロ北の千歳町山林で老人が喰い殺され、さらに1年後、約30キロ離れた定山渓で、赤松が喰い殺された。
赤松を襲った個体は体長七尺(約2.1メートル)、広瀬を襲った個体は体重八十貫(約300キロ)と、体格的にも共通する。
果たして同一の個体による凶行だったのだろうか。

■「変死体事件」との奇妙な一致
それを考察するにあたり、筆者は「ある仮説」を立てた。
そして試みに、それらのデータを人喰い熊事件の分布図に重ねてみた。
すると案の定、見事に合致したのである。
その「ある仮説」とは、「変死体事件」との関連である。
次に示すのは、昭和20年から30年に発生した、山中での変死体記事の一覧と、発見現場を示す地図である。

札幌から苫小牧に至る山林で、合計12体の白骨・変死体が発見されているが、その中で注目すべきものを、一連の人喰い熊事件とあわせて、時系列で見てみよう。
昭和27年10月6日、苫小牧市坊主山(現・山手町北部の丘陵地)山中で、約3カ月前に失踪した57歳男性の白骨死体が発見された。
同年12月29日、上記現場から13キロ東苫小牧市勇払の草むらで、38歳主婦の白骨死体が発見された。
翌年の昭和28年9月19日、苫小牧市アツベナイ山中で木材店帳場の広瀬がヒグマに襲われるも間一髪で逃げ切った(前掲事件)。
同年11月6日、苫小牧市通称字六マイル(現高丘)の山中で男性の白骨死体が発見された。現場は広瀬が襲われた「アツベナイ山中」から、わずか1.5キロ、死亡時期を逆算すると、広瀬が襲われた9月頃に重なる。
同年9月20日、千歳市山中で高坂老人が食害された(前掲事件)。
翌年の昭和29年6月20日、豊平町定山渓の松林で、死後約半年が経過した男性の白骨死体が発見され、さらに11月1日にも、豊平町簾舞西区の国道脇笹藪で、25歳ぐらいの男性の変死体が発見された。
そして同年10月6日、定山渓で造林作業員の赤松が樹木から引きずり降ろされ、内臓を喰い荒らされて死亡した。前記二つの変死体発見現場は、赤松が襲われた百松沢から、それぞれ3、4キロ程度の距離である。
このように、一連の人喰い熊事件を追っていくと、必ず変死体発見現場に行き着くのである。
札幌近郊で多数の変死体が発見されていることは、次の記事が示す通りである。
昨年道内各地で発見された変死体は道警の方面別にみると札幌千三百、旭川五百、函館四百、釧路三百、北見二百、合わせてザッと二千七百件に上っており、このうち三月から五月にかけてが四分の一近くを占めている。半年間も雪に埋もれていた変死体が雪どけとともにドッと出てくる(「北海道新聞」昭和35年4月17日)
■「稀代の人喰い熊」に変貌したワケ
札幌近郊だけで発見される1300体の4分の1、つまり325体もの変死体が、春の雪どけとともに地表に露出する。いうまでもなく、この時期はヒグマの冬眠明けの時期と重なる。

