Xでトレンド入り『差別のない本屋』が突きつけた、日本の「同調圧力」と「表現の自由」のジレンマ…「ヘイト本」は誰が決めるのか

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朝日新聞読書面に連載の「著者に会いたい」で取り上げられた『差別のない本屋に通いたい。本好き教師の冒険の記録』(仲川啓介著、キボウ書房)の著者インタビューが物議をかもしている。

特定の書籍の陳列に対して市民が声を上げる活動は、差別扇動への異議申し立てという「人権擁護」の側面がある一方で、言論の自由や書店の自律性を脅かす「過剰な圧力・検閲」の側面もあるからだ。

著作では一般的なヘイトスピーチの定義よりも「ヘイト本」の対象範囲は明らかに広く、厳密に適用するならば、近現代の著作物だけでなく、ダンテの『神曲』やシェイクスピアの古典さえ「ヘイト本」になり得る。なぜ日本では、このような現象が起こるのか。評論家・著述家の真鍋厚が解説する。

【前編】→ヘイト本を排除したら「シェイクスピア」まで消える…Xでトレンド入りした『差別のない本屋』への強烈な違和感

日本が抱える「表現の自由」のジレンマ

米国と他の先進国との違いは、近未来の米国を舞台にしたディストピア小説『ターナー日記』の取り扱いに見事に表れています。同作は、米国の白人至上主義団体「ナショナル・アライアンス」の創設者兼会長であるウィリアム・ルーサー・ピアースが、アンドリュー・マクドナルドというペンネームで1978年に発表されました。

血なまぐさい人種間闘争が主題のこの小説は、激しい暴力描写があり、最終的に世界戦争へと発展して、白人が圧倒的な勝利を収める結末になっています。1995年のオクラホマシティ連邦ビル爆破事件など、数多くヘイトクライムやテロ行為のきっかけになったとされています。

社会的には、いわばテロ扇動小説であり、過激な白人至上主義や民族浄化を描いているにもかかわらず、出版・流通・所持は<ヘイト本を排除したら「シェイクスピア」まで消える…Xでトレンド入りした『差別のない本屋』への強烈な違和感>で触れた、憲法修正第1条により全米で法的に保護されています。「即時かつ明白な暴力を直接指示するアジテーション」でない限り、どんなに危険な思想であっても政府が規制することはできません。

他方、カナダでは、刑法の「ヘイト・プロパガンダ規定(特定集団に対する憎悪扇動:人種、宗教、性自認、性的指向、障害などの「保護されるべき属性」を持つ特定の集団に対し、憎悪を意図的にあおる表現物)」および税関規制に基づき、社会やマイノリティの尊厳に対する直接的な「危害」とみなし、輸入および商業的販売が全面禁止されています。

ドイツにおいては、2006年4月からドイツ連邦未成年者有害メディア審査委員会によって、青少年に有害なメディアとしてリスト(インデックス)に登録され、厳格な没収・流通禁止措置が取られています。ナチズムの惨劇を反省として刻んだ「民衆扇動罪」(刑法第130条)に基づき、配布、公開、または宣伝する行為は、民衆扇動罪および犯罪教唆の罪に問われます。なお、国立図書館などで学術・研究目的に限り閲覧が可能です。

フランスでも、反ユダヤ主義や白人至上主義の助長を処罰するフランスのヘイトスピーチ法および反人種差別法に基づき、公の場での販売、展示、配布を禁止しています。「同出版物が人種差別、反ユダヤ主義、暴力の使用を擁護しているため、フランス国内での同出版物の流通が公共の秩序を乱す可能性があることを考慮した」と書かれてあります(1999年10月21日付の出版物の流通、配布、販売を禁止する命令)。

米国が「政府に言論を検閲させるリスク(検閲国家への恐怖)」を最も恐れるのに対し、欧州の国々やカナダは、「差別言論が放置されることで生じる現実の危害や虐殺(社会崩壊への恐怖)」を最も恐れているという、国家が何を防ぐべきかという哲学の違いがこの差を生んでいます。

とはいえ、米国でもオンライン書店のアマゾンが、2021年の米国議会議事堂襲撃事件を契機に、子会社を含むすべての書籍販売プラットフォームにおける『ターナー日記』の販売を禁止するなど、民間レベルの対応が分かれています。

要するに、日本は、他国よりも強固な米国型の「表現の自由」を「歴史的な蓄積」なしに取り入れたのです。明治憲法下では、法律の留保つき「臣民の権利」(第29条「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」)があっただけで、戦後の日本国憲法下で初めて不可侵の「基本的人権」が「輸入」されたからです。

その結果として、「米国型の法的枠組み(表現の自由至上主義)」を採用しながら、「欧州型の公的ルール(法によるヘイト規制)」も持たず、現場では「日本特有の同調圧力や自粛文化」で処理しようとする歪な傾向が生じます。ここにおいて、戦後体制の制度設計と社会実態の不調和の本質が露呈しているのです。

