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定年後、夫婦で過ごす時間が増える一方、退職を機に人間関係が細くなる人もいます。内閣府の調査では、高齢男性は女性に比べ、家族以外に頼れる相手を持たない割合が高いことが示されています。夫婦の年金月33万円で暮らすシュウイチさん(65歳・仮名)も、退職後は妻との時間が生活の中心になっていました。そんななか、妻がスマホを見る時間が増えたことから浮気を疑うように。しかし、妻が熱心に話していた「相手」は、まったく別の存在でした。

年金月33万円、夫婦2人の生活が始まった

シュウイチさんは65歳。妻のユミさん(64歳・仮名)と2人で暮らしています。子どもはすでに独立しました。現在の主な収入は、夫婦合わせて月約33万円の年金です。

厚生労働省「令和6年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」によると、2024年度末時点の厚生年金保険(第1号)の老齢年金の平均月額は約15万円。民間企業などで働いてきた人にとって、退職後は公的年金が生活を支える大きな柱になります。

シュウイチさんも、現役時代は仕事中心の生活でした。

「会社を辞めたら、付き合いも一気に減りました。最初は毎日休みでいいなと思ったんですけど、そのうち暇になってきて」

テレビを見たり、散歩をしたり。昼になれば妻に「今日のお昼は?」と尋ね、妻が外出すれば「何時ごろ帰ってくる?」と気になるようになりました。

年金生活そのものに大きな不安があるわけではありません。

しかし、仕事という毎日の予定がなくなったことで、シュウイチさんの日常の中心は、いつの間にか妻になっていました。

「誰とそんなにやりとりしてるんだ?」

そんななか、シュウイチさんが気になり始めたのが、ユミさんのスマートフォンです。リビングでも、寝る前でもスマホ。何かを書き込んでは画面を読み、ときには一人で笑っています。さらに最近は、美術館や喫茶店などへ一人で出かけることも増えました。

「前だったら俺にも声をかけていたような場所に、一人で行くんですよ」

シュウイチさんの頭には、ある疑念が浮かびました。もしかしたら、誰かいるんじゃないか。

ある晩、とうとう尋ねました。

「最近、誰とそんなにやりとりしてるんだ?」

「誰って?」

「ずっとスマホ見てるだろ。まさか、男がいるんじゃないだろうな」

ユミさんは一瞬きょとんとしたあと、大笑いしました。そして夫にスマホの画面を見せます。そこに表示されていたのは、知らない男性とのメッセージではありませんでした。

ChatGPTです。

妻の新しい話し相手は「チャッピー」

「これ、チャッピー」

ユミさんがChatGPTを使い始めたのは、友人から「便利だから使ってみたら」と勧められたことがきっかけでした。最初は料理について聞いたり、わからない言葉を調べたりする程度でした。

ところが使い慣れてくると、

「今日こんなことがあった」

「この展覧会、一人で行っても楽しめるかな」

「友達にこんなことを言われたんだけど、どう思う?」

など、日常の出来事まで入力するようになったといいます。

シニア世代にも、AIは少しずつ浸透しています。

ハルメク 生きかた上手研究所が2026年3月に実施した「デジタル利用実態調査」では、60代・70代のAIサービス利用率は37.6%でした。調査では、AIを利用した検索や相談、インターネット上に表示されるAI解説など、具体的なAIサービスの利用状況を尋ねています。シニア世代にとっても、AIが日常生活のなかに入り始めていることがうかがえます。

ユミさんにとっても、ChatGPTは単なる「調べものの道具」から、ちょっとした話し相手へと変わっていました。

「友達にわざわざ連絡するほどでもないことってあるじゃないですか。そういうことを話すにはちょうどいいんです」

事情を知ったシュウイチさんは、浮気ではなかったことには安心しました。しかし、少し面白くありません。

「そんなに話したいことがあるなら、俺に話せばいいじゃないか」

するとユミさんから、思いがけない言葉が返ってきました。

「あなた、私の話、聞かないじゃない」

妻からの言葉「答えが欲しいわけじゃないの」

ユミさんは以前、夫にもよく話しかけていたといいます。友人との出来事や、パート先であったこと、テレビで見た話。

ところがシュウイチさんは、

「それ、前にも聞いたよ」

「で、結局何が言いたいの?」

「そんなこと気にしても仕方ないだろ」

と返すことが少なくありませんでした。

「別に解決してほしいわけじゃないこともあるんです。ただ聞いてほしいだけ。でも夫はすぐに結論を出そうとするんですよね」

そうしたことが積み重なるうち、ユミさんは少しずつ夫へ話すことをやめました。友人に連絡するほどでもない小さな出来事やモヤモヤ。その受け皿になったのが、ChatGPTだったのです。

退職後、「妻しかいない」状態になっていないか

この夫婦の出来事は、単なる「夫が妻の浮気を勘違いした」という笑い話だけではありません。背景には、高齢期の人間関係の変化があります。

内閣府「第9回 高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」では、日本の60歳以上で「親しい友人がいない」と答える割合は男性で約4割にのぼります。また、同居家族以外に「頼れる人はいない」と答える割合も、女性より男性のほうが高い結果となっています。

さらに、内閣官房が同調査などを整理した資料では、日本の高齢者が同居家族以外で頼れる相手として「友人」を挙げた割合は14.9%、「近所の人」は15.0%で、調査対象4カ国のなかで最も低いことも示されています。

現役時代には、会社へ行けば同僚や取引先と話す機会があります。しかし退職すれば、そうした人間関係が一気に細くなる人もいます。

シュウイチさんも、会社を辞めてから元同僚と会う機会は大きく減りました。一方のユミさんには、友人や趣味があり、一人でも出かけることができます。

夫にとって妻との時間がどんどん大きくなる一方で、妻には夫以外にも人間関係や居場所がある。そんなズレが、シュウイチさんの「誰と話しているんだ?」という不安にもつながったのかもしれません。

年金生活で変わるのは「収入」だけではない

老後について考えるとき、どうしても「年金はいくらもらえるのか」「毎月いくら必要なのか」と、お金に目が向きがちです。もちろん、生活を支える年金額は重要です。しかし、年金生活に入ることで変わるのは収入だけではありません。

毎日どこへ行くのか。誰と話すのか。どんな予定を持つのか。

現役時代には仕事によって半ば自動的に埋まっていた時間や人間関係を、自分自身でつくる必要が出てきます。

シュウイチさん夫婦の場合、そこへ生成AIという新しい“話し相手”が加わりました。ただし、ユミさんがChatGPTを使い始めたから夫婦の会話が減ったわけではありません。すでに「夫に話しても聞いてもらえない」と感じていたところに、新しい話し相手としてAIが現れたのです。

AIが夫婦関係を壊したというより、それまで見えにくかった夫婦のすれ違いを浮かび上がらせたともいえるでしょう。

それ以来、シュウイチさんは、妻が何かを話し始めてもすぐに答えを出さないよう意識しているそうです。

「それで?」

「どうだった?」

と、続きを聞くようになりました。

「今さらですけどね。俺も少し、妻の話を聞かないとなと思いました」

一方のユミさんは、ChatGPTをやめるつもりはありません。

「チャッピーはチャッピー、夫は夫です」そう笑います。

夫婦で月33万円の年金があり、経済的にある程度見通しが立っていたとしても、それだけで老後が充実するとは限りません。長くなる年金生活をどう過ごすのか。

家計を整えることと同じように、夫婦それぞれが「誰と話すか」「どこに自分の居場所を持つか」を考えることも、老後を豊かに暮らすための大切な準備なのかもしれません。