昭和20年5月28日、知覧飛行機での出陣式(画像提供/板津昌利さん)

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 81年前、敗戦の気配が濃厚に漂う中で、最期まで「お国のために」と決死の特攻で帰らぬ人となった若者たちがいた。平均年齢21.6才。彼らは何を思い、散っていったのか。鹿児島・知覧の地にいまも残る特攻隊員たちの遺書には、母への愛、家族、恋人への思い、そして「生きたかった」という言葉にならない叫びが刻まれている。

【写真を見る】「知覧特攻遺品館」に展示されている遺書や手紙

 林の中に建てられた簡素な木造の建物。半地下式で地上には三角の屋根部分が見えることから「三角兵舎」と呼ばれるそこで、数日後に特攻を控えた青年たちは"最後のとき"を過ごしていた──九州南部にある知覧特攻平和会館は、かつて陸軍の特攻基地があった土地に建てられ、太平洋戦争末期、爆弾を積んだ戦闘機ごと敵艦船に体当たり攻撃を行った特攻隊を偲ぶ貴重な資料が並ぶ。戦後81年を迎えた今年は、前述の三角兵舎を軸とした企画展が行われている。館長の川崎弘一郎さん(崎はたつざき)が話す。

「隊員たちが出撃までをどのような兵舎で、どのように過ごしたのか。当時の写真や学芸員が自作で再現した模型で解説し、家族に宛て書き残した手紙や遺書を通して隊員の心情をより深く紹介しています」

 館内には、太平洋戦争末期の1945年3月から始まった沖縄戦における旧陸軍の全特攻死者1036人(17〜32才)の遺影や遺品、遺書を展示している。

「知覧基地跡地に整備されていた運動公園に休憩所が新築され、その2階に特攻隊員の遺品や遺書を展示する『知覧特攻遺品館』を開館したのが、戦後30年にあたる1975年です。その後、元特攻隊員やご遺族、戦友によって集められた資料が次々と展示されるようになり、1987年に現在の施設になりました。特攻隊員の遺影や遺書のほか、特攻に携わったかたのインタビュー映像なども展示されています」(川崎さん)

 これらの膨大な資料をたったひとりで収集を始め、平和会館の初代館長になった元特攻隊員がいる。

「生き残った負い目は死ぬまで消えません」。陸軍第213振武隊に所属した元特攻隊員の板津忠正さん(2015年に享年91で逝去)は、口癖のようにそう口にしていたという。忠正さんの長男、板津昌利さんは、当時の父の胸中を次のように語る。

「父は特攻隊員になりたくて仕方なかった人でした。いずれ人は死ぬ、ならば親きょうだいを守るために死にたい、と志願した。しかしそれは叶わなかった。

 終戦後は名古屋市役所に勤務するかたわら、特攻隊員のご遺族を捜しては慰霊のために訪問し、生前の様子を説明して回っていました。ご遺族に謝りたい一心だったと思います」

 1925(大正15)年生まれの忠正さんは18才で逓信省米子航空機乗員養成所に入所。ミッドウェー海戦などで熟練搭乗員が多数戦死したことを受けて陸軍特攻隊員となり、1945(昭和20)年5月28日に知覧飛行場から沖縄に向けて出撃した。だが、エンジン不調により徳之島に不時着。その後も、2度の出撃命令も天候不良で中止となり、失意のうちに終戦を迎えた。帰らぬ"同志"の遺族への訪問は全国におよび、慰霊とともに隊員の遺影や遺書、そして遺品の収集を始めたという。

「戦後の復興期には、戦時下とは180度転換し『軍国主義時代のものはすべて悪だ』『特攻は犬死にだ』などと言われ始めた。それを、戦勝国の外国人が言うならまだしも、ともに戦ったはずの日本人が言うのを父は許せなかったのです。同時にこのままでは100年、200年先に歴史学者が評価するとき『特攻なんてなかった』と特攻隊が"亡き者"として秘されてしまうのでは、と危惧した。そこで特攻隊の事実を語り継ぐために、隊員1036人すべての遺影を集めようと決意したのです」(昌利さん・以下同)

「あの世できっと喜んで居ります」

 忠正さんが初めて読んだ隊員の手紙は、第69振武隊に所属し、22才で出撃した柳生論少尉の遺書だった。

〈男としての行くべき道に立ち居候 小生の短き命の最期の幸福之一つに存候 最期に大きな仕事を成す事の出来るは非常なる喜びにて御両親様も共々御喜下度候〉〈最期に御両親の御健康と御幸福を祈り申し上候〉

 この手紙を読み、改めて散っていった仲間たちの手紙を集める決意を固めたのだ。軍関係の資料は終戦直後に焼却処分され、当時はインターネットもない時代。沖縄戦で散華された陸軍特攻隊員全員の遺族を捜し当てるまでの過程で、心無い言葉をかけられることも少なくなかったという。

「遺族から『お前はエンジン不調などと言って逃げたんだろう』と罵倒されたり、門前払いされたこともあったようです。でも、後に罵倒した遺族から『息子を特攻で失った憤りをあなたにぶつけてしまって申し訳なかった』という手紙を受け取っていた。父の没後にこの手紙を発見し、父の気持ちを思うと涙が止まりませんでした」

 そんな苦労の末の1995年、忠正さんは陸軍の特攻作戦による全戦没者1036人の遺影を集め終えた。板津さん父子にとって最も印象に残った遺書がある。

「遺書は母親や家庭を顧みた、感謝と愛情を伝えるものが多い。そんな中、いちばん印象に残っているのは、宮城県出身で5月4日に出撃した第77振武隊の相花信夫さんの遺書です。慈愛深く育ててくれた継母を『母』と呼べなかった後悔。お母さまがどんな気持ちで読んだか、察するに余りある。

