税金の申告漏れがないか、税務署員は厳しい目を光らせている(master1305 / PIXTA)※写真はイメージ

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プロ野球選手が税金の申告漏れ! 選手が大物であれば、スポーツ紙などでもセンセーショナルに報じられる類のネタだ。

個人事業主であるプロ野球選手は、税務署員のターゲットの範疇(はんちゅう)。その所得税消費税などについての申告内容には目を光らせている。

たとえば飲食費はどこまでが経費として認められるのか…。微妙なラインでもあり、選手にとっても気がかりではあるだろう。

ただ、思わぬ理由で、その対象から外れることがある。ターゲット選手の転居だ。たとえばトレードなどで移籍となり、住民票を移されてしまえば、その瞬間、管轄署の調査権限は消滅するのだ。(本文・大蔵主税)

※この記事は、税務署一筋30年の大蔵主税氏の書籍『税務署員うつうつ日記』(三五館シンシャ)より一部抜粋・構成しています。

若手調査官がプロ野球選手の移籍報道に地団太を踏んだわけ

「あとちょっと決断が早ければなあ」

昼下がり、フロアの隅にある休憩室で、個人課税部門の若手調査官・S君が嘆いている。私とは部署が違うものの、署内でも屈指の“コミュ力”の持ち主であるS君とはよく話をする間柄だ。

「どうしたの? そんな顔して」

私が隣の席に腰かけると、彼はこれ見よがしにスポーツ新聞の見出しを指さした。

『電撃トレード決定!』

そこには、わが署の管轄内に住んでいる、某球団の人気プロ野球選手がデカデカと載っている。同一リーグの別チームにトレードされることが決まったのだ。

「この選手、タマとして狙ってたんですけどね」

S君が所属する「個人課税部門」は、個人の所得税消費税について申告内容の確認がおもな職務だ。自営業者や不動産オーナーの売上計上漏れや経費の過大計上、無申告の把握などが中心で、帳簿や通帳をもとにその実態を調べる。必要に応じて自宅や事業所を訪問し、調査することもある。

若手ながらS君は「数字の裏側」を嗅ぎ分ける能力に長け、実績をあげていた。そんな彼が目をつけたのが、この有名選手の経費計上だった。華やかなスターであるプロ野球選手も、われわれ税務署員にとってみれば、個人事業主のひとりにすぎない。

「自主トレの宿泊費とかトレーニング費とかにまじって、明らかに不自然なコンサルティング料が数百万円も計上されていたんですよ。実態は十中八九、身内の会社への利益供与か何かだと思います。調査対象者として、統括官に情報をあげていたんですけど、とりあえず様子を見ようと言われていまして……」

椅子に腰を沈めると、S君はさも残念そうにネクタイをゆるめる。通常、調査の具体的な内容や手法は署内であってもむやみに口外されることはない。どうやら誰かに言いたくて仕方なかったらしい。

所得税の調査権限はどこに?

所得税の調査権限は、原則として「納税者の住所地」を管轄する税務署にある。つまり、どれほど“クロ”に近い獲物を見つけたとしても、トレードで他球団へ移籍し、それにともない住民票を移されてしまえば、その瞬間わが署の調査権限は消滅する。

「早く調査に入りましょうって、統括官にも何度も言ってたんですよ。モタモタしているうちに取り逃がすことになるんですから」

S君は心底残念そうに言う。かつて調査官だったものとして、彼の気持ちはよく理解できる。調査官にとって、調査対象の転居は釣り上げようとした大魚が網を破って逃げていくのを指をくわえて見ているようなものだ。

「気持ちはわかるよ。でも、今回は縁がなかったと思うしかないよ」

自分でも口先だけのなぐさめと思いながら、そんなふうに言う。

「彼は××(球団名)に行くんだろ。△△県の税務署員たちがなんとかしてくれるだろうよ」

「いえいえ、△△県の税務署が見つけたら見つけたで悔しいですし、見逃したら見逃したで悔しいですからね」

税務調査の判断基準は、大枠では各税務署で共通している。しかし、実務においては、署の方針や担当者の考え方、人員や時間といった事情によって運用に差が出る。同じ内容でも調査に入るかどうかが異なることは珍しくなく、最終的には現場の判断に左右されるのが実態だ。

「あそこまでニオイの出ている案件なら、最後までやりたかったですよ」

S君はようやく毒気が抜けたのか、スポーツ新聞をたたんで立ち上がった。

どれほど鋭い嗅覚で獲物を追い詰めても、1枚の住民票によってすべてが無に帰すこともある。逃げた獲物の行方はどうにもならない。それがこの組織のルールであり、無情な仕組みでもある。

とはいえ、S君のような若手の情熱が組織を支えている。私から見れば、逃げた獲物を惜しむそのエネルギーがどことなく眩しく感じられるのだった。

■大蔵主税(おおくら・ちから)
税務署員。
1970年代生まれ。大学卒業後、国税専門官に合格し某国税局に採用され、以後30数年税務署に勤務。その間、転勤8回(某国税局管内の税務署を異動してまわる)担当事務は、徴収→法人課税(税務調査あり)→管理運営(窓口業務あり)30代でうつ病になり、3か月の休職を2回経験。