【真鍋 厚】ヘイト本を排除したら「シェイクスピア」まで消える…Xでトレンド入りした『差別のない本屋』への強烈な違和感

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「書店にヘイト本を置かないで」に物議

ヘイト本を書店からなくす――「差別のない本屋」を理想に掲げた著者のインタビュー記事が物議をかもしています。

朝日新聞読書面に連載の「著者に会いたい」で取り上げられた『差別のない本屋に通いたい。 本好き教師の冒険の記録』(仲川啓介著、キボウ書房)の記事は、著者が足繁く通う東京・吉祥寺の書店で「憎悪や偏見をあおる本を平積みにするのはやめたほうがいいのでは……」と店員に話しかけるシーンから始まります。

書店に対して直接圧力をかけていく運動スタイルや、ヘイト本の定義が曖昧なことなどがSNSで大きな反発を呼び、Xでは、<教師の『ヘイト本陳列反対活動、朝日記事に批判集中』>という見出しでトレンド入りしました。過去にオンライン署名サイト「Change.org」で署名活動を展開したことも火に油を注いだようです。

主な批判は、以下の通りです。

<自分の思想に合わない本は置くなと署名活動をして書店に圧力をかけるような活動家を肯定的に扱ってどうするの?(略)つまりこれ『俺が気に入らない本は置くな。俺が認めた本だけ売れ』っていう、脅迫でしかないんです>

<自分の本屋を『そういう本は置かない店』にするなら、好きにすればいいと思う。でも既存の書店に対して、『自分の思想に合わない本を撤去しろ』と署名まで集めて圧力をかけるなら、それはもう現代版の焚書と何が違うのか>

<書店員は、入荷した本を粛々と店に並べるのが仕事。職業に貴賎がないのと同じく、本に貴賎はない。(ただし、ゾーニングが必要な場合はある) 内容の善し悪しは購買者たる読み手が判断すべきであり、店側が決めることではない>

確かに、これらの批判にある通り、かなり無理がある運動であることは事実でしょう。特定の書籍の陳列に対して市民が声をあげる活動は、差別扇動への異議申し立てという「人権擁護」の側面がある一方で、言論の自由や書店の自律性を脅かす「過剰な圧力・検閲」の側面があるからです。

そもそも、誰が「ヘイト本」と認定するのでしょうか? 先の著作では「特定の国や民族への憎悪や偏見をあおる本」と定義されているため、一般的なヘイトスピーチの定義である「特定の国の出身者であることまたはその子孫であることのみを理由に、日本社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりするなどの一方的な内容の言動」よりも「ヘイト本」の対象範囲は明らかに広くなっています。

ダンテもシェイクスピアも対象になり得る

この定義を厳密に適用するならば、近現代の著作物だけでなく、古典も「ヘイト本」になり得ます。たとえば、ダンテの『神曲』です。中世キリスト教文学の最高傑作とされる叙事詩として有名な本作には、他宗教・異民族に対する苛烈な蔑視も描かれています。

現代の観点からは特定の人種・宗教コミュニティに対するヘイトスピーチや憎悪表現とみなされ、欧州でも議論の対象となっています。たとえば、イタリアの人権擁護団体がイスラム差別、人種差別などを理由に、『神曲』を公教育のカリキュラムから外すよう国連機関に働きかけたこともありました(参考:「ISが標的にするイタリアの古典、ダンテ『神曲』のムハンマド冒涜が凄い」/2015年7月16日/ニューズウィーク日本版)。

中世当時のキリスト教世界では、イスラム教はキリスト教から信者を奪った異端や敵対勢力とみなされていました。ダンテも例外ではなく、その世界観のなかでムハンマドを厳しく断罪、娘婿アリーも同様の惨劇に見舞われる表現を行なったのです。

このように、広義の「ヘイト本」を問題視し始めるときりがありません。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』、コンラッドの『闇の奥』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』といった古典にもその時代特有の偏見が反映されているからです。

つまり、「ヘイト本」が一掃された世界とは、『ヴェニスの商人』だけでなく、反黒人感情が背景にある『オセロ』、人種差別用語が頻出するマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』、さらには他民族・他宗教への苛烈な排他性が含まれる古代の聖典や哲学書に至るまでが棚から姿を消した世界になります。

文献学や歴史学の立場では、歴史上の差別や偏見を「なかったこと(キャンセル)」にするのではなく、「過去の人々がどのような偏見を構築し、それを文学にどう昇華したか」を批判的に読み解くことが重視されます。

作品そのものを本棚から消してしまうと、人類が抱いてきた“無意識の毒”や暗部を直視し、学びを得る機会そのものが失われてしまうからです。

書店や図書館を「誰にとっても傷つく表現のない安全な空間」と捉えるのか、それとも「不快な論理や負の歴史も含めて開示し、読者に判断を委ねる言論のアリーナ」と捉えるのか、求められる姿勢は真逆になるのです。

不快な表現を一切削ぎ落とした「清廉潔白な本棚」は、一見すると平和ですが、過去の過ちや人間の複雑さを隠蔽した無菌空間になりかねません。差別を許容しない姿勢を示しつつも、歴史の負の遺産とどう対峙し続けるかという境界線の引き方は、社会全体に突きつけられた難題といえます。

これは一種の模範解答ですが、なぜこのような「表現の自由」を重視する考えが日本において定着しているのでしょうか? 一言でいえば、「日本国憲法がGHQ(連合国軍総司令部)による占領下で制定され、アメリカ合衆国憲法(特に表現の自由や政教分離を定めた修正第1条)から多大な影響を受けているから」と考えます。

米国の表現の自由に対する法理と国民的意識は、比較憲法学において「修正第1条例外主義」と呼ばれるほど、世界の民主主義諸国のなかでも極めて特殊とされています。他の先進国や国際法が「個人の尊厳や人身の安全を守るための言論規制」を認めるのに対し、米国は「不快な言論であっても政府が価値判断して規制してはならない」という原則を徹底しています。

【後編】→Xでトレンド入り『差別のない本屋』が突きつけた、日本の「同調圧力」と「表現の自由」のジレンマ…「ヘイト本」は誰が決めるのか

【つづきを読む】Xでトレンド入り『差別のない本屋』が突きつけた、日本の「同調圧力」と「表現の自由」のジレンマ…「ヘイト本」は誰が決めるのか