こんなシーンもあったが…(星野仙一監督と筆者=左)/(C)共同通信社

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【山粼武司 これが俺の生きる道】#135

【前回を読む】「何やおまえ!」星野監督は鬼の形相でブチギレ、俺の首根っこを掴んで怒鳴り散らした

「引退後は楽天で指導者になって、いずれは監督になりたい」

 仙台に来てしばらくしてから、そう思っていた。楽天球団創設から7年。すぐに辞めるつもりが、気づけば仙台が第二の故郷になった。

 星野仙一監督も俺が球団の功労者であることを認め、「俺の下で帝王学を学べ」と指導者への道筋をつけてくれた。にもかかわらず、その気遣いをなぜ突っぱねたのか。

 楽天ができたばかりの弱小球団だった頃。先輩に対する態度、野球に対するプロ意識、練習に取り組む姿勢……ありとあらゆることを若い選手たちに厳しく言ってきた。

 それなのに、俺が星野監督に媚を売ってコーチになったら、若手たちはどう思うだろう。説得力がゼロになる。

「何だ、今まであんなに散々言っといて、武司さんも結局は(他のコーチと)一緒じゃないか」

 そう思われるのだけは嫌だった。だから、引退してすぐ楽天でコーチになることだけはできなかった。

 もうひとつ、ひっかかることがあった。球団からコーチを打診された際、「ちなみに、(コーチは)どこのポジションでお考えですか」と尋ねた。最低でも一軍打撃コーチかな、なんて思っていたが、返ってきた答えは「それは……まだ決まっていない」。これはアカンなと思った。口ではコーチになってくれと言いつつ、ノープランなのだとすぐに悟った。

 楽天は離れるが、別のユニホームを来て、また仙台に戻って来よう。そう思った。仙台のファンのみんなに「俺はまだまだ元気だぞ」というところを見せたい。その一心だった。

 クビ宣告から1週間以上、スタメンはおろか代打でも出番なし。一軍には同行していたものの、ベンチ内での“飼い殺し”が続いた。

 そして10月9日、退団会見に臨んだ。

「若ければメジャーも目指したかったけどね」

 そんな冗談を言ってみたものの、仙台を去らなければいけない寂しさがすぐにこみ上げてくる。涙をこらえ、不甲斐ない成績の責任を取ること、それでもまだ現役を続けたいことを伝えた。

 翌10日、メディアに退団会見の記事が掲載された。俺と首脳陣との確執について言及するものもあった。記事を読んだ星野監督は「何で俺に取材せんと書いとるんや」と、記者を呼びつけて激怒したらしい。そんな話を聞いていると、本当に俺のことが嫌いだったんだろうなと思う。

 レギュラーシーズン最終戦は19日だったが、CS争いの最中で水を差したくない。そう思い、10日を俺の中の「楽天最終戦」と決めた。

 試合前にメンバー表を見ると俺の名前はなし。最後なのにスタメンじゃねえのかよ!? と思ったが、星野監督も俺の言動に腹を立てていたようだった。のちに聞いた話によると、田淵(幸一)さん(一軍ヘッドコーチ)が「4番 山粼」と書いたメンバー表を監督のもとへ持って行くと、星野監督はこう吐き捨てたという。 (つづく)

(山粼武司/元プロ野球選手)