「過剰」ともいえるコンプラ社会

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【前後編の後編/前編からの続き】

 俳優の佐藤二朗と橋本愛のトラブルは、改めてコンプライアンスの“重圧”を知るきっかけになったのではあるまいか。悪気があろうとなかろうと、誰もが突然“加害者”にされかねない社会。加速し続けるコンプラ事情の最前線から、あるべき生き方を探る。

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 前編では、「息苦しいコンプラ社会」を象徴する、数々の事例を紹介した。

 やることなすこと、すべてがハラスメントになってしまうのではないか……。実例を知れば知るほど、そう思ってしまっても不思議はない。こうした社会をどのように捉え、いかにして生き抜けばいいのか。

「過剰」ともいえるコンプラ社会

「最近は大企業だけでなく中小企業でもハラスメント相談窓口を設置することが義務化されています」

 そう話すのは、日本大学危機管理学部教授の西田亮介氏である。

「それは、これまで多くの人がハラスメント被害に遭ってきたという背景があったからです。労働施策総合推進法や男女雇用機会均等法などの法律が改正され、それらが実装された社会になってきた。いま、その変化を人々が体感し始めているのだと思います」(同)

 西田氏によれば、従来の日本のやり方は国際規範から逸脱し過ぎていたという。

「ひと昔前なら、部下に対して感情的に怒鳴ったり、机をたたいたりして威圧するような行為が横行していました。これ自体は海外でもあり得ることですが、こうした行為は管理職の無能力を表すものと受け止められています。これを是正しないといけないというのは、ある意味で当然です。とはいえ、労働現場などで、新入社員に対して過剰な配慮でもてなしている現実はありますよね」

 西田氏が勤める大学でも、コンプラ対策が講じられている。

「例えば“体調が悪いので授業を休みます”という申告はたくさんきます。でも、どう具合が悪いのか、本当なのか、などと問うとハラスメントに該当してしまう可能性がある。こちらは“そうですか”と受け止めるしかありません」

 学生の考えることはいまも昔も変わらないが、大学側の対応は“令和仕様”になっているようだ。

「コンプラ社会で一番強いのは、鈍感な人間」

「コンプラ社会で一番強いのは、鈍感な人間なんだと思います」

 と言うのは、哲学者の適菜収氏。今年5月、ラジオ番組で高市早苗首相の外交姿勢を、戦後の街娼になぞらえて「パンパン」と評し、一部で炎上した経験がある。

「僕が特殊なのかもしれませんが、コンプラ社会のことをあまり気にしていません。萎縮する人はすればいいし、しない人はしなければいい。言葉狩りなどもある種の全体主義ですが、こうした流れは個人でどうにかしようとしても仕方がないと思っています」(同)

 そこで発想の転換だ。

「結局、気にするから息苦しくなる、という部分もありますよね。何か批判されたからといって、過剰に反応して心を痛めてもしょうがない。よく分からない批判には、鈍感になって処していればいいのではないでしょうか」(同)

 そもそも、どんなに小さな“火種”さえも見逃さない人々の執念深さはどこからくるのか。

「ルール違反を処罰するときに、ドーパミンが」

 作家の橘玲氏はこう語る。

「人間はルール違反を処罰するときに、脳の報酬系が刺激されてドーパミンが産生されます。正義を振りかざして誰かを悪として引きずり下ろす行為は人間にとって快楽なのです」

 厄介な仕組みである。

「“誰もが自分らしく生きられる社会をつくるべきだ”という価値観が共有された結果が、コンプラ過剰社会です。そうした社会では、自分らしく生きられないと感じる人は“社会の悪”を作り出し、その悪をたたき続けなければなりません。自分らしく生きられないのは自分が悪いから、という考えは受け入れ難いのです。コンプラ違反の炎上があちこちで起きるのも、自然な流れだと思います」(同)

 行きつく先は、疑心暗鬼に苛まれた世界だ。

「誰からいつ加害者としてバッシングされるか分からず、変な人に関わるとロクなことがない。家族や友人などのごく小さな人間関係の中でしかリラックスして過ごせなくなる。身を守るためにも、心を許せる小さな人間関係に閉じ込もるしかないでしょうね」(同)

 京都大学名誉教授の佐伯啓思氏はコンプラ過剰社会について、

「法律を遵守するというのは当たり前のことです」

 とした上で、こう捉える。

「ところが現在は、法律を守るだけでなく、そこに社会規範や企業独自のルールが加わり、その範囲がどんどん拡大している。規範やルールが守られていないと“よくない組織だ”“時代遅れだ”というイメージが形成されます。結局、法律遵守よりも“私たちは適切な規範に従っています”という社会的イメージを示すことが重要になっているのだと思います」

グローバル化とアメリカ型リベラリズムの浸透

 佐伯氏は、1990年代半ば以降に起こった経済のグローバル化にコンプラ社会の一つの根源があるのではないかと指摘する。

「それまで多くの企業に一種の日本的共同体のようなものがあった。社員は会社に愛着を持ち会社のために働く、という意識を持っていました。ところがこの時期以降、個人主義や効率主義、利益中心主義が強くなり、共同体としての企業文化が崩れていきました」(佐伯氏)

 また、同じ時期に、

「企業評価が株価に直結する、株価中心の経営へと移行していきました。企業イメージを損なうと株価にも悪影響を与えます。さらにCSR、つまり〈企業の社会的責任〉も求められるようになった。社会的責任には評判も含まれます。本来非常に曖昧な評判というものを、企業だけでなく学校も個人も気にするようになりました」(同)

 ほかにも、現代社会の基礎をなす考え方がある。

「今日でいう“多様性尊重”や“ポリティカル・コレクトネス”を含むアメリカ型リベラリズムです。グローバル化とアメリカ型リベラリズムの浸透により、それまで日本社会を支えていた常識や共通の価値観が見えなくなった。代わりに法的な正義、あるいは法律の延長のようなものが社会をまとめる役割を担うようになりました。コンプライアンスの過剰な拡大はその結果なのだと思います」(同)

福沢諭吉が説いた「話し方」

 こうした社会にあって大切なのは「程度」を見極めることではないか、と佐伯氏は言う。

「程度の判断は法の問題ではなく人間関係の問題です。そして、人間関係の基礎にあるのは信頼です。上司と部下、男性と女性、それぞれが立場や役割の違いを認めながら、どうやって信頼関係を築くか。それは現場ごとに考えることであって、一律に適用できるルールがあるとは思えません」(佐伯氏)

 そこで鍵となるのが「言葉の使い方」だ。

「信頼関係は会話によってつくられる。言葉の使い方や態度次第で同じ内容でも受け取り方はさまざまです。ハラスメントの問題でも言葉遣いや相手との関係が重要なのは言うまでもありません。いまの人々はごく表面的な会話しかできなくなっているように感じます」(同)

 そして、歴史的名著の一節をヒントとして挙げる。

「福沢諭吉が『学問のすゝめ』の最後で、人間にとっていちばん大事なのは会話の仕方であり、顔つきであると書いています。しかめ面ではなくにこやかな表情をして、きちんと会話をすることが大事だ、と。いまこそ、まさにそうした社交の能力が問われているのではないでしょうか」(同)

〈過ぎたるは猶及ばざるが如し〉。「論語」の箴言を持ち出すのは、さすがにコンプラ違反にあたるまい。

 前編では、「息苦しいコンプラ社会」を象徴する、数々の事例を紹介している。

「週刊新潮」2026年9月3日号 掲載