76年のデビューから50周年! “ゲテモノ扱い”から“国民的スター”にのぼりつめた「ピンク・レディー」伝説 いまや“定番のお茶”を流行らせた実績も
1979年9月10日放送の「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)にて、2人が「痩せるためにウーロン茶を飲んでます」と発言。この年の5月より飲料メーカー、伊藤園が日本向けに売りだしていたが、このコメントにより一気にブレイク。翌年2月までの在庫がすぐに無くなったという(※その後、ブームに乗じて粗悪品が出回ったため、1981年に同社が缶入り飲料を発売)。
ピンク・レディーが、1976年にデビューしてから、50年を迎えた。ミー(根本美鶴代)とケイ(増田惠子)のコンビは、何故、圧倒的な人気を獲得し、されど数年後、一旦は解散したのか? メモリアルイヤーを機に、解題したい。(文中敬称略。役職は当時)
「クッキー」、「白い風船」(仮)を経て、「ピンク・レディー」へ
ミーとケイは、もともと中学、高校の同級生同士。互いに、歌手になりたいという夢があり、地元、静岡のボーカルスクールに通い、2人でオーディションに挑戦し始めた。この時のコンビ名は「クッキー」だったという。

高校卒業間近の1976年3月14日、日本テレビの老舗オーディション番組「スター誕生」の決勝大会で、音楽会社2社からスカウトの打診があり、プロ歌手へ。実はこの1週間前、下見会と称する同番組の事前審査があった。そこで2人は、こうアピールする。
「高校の卒業式まで1カ月もないのに、私たち、まだ進路が決まってません! どうか就職させて下さい!」
当時は13歳でデビューした森昌子など、中学在学中にプロになるアイドルも多かった。2人は必死だった。
偶然にも、スカウトしたビクターの飯田久彦ディレクターが双子姉妹のシンガー、ザ・ピーナッツを好きだったことが幸いする。ザ・ピーナッツは前年の1975年に引退していた。飯田は、この後継者を育ててみたく思い、ミーとケイのコンビに目をつけたのである。
よって、最初はフォーク・デュオ「白い風船」としてデビュー予定だった。ところがそのデビュー日が、50年前のちょうどこの時期、8月25日となったことも、2人の運命を変えて行く。この時期のデビューとなると、同年の各音楽賞の新人賞へは、出遅れ過ぎていてとても狙えない。他の新人賞候補はハスキーボイスで実力派の内藤やす子、朴訥としたイケメンの新沼謙治、愛くるしい芦川よしみ、正統派二枚目の角川博と粒ぞろい。もしワンチャンスあるとすれば、とにかく変わったことをやって、インパクトを残すことであった。
そこで2人を踊らせることにした(なお、ミーもケイも高校時代は演劇部で、ダンスの経験はない)。デュオ名は、音楽性も見えて来そうな「白い風船」から、目新しい「ピンク・レディー」に変えた。もとはカクテルの名前であり、2人とは長く組むことになる作曲家の都倉俊一の命名である。2人の声はキーも違い、全く異質だが、都倉が言うには、〈ソロで歌わせると高が知れていた〉(朝日新聞。2011年1月15日付)。融合性に期待しての、カクテルからのネーミングでもあった。
出で立ちは、この時節の流行だったロングスカートとは真逆のホットパンツに。極め付けはデビュー曲の「ペッパー警部」と、その振り付けだ。得体の知れないタイトル、少しきわどい歌詞に、若干ながら股を開く振り付け……いざ披露すると、前出の飯田は会議で、こう怒られたという。
「こんなゲテモノを、世に出して良いのか⁉」
こちらもピンク・レディーとは長く組むことになる作詞家の阿久悠は、ピンク・レディーがデビューした直後、声楽界の大御所、松田トシ(松田敏江)にこう言われた。
「あれ、少し下品じゃないかしらね?」
しかし翌年3月、初めてのコンサートを開いた時のことだ。関係者は、その意外な客層に驚く。ほとんどが親子連れだったのだ。ミーとケイを観たがる幼稚園や小中学生の子どもにせがまれて、親が同行したのだった。ピンク・レディーの人気は、子どもが支えたのである。
「ザ・ベストテン」第1回放送第1位
