(※写真はイメージです/PIXTA)

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満員電車や都市の喧騒から解放され、「自然豊かな環境で畑を耕しながら、のんびり第二の人生を送りたい」--そうしたセカンドライフへの憧れから、定年後の地方移住を決意する人は少なくありません。しかし、思い描く「のんびりした暮らし」の裏には、予期せぬ現実が待ち受けていることも……。Aさん夫婦の事例とともに、定年後の地方移住の落とし穴について、波多FP事務所の波多勇気氏が解説します。※紹介する事例は、相談者より許可を得て、プライバシー保護の観点から相談者の個人情報および相談内容を一部変更して記事化しています。

1,600万円で始めた田舎暮らし

「もう、東京に戻ろうと思っています」

そう話したのは、筆者がFPとして相談を受けていた現在68歳のAさんです。Aさんは3歳年下の妻と2人暮らし。会社員として長く東京で働き、63歳で完全リタイアしました。

夫婦が選んだ第二の人生は、地方への移住でした。

「仕事を辞めたら東京に住み続ける必要もないし、家賃を払い続けるのももったいないと思ったんです。田舎なら安く家も買えるでしょう?」

購入したのは、東京から車で3時間ほど離れた地方都市の郊外にある築50年ほどの古民家です。物件価格は約680万円。水回りや断熱、屋根などのリフォームに約920万円をかけ、総額約1,600万円で住まいを整えました。現役時代に貯めた金融資産は約4,500万円。夫婦の年金収入は手取りで月24万円ほどあります。住宅ローンも家賃もありません。

「月18万円くらいあればのんびり暮らせると思っていました。畑で野菜も作れば、食費だって安くなると思っていたんです」

数字だけを見れば、確かに無理のない計画に見えます。ところが、生活を始めると想定外の出費が少しずつ積み重なっていきました。

「家賃ゼロ」なのに、膨らむ負担

まず必要になったのが車でした。スーパーまでは車で約15分。病院までは30分ほど。最寄り駅も徒歩で行ける距離ではありません。夫婦で軽自動車を1台購入しましたが、ガソリン代、自動車保険、税金、車検、タイヤ交換などを合計すると、年間で40万円以上かかります。

さらに古民家にも費用がかかりました。

「リフォームしたんだから、しばらくお金はかからないと思っていたんですよ」

ところが、雨どいの修理、庭木の剪定、害虫対策、給湯器の不具合など、細かな支出が毎年のように発生します。冬になると暖房費も想定以上でした。

ある年は、家と車の維持だけで年間80万円近い臨時支出が発生しました。家庭菜園も、必ずしも「タダで野菜が手に入る趣味」ではありません。苗や肥料、農具、防虫ネットなどを買えば、それなりにお金はかかります。

そしてなにより夫婦を疲れさせたのが、「お金ではない負担」でした。草刈り、落ち葉掃除、雪への備え。地域の清掃や行事。近所との付き合い……。

「会社を辞めたら時間から解放されると思っていたのに、こっちでは別の予定が次々入るんです」

妻もこう話します。

「最初の2年くらいは楽しかったですよ。でも、毎年同じことをやらないといけない。家って、こんなに手がかかるんだと思いました」

全国には空き家が増えており、総務省の2023年住宅・土地統計調査では空き家数は900万戸、空き家率は13.8%と過去最高になっています。しかし「安く買えること」と「安く暮らせること」は、まったく別の問題です。

67歳での気づき「この生活、いつまで続けられる?」

決定打になったのは、Aさんが67歳のときでした。腰を痛め、2週間ほど車の運転を控えることになったのです。

「そのとき初めて怖くなったんですよ。ここ、車に乗れなくなったら生活できないなって」

それまで、「スーパーまで車で15分」という距離をそれほど不便だと思っていませんでした。しかし車を運転できなければ、その15分は一気に大きな壁になります。

国土交通省の「交通政策白書(令和8年版)」でも、地方部では公共交通の利便性が低く、自家用車への依存度が高いことを指摘されています。高齢になるほど「運転できなくなった場合の移動」が生活上の大きな問題になるのです。

さらに東京には、Aさん夫婦の子どもや昔からの友人がいます。「自然のなかで静かにのんびり暮らしたい」と思っていた当初。しかし年齢を重ねるにつれ、「病院が近いほうがいい」「歩いて買い物に行きたい」「友人と気軽に会いたい」という希望のほうが強くなっていきました。

そこで筆者は、夫婦にこんな提案をしました。

「家を持つことを前提に考えるのをやめてみませんか?」

月14万円の賃貸、「家賃がもったいない」と思わなくなった

夫婦が最終的に選んだのは、東京都内の2LDKの賃貸マンションでした。家賃は管理費込みで月約14万円。地方の持ち家なら家賃は0円ですから、表面的には大幅な支出増です。

しかし車は手放しました。庭の手入れも必要ありません。給湯器や建物設備に問題が起きても、原則として自分たちですべて修繕費を負担するわけではありません。スーパー、病院、駅は徒歩圏内です。

Aさんは笑いながらいいました。

「少し前の自分なら、毎月14万円も家賃を払うなんて絶対イヤでした。でもいまは、この14万円で『なにもしなくていい権利』を買っているような感じがします」

これは老後の住まいを考えるうえで、とても重要な感覚だと思います。持ち家なら家賃がかからない。地方なら土地も住宅も安い。確かにそれは事実です。

しかし老後に必要なのは、単純な「住居費の安さ」だけではありません。車がなくても生活できるか。家の管理を70代、80代になっても続けられるか。病院やスーパーへ行けるか。人とのつながりを保てるか。そして、環境が合わなかったときに簡単に移動できるか。こうした「暮らしの流動性」にも、大きな価値があります。

地方移住そのものが悪いわけではありません。Aさん夫婦も「移住した5年間を後悔しているわけではない」と話しています。ただ、老後の理想の暮らしは、60代と80代で同じとは限りません。住居を選ぶときには、「ここで暮らしたいか」だけではなく、「ここから動きたくなったとき、動けるか」まで考えておく。それが、長い老後を穏やかに暮らすための大切な視点なのかもしれません。

波多 勇気

波多FP事務所 代表

ファイナンシャルプランナー