五木寛之「佐藤愛子さんは、不条理な世の中を、背筋を伸ばして生き抜いた。同じ時代を生きてきた先輩であり戦友で」
27歳のときに『青い果実』で作家デビューし、『婦人公論』の連載エッセイをまとめた『思い出の屑籠』を100歳で上梓。70年以上にわたり活躍を続けた佐藤愛子さんが、2026年4月29 日に102 歳で逝去されました。佐藤さんと同じ時代を生き、5年前に『婦人公論』で対談した五木寛之さんは、佐藤さんをどのように見ていたのでしょうか。対談での思い出とともに語ります。(構成:篠藤ゆり 撮影:大河内禎)
【写真】5年前の、97歳の佐藤愛子さんと88歳の五木寛之さんの対談の様子
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先輩であり戦友
佐藤愛子さんがお亡くなりになった今、大きなものが失われたという欠落感があります。
「佐藤愛子さんがいる」というだけで、ジャーナリズムの一角が締まっていたし、とにかく存在感がすごかった。古武士のような端然とした佇まいで、つねに世の中に強いエネルギーを発しておられましたから。それだけに、不思議と身近なところにいるようにも感じていたのです。
佐藤さんは僕より9歳上で、仕事以外での個人的なおつきあいはありませんでしたが、同じ時代を生きてきた作家のお一人という感覚はずっと持ち合わせてきました。
それに少年時代、お父様の佐藤紅緑さんが書かれた少年小説を愛読していたこともあり、そういう意味でも特別な親しみを感じていました。
じつは初めてお話しさせていただいたのは、2021年の『婦人公論』での対談です。お互いにペラペラしゃべらなくても、なぜか話が合う。きっと私たち同世代の人間は、共有できるものが多かったからでしょうね。
僕は、佐藤さんは「明るいニヒリスト」ではないかと感じていました。ニヒリストというと、伊藤野枝のようなアナーキストを想像しがちですが、佐藤さんの場合は明朗にして、ものの考え方がニヒルなんです。人生とは大変なものであり、矛盾だらけで不合理なものなんだ、という冷徹なまなざしが明るい。

(写真:stock.adobe.com)
僕は佐藤さんより年下ですが、敗戦を現在の北朝鮮で迎え、日本に引き揚げるまでの経験のなかで精神が形成されたようなところがあります。それは人間性に対する絶望と幻滅と言ってもいい。
だけど、だからこそ明るく元気に生きていこうと思ってここまで来たし、人間は愛すべきものだとも思っています。
それは、佐藤さんの「ぐずぐず言うな! それがなんだ」という強い発言にも通じる気がするのですね。世の中は不条理だ。だからといって暗い表情でいるだけではなく、明るい顔をして、身だしなみを整え、背筋をしゃんと伸ばして生きていこう、と。そういう思いがあるから、大変な借金を背負ってもめげずに生きていけたのではないか。
対談中は、阿吽の呼吸で繋がっている感覚がありました。わかり合えるからこそ、あえてつらい部分には触れない。お互いに、そこを語るのは人前でやるべきことではない、といった一種の共感があったのでしょうね。
一見、世間話風に話を進めながらも、心の奥底で共感し合えているのが、とても心地よかった。佐藤さんは先輩だけれども、僕は戦友だと思っています。
本質を見る目
佐藤さんは晩年、エッセイをたくさんお書きになっていました。それらは日常雑記というより、ものごとの本質をズバッと切断するものだった。
クスリと笑いたくなるような、皆さんおなじみの《佐藤愛子》を演じている面もあるけれど、首尾一貫した考えがにじんでいます。僕からすれば、エッセイというよりやさしい評論でした。
一方で、直木賞受賞作の『戦いすんで日が暮れて』や、芥川賞候補作の『ソクラテスの妻』『二人の女』など昔の小説を読むと、世間があまり知らないデリケートな文学的感覚もよく描かれている。佐藤さんの仕事を丁寧に読み直していくと、新しい発見があると思います。
そういえば対談でお目にかかった際、佐藤さんの『気がつけば、終着駅』という本の題名について話題になりました。昔、「終着駅は始発駅」という歌がヒットした話をしたのです。
対談当時97歳だった佐藤さんに、「浄土だか天国だか知りませんが、そこに向けてまた走りましょう、ということでしょうか」と尋ねたところ、「いやいや、私はもう走らなくていいですよ。十分に生きたという満足感みたいなものはありますから。(略)ここにいて座っているのも、あの世で座っているのも大差ありません」と答えられました。そして、「自分に与えられた人生だけは、十分に生き抜いた」と。
戦争を経て、大借金を乗り越え102年。最期まで《佐藤愛子》であり続けた。まさに生き抜かれた先達だと思います。

