「お前が監督か。他におらんのか?」…名将・野村克也が最下位ヤクルトを継いだ教え子に贈った「最期の言葉」
※本稿は、眥顛淡磧悵Δ醗イ靴澆離好錺蹇璽此戞KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■新米監督として意識していたこと
2019年シーズンが終わり、僕が最初に取り組んだのは、「2020年をどう戦い抜くか?」という設計図を描くことだった。
野村克也監督は、スワローズ監督就任時に「1年目に種を蒔き、2年目に水をやり、3年目に花を咲かす」と、「3カ年計画」を口にした。
もちろん、こうした長期的なビジョンも大切だけれど、当時の僕の頭にあったのは、「今年をどう変えるか?」という一点のみだった。19年のチーム状態は、あまりにも酷すぎた。防御率も打率も、そして守備率もリーグワースト。
これでは、少々のリフォームでは太刀打ちできない。そこで、一度すべてを更地に戻し、土台から作り直すことを、僕は決意した。柱がボロボロのまま屋根を塗り替えても、すぐに崩れてしまう。
一度更地にするのは勇気がいる作業だが、同じことの繰り返しでズルズルと負け続けることだけは、絶対に避けたかった。
■まずはチームの「組閣」から始めた
チームを作り直す上で、僕が最初に取り組んだのは「組閣」だ。
まずは、ヘッドコーチを宮出隆自に依頼した。彼は入団当初からよく知る仲だが、何より「厳しさの質」がいい。選手に対して厳しく当たるときも、相手の気持ちを汲み、パッと切り替えて次に進める。
「選手に嫌われない厳しさ」とでも言えばいいのか、人間として信頼できる彼を、組織の要に据えたかった。
その一方で、選手に寄り添う役割も不可欠だ。「ゴリ」こと、石井弘寿や、数々の名選手を育てた大ベテランの杉村繁さんは、技術指導はもちろん、選手の悩みや思いを丁寧に聞き出しながら進めてくれる。
河田雄祐さんや、森岡良介は人情味がありつつ、要所でパッと適切な言葉を投げかけてくれる。コーチ一人ひとりに「厳しさと共感」の役割を期待し、チームの空気を一新するための布陣を整えていった。
■「ピッチャーが弱点」のチームを終わらせたい
一方、僕がピッチャー出身である以上、投手陣の整備は避けて通れない最優先課題だった。長い間、「スワローズはピッチャーが弱点」と言われ続けてきた歴史を、自分の手で終わらせたかった。
新しく招いた斎藤隆、そして古くから知る石井弘寿とともに、投手陣を根底から作り直す。野手に関しては、宮出や杉村さんといった信頼できるスタッフにメニューから何から任せたが、ピッチャーに関しては、僕自身も深く入り込んで再建に取り組む覚悟だった。

キャンプのメニュー一つとっても、これまでと同じでは意味がない。どうすれば選手が最高の状態でシーズンに入れるか、コーチ陣と徹底的に意見を戦わせた。
現状を否定し、一から作り上げることは、これまでの流れを断ち切る怖さを伴う。しかし、ボロボロの柱で戦うよりは、まっさらな土地に新しい柱を一本ずつ立てていく方が、未来への希望がある。
20年という年は、僕にとってもスワローズにとっても、泥臭く「基礎工事」をやり直す、長く険しい旅の始まりだった。
■カツノリから「監督は今朝、亡くなりました」
20年2月11日、沖縄・浦添――。キャンプ中の早朝、僕のスマートフォンが震えた。メッセージの送り主は、カツノリ(野村克則)である。そこには、恩師の旅立ちを知らせる短い言葉が綴られていた。
「監督は今朝、亡くなりました」
急ぎ東京へ戻り、最期のお姿に対面した。スワローズのユニフォームを身に纏った監督は、まるで今にも目を開けて野球の話を始めそうな、そんな穏やかな表情をしていた。
晩年の野村さんとは、お会いするたびに交わす「お約束」があった。
「お前を抑えにしてすまなかったな」「いえいえ、感謝しています」
その繰り返しが、僕たちの信頼の証だった。19年秋、監督就任の報告に行った際、野村さんはいつもの「ノムさん節」で僕を迎えてくれた。
「お前が監督か。他におらんのか?」「えぇ、いないようです」
そう返すと、監督は少し嬉しそうに笑った気がした。口には出さなかったけれど、教え子が古巣の指揮を執ることを、誰よりも楽しみにしていたはずだ。そのシーズンを見届けてもらえなかったことだけが、残念でならない。
このとき、監督は僕に最後のアドバイスをくれた。
「最下位のチームを引き受けたのだから、失うものは何もない。だから、気楽にやりなさい。弱いチームを強くしていくのはエネルギーがいることだけど、すごく楽しいぞ」
これが、恩師から僕に贈られた「最期の言葉」となった。

■ノムさんの哲学「徹底して思考すること」
僕が監督に就任するにあたって改めて見返した、かつての「野村ノート」。驚いたのは、何十年も前に書かれたものなのに、今の時代につけ加えることがほとんどなかったことだ。
野球の奥深さ、難しさ。カウントごとの心理戦。単に「投げる」のではなく、握り、回し、離すまでのプロセスを「考える」ということ。
野村監督が提唱した「ID(データ重視)野球」の本質は、データの活用以上に、「徹底して思考すること」にあったのだと、指導者になって改めて痛感している。
時代が変わっても、通用する真理は変わらない。それを現代流にアップデートしながら、今の選手たちに伝えていくことが、僕に課せられた使命だと痛感したものだった。
■恩師に恥じない野球をやっていく
野村監督は生前、「監督とは気づかせ屋だ」と仰っていた。
選手に答えを教えるのは、実は簡単なことだ。しかし、それでは本当の力は身につかない。選手自身が試行錯誤し、自分で答えを見つけるように仕向ける。そのために、監督は誰よりも選手を観察し、変化に気づかなければならない。

もし、野村さんが生きていたら、僕の采配を見て何と言っただろうか? 「話にならんな」とぼやいたかもしれないし、意外な角度からアドバイスをくれたかもしれない。
相談相手がいなくなった寂しさはあるけれど、僕の背中には常に、若松勉、古田敦也、小川淳司、真中満といった歴代監督たちの経験、そして何よりも野村監督から授かった知恵が刻まれている。
恩師に恥じない野球を――。更地から作り直す新生スワローズの歩みは、野村監督が教えてくれた「野球の楽しさ、勝つ喜び」を体現するための旅でもあったのだ。
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眥 臣吾(たかつ・しんご)
東京ヤクルトスワローズ前監督
1968年、広島県生まれ。亜細亜大学卒業後、ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。シンカーを武器に絶対的守護神として活躍し、NPB通算286セーブ(歴代2位)を挙げる。メジャーリーグ、韓国、台湾球界でもプレーした。現役引退後は、独立リーグ・新潟アルビレックスBCの監督を経て、ヤクルトの投手コーチ、2軍監督を歴任。2020年より1軍監督に就任し、21年にはチームを20年ぶりの日本一に導く。25年に監督を退任。
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(東京ヤクルトスワローズ前監督 眥 臣吾)