 父の人生が書籍に採録された際にも、この遺書を紹介しています。父にとっても印象的な遺書だったと思います」

〈母上お元気ですか。永い間本当に有難うございました。我六歳の時より育て下されし母。継母とは言へ世の此の種の女にある如き不祥事は一度たりとてなく、慈しみ育て下されし母。有難い母 尊い母。俺は幸福だった。

 遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい。さぞ淋しかったでせう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん、お母さんと〉

 生前の忠正さんが、読み返すうちに暗記してしまった手紙もあった。20才で出撃した第104振武隊所属の松戸茂少尉の手紙もそのひとつだ。

〈どうか茂るが戦死の報に接しましても、絶対不覚をとるが如きことなく、父母様始め一同笑って万才を唱えて下されば茂は幸甚のいたりと思い、あの世できっと喜んで居ります〉

 忠正さんの遺志を継ぎ、昌利さんも記憶を語り継ぐ活動を続けている。

「父の信条は『特攻を風化させてはならない。美化してもならない』でした。爆弾を積んだ戦闘機もろとも敵艦船に体当たり攻撃するという人類史上類を見ない『特攻作戦』があったという事実、そうした若者たちの犠牲があっていまの平和な日本があることを、決して忘れてはならない。それこそが父が隊員たちの遺影や遺書を集め続けた意味だと思います」

婚約者の幸せを願う「ラブレター」

 知覧特攻平和会館で最高齢の語り部を務める川床剛士さん(86才)は自らも戦争で父を亡くし、26年間にわたり来館者と向き合い続けている。

「戦争の悲惨さを後世に伝えていくことは、先の大戦で戦死した父の思いを伝えることでもあり、自分の使命なのかもしれないとの思いで語り部になることを決めました」(川床さん・以下同)

 展示された言葉は、来館者の心を強く揺さぶる。

「遺書には『どうか泣かないで』『戦果を知ったならば、お団子でも作って周りの方に配ってください』という死を目前にしてなお、他者を思いやる言葉が多く並びます。特攻隊員たちの遺書を読んで、『このままでいいんだろうか』と考えを改める人も多いようです」

 隊員には10代の若者も多く、母や家族への思慕をしたためた言葉は来館者の胸に深く響くが、20代、30代の隊員の手紙には「愛」が綴られたものも少なくない。川床さんが話す。

「福島県出身で第20振武隊の穴澤利夫さんが、婚約者の智恵子さんに宛てたラブレターは印象的です。自分といた過去にこだわらず新しい人生を生きよ、幸せを願う以外に何もないと綴っている。家族がいて、恋人がいる普通の人たちが戦場に行っていた事実は、現代の来館者にも響いているようです」

〈「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない」
「徒に過去の小義に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない」
「勇気を持って、過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」
「あなたは、今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には、もう存在しない」〉

 隊員たちが残した言葉に救われる人もいれば、大切な息子や恋人、夫の「最期の思い」に一生とらわれてしまう遺族も少なくない。元特攻隊員や遺族への取材を多数手がける、産経新聞客員編集委員の宮本雅史さんが言う。

「婚約者が知覧から特攻隊として出撃、散華したという高齢女性を20年以上にわたり取材してきました。彼女のお墓参りに同行すると、薄化粧をしてよそ行きの服を着て、墓石を洗いながら婚約者に話しかけて大声で泣いていた。彼女の死後、かねて頼まれていた通り沖縄で散骨をしましたが、それは婚約者が眠る海です。

 鮮やかで美しい海面に吸い込まれていったとき"これでようやく彼女の戦争が終わった"と感じました。彼女が私に言い残した言葉は『あの人たちは何のために死んだの?』でした」

 国のために、家族のために──特攻での死は美徳と称えられ、彼らは英雄として海に散っていった。そこでは"本音"など話せるわけもないが、出撃する隊員たちの決して口にできない思いが綴られているのも、遺書である。

「ある元特攻隊員のかたは戦友から『行きたくない』と相談されたことがあった。そのときは『みんな同じだが、口に出してはいけない。家族やふるさとを守るために行くんだ』と話したといいます。特攻隊員の遺書や手紙を読むと、誰ひとり手柄も名誉も求めず、ただ強い使命感を帯びて出撃していったのです」(宮本さん・以下同)

 宮本さんは忠正さんとも交流があり、「彼は特攻隊の歴史の"美化"」を警戒していたと強調する。

「特攻機の燃料は満タンだった。"片道分だけで突撃"というのは、戦後の作り話だと言うのです。『"自己犠牲の象徴"と美化する連中が勝手に作ったことで、事実ではない。これだけは必ず訂正してくれ』と板津さんは強く訴えておられた」

アメリカと戦争した過去を知らない

 語り手や遺族の高齢化が進む中、このように事実が歪められたり、風化を防ぐための教育や記録の保存が求められている。

「何年か前に知覧の特攻平和会館で聞いたのですが、いまの子供たちの中には日本がアメリカと戦争をしたことさえ知らない子も少なくない。『アメリカなんかとけんかして負けるに決まってんじゃん』『特攻? 自分で死んじゃったの? バカじゃないの?』とさえ言うと。ところがそういう子たちも遺書や手紙を読むと、みんな泣き出します。会館を出るときには顔が変わっているそうです。これが本当の平和教育です。

 国を守ること、平和とは何か、人の命の尊さとは。それを学ぶためにも、特攻隊員たちの思いを多くの人が知ることは、必要なことだと痛感しています」

 今年も終戦の日が近づいている。家族に会うことも叶わず、空に、海に散っていった隊員たちの声にいまこそ耳を傾けたい。

※女性セブン2026年8月20・27日号