ヤクルトスワローズの名将・野村克也さんは、選手たちにどんなことを教えたのか。2020年シーズンから6年間、同チームの監督を務めた眥顛淡磴気鵑蓮嶌撚式未世辰織繊璽爐隆篤弔暴任する僕を、野村監督はいつもの『ノムさん節』で迎えてくれた」という――。

※本稿は、眥顛淡磧悵Δ醗イ靴澆離好錺蹇璽此戞KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

写真提供=共同通信社
プロ野球ヤクルトの選手たちの前で講習会の講師を務める野村克也元監督=2012年11月27日午後、東京都港区 - 写真提供=共同通信社

■新米監督として意識していたこと

2019年シーズンが終わり、僕が最初に取り組んだのは、「2020年をどう戦い抜くか?」という設計図を描くことだった。

野村克也監督は、スワローズ監督就任時に「1年目に種を蒔き、2年目に水をやり、3年目に花を咲かす」と、「3カ年計画」を口にした。

もちろん、こうした長期的なビジョンも大切だけれど、当時の僕の頭にあったのは、「今年をどう変えるか?」という一点のみだった。19年のチーム状態は、あまりにも酷すぎた。防御率も打率も、そして守備率もリーグワースト。

これでは、少々のリフォームでは太刀打ちできない。そこで、一度すべてを更地に戻し、土台から作り直すことを、僕は決意した。柱がボロボロのまま屋根を塗り替えても、すぐに崩れてしまう。

一度更地にするのは勇気がいる作業だが、同じことの繰り返しでズルズルと負け続けることだけは、絶対に避けたかった。

■まずはチームの「組閣」から始めた

チームを作り直す上で、僕が最初に取り組んだのは「組閣」だ。

まずは、ヘッドコーチを宮出隆自に依頼した。彼は入団当初からよく知る仲だが、何より「厳しさの質」がいい。選手に対して厳しく当たるときも、相手の気持ちを汲み、パッと切り替えて次に進める。

「選手に嫌われない厳しさ」とでも言えばいいのか、人間として信頼できる彼を、組織の要に据えたかった。

その一方で、選手に寄り添う役割も不可欠だ。「ゴリ」こと、石井弘寿や、数々の名選手を育てた大ベテランの杉村繁さんは、技術指導はもちろん、選手の悩みや思いを丁寧に聞き出しながら進めてくれる。

河田雄祐さんや、森岡良介は人情味がありつつ、要所でパッと適切な言葉を投げかけてくれる。コーチ一人ひとりに「厳しさと共感」の役割を期待し、チームの空気を一新するための布陣を整えていった。

■「ピッチャーが弱点」のチームを終わらせたい

一方、僕がピッチャー出身である以上、投手陣の整備は避けて通れない最優先課題だった。長い間、「スワローズはピッチャーが弱点」と言われ続けてきた歴史を、自分の手で終わらせたかった。

新しく招いた斎藤隆、そして古くから知る石井弘寿とともに、投手陣を根底から作り直す。野手に関しては、宮出や杉村さんといった信頼できるスタッフにメニューから何から任せたが、ピッチャーに関しては、僕自身も深く入り込んで再建に取り組む覚悟だった。

写真=iStock.com/RBFried
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RBFried

キャンプのメニュー一つとっても、これまでと同じでは意味がない。どうすれば選手が最高の状態でシーズンに入れるか、コーチ陣と徹底的に意見を戦わせた。

現状を否定し、一から作り上げることは、これまでの流れを断ち切る怖さを伴う。しかし、ボロボロの柱で戦うよりは、まっさらな土地に新しい柱を一本ずつ立てていく方が、未来への希望がある。

20年という年は、僕にとってもスワローズにとっても、泥臭く「基礎工事」をやり直す、長く険しい旅の始まりだった。

■カツノリから「監督は今朝、亡くなりました」

20年2月11日、沖縄・浦添――。キャンプ中の早朝、僕のスマートフォンが震えた。メッセージの送り主は、カツノリ(野村克則)である。そこには、恩師の旅立ちを知らせる短い言葉が綴られていた。

「監督は今朝、亡くなりました」

急ぎ東京へ戻り、最期のお姿に対面した。スワローズのユニフォームを身に纏った監督は、まるで今にも目を開けて野球の話を始めそうな、そんな穏やかな表情をしていた。

晩年の野村さんとは、お会いするたびに交わす「お約束」があった。

「お前を抑えにしてすまなかったな」「いえいえ、感謝しています」

その繰り返しが、僕たちの信頼の証だった。19年秋、監督就任の報告に行った際、野村さんはいつもの「ノムさん節」で僕を迎えてくれた。

「お前が監督か。他におらんのか?」「えぇ、いないようです」

そう返すと、監督は少し嬉しそうに笑った気がした。口には出さなかったけれど、教え子が古巣の指揮を執ることを、誰よりも楽しみにしていたはずだ。そのシーズンを見届けてもらえなかったことだけが、残念でならない。

このとき、監督は僕に最後のアドバイスをくれた。

「最下位のチームを引き受けたのだから、失うものは何もない。だから、気楽にやりなさい。弱いチームを強くしていくのはエネルギーがいることだけど、すごく楽しいぞ」

これが、恩師から僕に贈られた「最期の言葉」となった。

野村克也とつば九郎(写真=shi.k/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons)

■ノムさんの哲学「徹底して思考すること」

僕が監督に就任するにあたって改めて見返した、かつての「野村ノート」。驚いたのは、何十年も前に書かれたものなのに、今の時代につけ加えることがほとんどなかったことだ。

野球の奥深さ、難しさ。カウントごとの心理戦。単に「投げる」のではなく、握り、回し、離すまでのプロセスを「考える」ということ。

野村監督が提唱した「ID(データ重視)野球」の本質は、データの活用以上に、「徹底して思考すること」にあったのだと、指導者になって改めて痛感している。

時代が変わっても、通用する真理は変わらない。それを現代流にアップデートしながら、今の選手たちに伝えていくことが、僕に課せられた使命だと痛感したものだった。

■恩師に恥じない野球をやっていく

野村監督は生前、「監督とは気づかせ屋だ」と仰っていた。

選手に答えを教えるのは、実は簡単なことだ。しかし、それでは本当の力は身につかない。選手自身が試行錯誤し、自分で答えを見つけるように仕向ける。そのために、監督は誰よりも選手を観察し、変化に気づかなければならない。

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もし、野村さんが生きていたら、僕の采配を見て何と言っただろうか? 「話にならんな」とぼやいたかもしれないし、意外な角度からアドバイスをくれたかもしれない。

相談相手がいなくなった寂しさはあるけれど、僕の背中には常に、若松勉、古田敦也、小川淳司真中満といった歴代監督たちの経験、そして何よりも野村監督から授かった知恵が刻まれている。

恩師に恥じない野球を――。更地から作り直す新生スワローズの歩みは、野村監督が教えてくれた「野球の楽しさ、勝つ喜び」を体現するための旅でもあったのだ。

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眥 臣吾(たかつ・しんご)
東京ヤクルトスワローズ前監督
1968年、広島県生まれ。亜細亜大学卒業後、ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。シンカーを武器に絶対的守護神として活躍し、NPB通算286セーブ(歴代2位)を挙げる。メジャーリーグ、韓国、台湾球界でもプレーした。現役引退後は、独立リーグ・新潟アルビレックスBCの監督を経て、ヤクルトの投手コーチ、2軍監督を歴任。2020年より1軍監督に就任し、21年にはチームを20年ぶりの日本一に導く。25年に監督を退任。
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(東京ヤクルトスワローズ前監督 眥 臣吾)