もうおわかりだろう。
加害熊は、これらの変死体を喰ったのではないか。
自殺者の腐乱死体を喰らい、生きた人間を喰らい、再び腐乱死体を喰らう。
これを繰り返して、加害熊は稀代の人喰い熊に変貌していったのではないか。
ヒグマが死体を喰った事件は過去にいくつも報告されているが、以下はその代表的な記述である。
明治三十七年の七月のこと砂川村一号線東西線の共同墓地に熊があらわれ、土葬した墓を八個も発掘し、その一つからは死体を引き出して放置してあった。おなじ年の九月には滝川村東四丁目兵村共同墓地と屯田兵第三中隊、第四中隊などの墓地に出た熊は、墳墓を発あばくこと実に三十箇所におよび、そのなかで屍を引き出して食ったものが五個もあった。三十八年には杵臼村幌別の共同墓地に親子三頭の熊が出没して、五月から七月までに土葬した遺体五人分を発掘してくいつくし、二名の屍をほじり出したし、十一月には瀬棚村島歌の墓地では新しく埋葬した死体を発掘して腸だけをくった(犬飼哲夫『林』1953年3月号、北海道林務部)
■土葬された亡骸を掘り起こす異常性
この他にも、上川郡美深に大熊が出没して〈墓地に埋葬してある死体をくわえ出して喰らうこと、既に十三個に及び〉(「小樽新聞」明治43年10月1日)などがあり、最後の記録は、猿払の墓地で〈本春、埋葬したる死体を発掘し、肩その他を喰い荒し、そのまま姿を没したり〉(「北海タイムス」大正6年9月10日)とあり、まさに不気味としかいいようがない。
実際に、埋葬された死体を掘り起こして喰ったヒグマが、後に人間を喰い殺した事例も報告されている。
昭和七年のことです。かって大樹には例のみない重大な事件が発生しました。それは、歴舟(れきふね)川の川尻に近いある農家の若者が、昼食のために家へ帰る途中、ふいに熊におそわれて食殺されてしまった、という事件です。(中略)熊に襲われたと思われる現場には、長ぐつや衣服などが散乱し、間もなく約二十メートルほど離れた土の中から、傷跡もなまなましい遺体が発見されました(「ヒグマを追って五十年 大樹町・島尻久吉さんを尋ねて」、『樹氷』1970年11月号、帯広営林局)
■「人肉の味」は母から子へ受け継がれる
ただちに熊狩りが行われ、加害熊を海に追い出して仕留めることに成功したが、そこであるハンターから意外な事実が語られた。
この事件が起る少し前に、日方川(歴舟川)の上流へ魚を釣りに行ったある人が、崖から落ちて死亡した。それを部落の人たちが行って手厚く埋葬したところ、熊がかぎつけて掘り返した。確かにそのときの熊に間違いなく、人間の味を知って襲いかかったにちがいない--という無気味な話でした(『樹氷』前掲)
前述の、ナタで応戦して生還した記事によれば、事件当日、二頭の子熊を連れたメス熊が目撃されている。
もしも親熊が変死体を食害したならば、子熊もまた食害しただろう。
子熊はいずれ成獣し、その鋭い嗅覚で、山中に自死した遺体を嗅ぎつけ、これを食害する。そうやって「人喰いの習性」が何世代にもわたって受け継がれていったのではないだろうか。
■世代を超えて繰り返される惨劇
それを暗示するような事件が平成13年に起きている。
七日午前十時ごろ、札幌市南区定山渓無番地の山中で、山菜採りに入った同市豊平区平岸二ノ五、会社員工藤憲三さん(53)が、クマに襲われ土中に埋められ死亡しているのを、捜索していた札幌市消防局の隊員が発見した。付近には体長約二メートルのクマ一頭がおり、同行のハンターが射殺した。
札幌南署などによると、射殺されたクマは五、六歳の雄で体重約一三〇キロ。工藤さんの遺体は、足だけを出して土の中に埋められていた。頭部にクマに殴られた痕跡があるほか、腹部などにかまれた傷があるという。
(中略)工藤さんは六日午前七時ごろ、「豊羽鉱山近くの山林にギョウジャニンニクを採りに行く。午後三時に戻る」と言って、一人で出かけた(「北海道新聞」平成13年5月7日夕刊)
〈足だけを出して土の中に埋められていた〉ことから、加害熊がエサとして埋めた可能性が高い。
「人喰い」の習性は、今もなお脈々と受け継がれているのかもしれない。
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中山 茂大(なかやま・しげお)
ノンフィクション作家、人喰い熊評論家
明治初期から戦中戦後にかけて、約70年間の地方紙を通読、市町村史・郷土史・各地の民話なども参照し、ヒグマ事件を抽出・データベース化している。主な著書に『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』(講談社)など。新刊『人喰い熊大国ニッポン』(小学館新書)が8月1日に発売予定。
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(ノンフィクション作家、人喰い熊評論家 中山 茂大)