「オリコン」調べによれば、1978年の10月時点で、ピンク・レディーの支持層は、3歳から12歳までが、42.5%。児童向け雑誌「小学六年生」(小学館)では、1977年5月号から1979年3月号まで、スター人気ランキングの1位だった。
阿久悠の回想がある。
〈これまで日本では、情緒的な共感がないと歌として成立しなかった。ぼくは、そうでない、無条件な人生賛歌、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさをピンク・レディーでやれた〉(朝日新聞。1981年1月24日付夕刊)。そして、こう総称している。
「ピンク・レディーの歌詞は、大フィクション」
「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」「サウスポー」「モンスター」etc. おもちゃ箱をひっくり返したような、文字通り遊び心溢れる架空の世界は、歌詞にメッセージを求める大人世代より、マンガ、アニメに慣れ親しみ、驚きや期待を欲する子どもたちにフィットしていたのだ。それは、新たなレコードの購買層でもあった。
そして、振り付けである。当初はあくまで、他の新人歌手との差異をつけるための戦略だったが、こちらも子どもたちに大ウケに。当時の横浜市の小学生(低学年)の発言を紐解こう。
〈学校でもね、給食のときUFOかかったら、みんな立って踊っちゃった〉(朝日新聞。1978年4月16日付)
この頃のピンク・レディーは「雑誌の撮影は15分以内」とお触れを出すほど多忙で、「UFO」の振りも発表直前の2時間でマスターしたらしいが、そんな大振り感も、子どもにはプラスに作用したようだ。
1977年のピンク・レディーのテレビ出演数は303回。そして、翌1978年1月19日にはランキング制音楽番組「ザ・ベストテン」(TBS系)が始まる。この1回目の放送からして、1位はピンク・レディーの「UFO」だった。以降、ピンク・レディーは毎週のように同番組に登場し、ファンの“振り付け熱”にも拍車がかかった。
〈「サウスポー」を踊ろう!〉(「微笑」1978年4月29日号)
〈「透明人間」の踊り方です〉(「女性セブン」1978年10月5日号)
雑誌でもグラビアの定番コーナーになるほどだった。
2001年、関西の人気番組「探偵!ナイトスクープ」で「ピンク・レディー世代の女性は、曲を聴くと踊れる」という噂の検証の依頼があったが、申し出を快諾した街行く女性たちは、ほぼ完璧に踊れていた(2月9日放送分)。ピンク・レディーこそ、まさにテレビ時代の申し子と言って良かった。
紅白歌合戦と一騎打ち
1978年はピンク・レディー人気がピークに達した年だった。1月から11月までのテレビ出演回数は280回、キャラクター商品は36社から300種類以上を数え、Tシャツだけで140万枚以上の売上げ、10月にはテレビ東京で半生がアニメ化。12月には映画に主演(※1)。秋には「赤い羽根共同募金」のキャラクターと、第1回の「愛は地球を救う」(日本テレビ系)のチャリティーパーソナリティーを務めた。
夏には2人の地元、静岡県警のポスターに起用され、コピーは〈近ごろすこし、地球の道路はマナーしらずよ!〉。オリコン10週連続1位で、約155万枚を売り上げた「UFO」の歌詞が力づくでトレースされているところに、当時の威勢が感じられよう(※2)。なにしろこの時期、所属事務所が取引先に渡す、これらのデータも集めた彼女たちの資料の名前は、以下だったのである。
「ピンク・レディー・ギネス」
年末の12月31日には、「UFO」で、日本レコード大賞を獲得――しかし、この日を境に、ピンク・レディーの勢いはペースダウンして行く。約2カ月前に出た報道が発端だった。
〈紅白出場辞退〉(「スポーツニッポン」1978年11月2日付、他)
この年の10月13日、東京・葛飾区の盲学校を訪れたミーとケイは、生徒たちが自らの曲を振り付けで歌ってくれたことに感動。「コンサートを開き、彼らを招待したい」としていたが、そのために空いている日程が大晦日しかなかったので、と事務所側が説明。すると、取材が集中した盲学校側は、「招待も含め、そんな話は全然聞いてない」と困惑。結局、日本テレビにより、大晦日のコンサートが紅白の裏で生中継されることとなった。