この場合、米国型を護持(現行憲法の尊重)しようとすれば、基本的に規制推進の側に立つことは「悪」となり、規制を求める左派・リベラルの人々は、皮肉なことに「反憲法的な」立場になります。また、リベラル嫌悪と重複することが多い右派・保守系の人々は、これも皮肉なことに「米国による押し付け」とされる現行憲法を大義名分に、「表現の自由」を死守する側に立つことになります。

もちろん、時代をさかのぼれば、「戦前の弾圧への強烈な反省」から「表現の自由」を絶対化したところもあります。だからこそ、現代において「ヘイトスピーチという危害を公権力でどう止めるか」という問いに対して、日本社会は法的な答えを出しにくいというジレンマを抱え続けているともいえます。

議論そのものが劣化していく

では、わたしたちは米国型を完遂できるのでしょうか? ここで最もラディカルな提言者のひとりであるジャーナリスト、作家ジョナサン・ローチの言葉に耳を傾けましょう。ローチは、ユダヤ人で、同性愛者ですが、「ホロコーストはなかった」「ゲイは病気だ」といった言説を規制することには大反対という立場です。

それは、「抑圧するだけでは、いかなる仮説も完全に埋葬されることはない。悪しき考えを葬る唯一の道は、それを天下に曝し、より良いものをもってこれに代えることである」と固く信じているからです。

フランスは、ヒトラーによる大量虐殺が本当に起きたことを疑問視するか否定するホロコースト〈修正主義〉を禁じる法律を通した。 私はたまたまユダヤ人である。死んだ六百万の人たちの記憶を消してしまうという考えは、私に恐怖感を覚えさせる。この記憶は、まさに、自分の夢を達成することをヒトラーに阻んだ一切のものを表すが、ヒトラーは、ユダヤ人を絶滅させるばかりでなく、ユダヤ人という観念そのものをも抹殺し、あらゆる痕跡を消滅させ、彼らを抜き取った後の穴を跡形もなく塞いでしまうように、歴史を仕立て上げようとした。ユダヤ人なんて全く存在しなかったというぐあいにである。 にもかかわらず、これは大変言いにくいことであるが、もし誰かが記憶を消したいと思うのであれば、思い切ってやって見るがいい。そうした企てを阻止しようとしても、事態は少しも良くならない。唯一の方法は、彼らにやらせて見ることだ。ただし、はっきり言っておかなければならないのは、彼らの成功しうる唯一の方法は、公の場で彼らの主張が徹底的にチェックされるという過程を経ることである。この過程こそ、人間が、真理を虚偽から選り分けることを可能にする最適の過程だと、私は信じて疑わない。(『表現の自由を脅かすもの』飯坂良明訳、角川選書より引用)

ローチは、「どんなに不快な言論であっても、誰も絶対的な真理の決定者にならず、開かれたアリーナでの論争と反証によって打ち負かす」という強靭な言論文化を前提としています。相互監視や炎上回避の意識が強い日本社会では、議論による反証よりも「自粛」「レッテル貼りによる排除」が先行しやすく、このようなモデルは馴染まないのが実情です。

現在の日本は、米国型の言論闘争に任せるという共通認識もないまま、「表現の自由」という法理念だけが受け継がれており、その隙間を「空気」と「感情論」が埋めることになります。そのため、市民運動やネット世論が「私的な検閲官」となり、何が許される書籍かを個別に決定しようとする現象が起きやすくなるのです。

日本には、欧州のような「歴史的教訓に基づき、公的機関が法律で一線を引き管理する」という法原理も社会的納得感もありません。これが存在しないぶん、受け手側から見れば、「法的客観性のないマイルール」に映るため、内容の是非ではなく「運動体の属性(左派・リベラル)」に対する政治的アレルギーや感情的な反発へと焦点がすり替わってしまいます。

法論理や国際比較に基づく議論が充分に行われない結果、本質的な「差別防止と表現の自由の境界線」というテーマが、前述の単純な対立軸に矮小化され、そもそも論がスルーされやすくなるのです。そして、欧州の法規制の現実やその副作用まで含めた包括的な知見が共有されないまま、市民運動の先鋭化や個々の版元や店舗の自粛という「私的な領域での力関係」で処理しようとする傾向にズレていくのです。

そうすると、「空気を重んじる」日本では、「人が不快に感じるものをあらかじめ自主規制する」という流れになります。「人権擁護」の観点から「ヘイト本」を厳密に定義することなどよりも、「不快に感じる表現かどうか」のほうが世間の「空気」に大きく影響するからです。これはもはや議論そのものの劣化ですが、もっともあり得そうなシナリオです。

果たして、わたしたちは、ローチが唱える「知的自由社会」(「傷つけ合いなしの社会は、知識なしの社会である」!)に耐えうる覚悟を持っているのでしょうか。すでに縷々述べたように、それも大いに疑問があると言わざるを得ないのもまた事実なのです。

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