しかし大みそか当日、TBSで行われたレコード大賞授賞式に2人はしっかり登壇しており、「紅白に一泡吹かせたかった日本テレビ側と所属事務所の組み上げた企画では?」と見られた。会見で、「私たちだけが幸せなのは良くない」と涙を見せた、2人が抱く福祉への気持ちは本物だったが、周囲の状況で美談仕立てとされる報道もあり、ピンク・レディーへの注目は漸減して行く。
翌1979年からは一転、アメリカ進出にチャレンジする。英語詞のシングルはビルボードで37位まで上昇。米の3大ネックワーク、NBCで毎週金曜夜8時にレギュラー番組も持つなど健闘したが、長く続かなかった。この頃のピンク・レディーは、ドレス姿や(TVでの)入浴シーン等、アダルトな魅力を打ち出そうとしていた。キャリアを積み、活動する国を変えての路線変更でもあったが、受容には至らなかった。
そして1981年3月31日、後楽園球場にて解散ライブ。この模様は日本テレビで生中継されたが、前段にバトントワリングやブラスバンド、ファン代表の行進があり、「ミーとケイの入場は、午後3時6分となります」とアナウンスされるなど、完全にテレビの放送時間と合致させた仕様で、CMに合わせて曲はブツ切れに。コンサートの最後、感極まった2人は抱き合うのだが、陰で放送時間を気にするテレビ関係者が「早く『さようなら』の挨拶を」と急かす姿も報じられた。
翌日は〈テレビのワク内に閉じ込められ、ピンクは最後まで“商品”だった〉(スポーツニッポン)など、前向きとはいえない報道が相次いだ。ただ、阿久悠が贈ったラストシングル「OH!」の歌詞が、彼女たちが世間に与え続けて来たものを反語的に物語っていた。
〈この世に驚きやときめきがなくなれば 季節はいつも冬を動かない〉
「昔は身を削ってたけど、今は寿命を削ってる(笑)」
45歳になったケイが、息を切らせてステージ上から告げる。
「昔は身を削ってる感じだったけれど、今は、寿命を削ってる感じです(笑)」
隣でミーが応じる。
「でも、年を重ねるのは、素敵なこと」
満員の観客が、大拍手で応える。2人は1996年に20周年を祝して一旦復活。2003年からは本格的に復活し、2年に及ぶツアーをおこなった。会場はどこも鈴なり超満員で、メディアとしては「ピンク・レディー フリツケ完全マスターDVDブック」(講談社)が2巻、2人の解説付きで発売。ツアーの密着番組も放映され(※3)、歌唱シーンは歌詞の字幕付きだった。丹念に臨んだこのツアー後の観客の感想が、以下で埋め尽くされていたのも感慨深い。
「振り付けが完全にスキルアップしている」。
2005年2月13日には、大阪城ホールで行ったコンサートは、2人がやりたくてしょうがなかった、障害者支援のための催しだった。手話を交えステージを繰り広げる2人の姿がそこにあった。
2011年からは適宜、復活している2人。ちなみに2003年のツアーでは、“戦友”阿久悠(2007年に逝去)から、最後の新曲を贈られている。タイトルは「テレビが来た日」だった。以下に歌詞を抜粋したい。
「テレビが来た日
テレビが来た日
それは家族が増えた日」
ピンク・レディーは、テレビが家族だった時代の、最高にして永久のヒロインである。
※1:アニメは10月3日、午後7時半から放送の「ピンク・レディー物語 栄光の天使たち」。映画は12月16日公開の「ピンク・レディーの活動大写真」。
※2:「UFO]の売上枚数はオリコン調べ。また、静岡県警のポスターはもう一種類あり、煽り文は「UFOだって交通安全よ!」だった。
※3:日本テレビ系「スーパーテレビ情報最前線『人気復活!ピンク・レディー47歳の挑戦!!〜だから私たちは歌い踊り続けたい…』」(2005年4月18日放送)
瑞 佐富郎
愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。「デイリー新潮」での執筆等、プロレス&格闘技ライターとしての活動が中心で、著者も多数上梓しているが、ライブハウス通いを好み、音楽にも造詣が深い。携わった書籍に『All You Need Is THE BEATLES』(宝島社)などがある。
デイリー新潮編集部
